《ラウルside》
リディアと初めて会ったのは、マイヤーズ辺境伯領の最北端にある砦だった。
ここより北はすべて隣国に占拠されてしまっていて、俺たちが到着するとすぐに街や村の奪還が行われた。
『ちょっと!あなた血がついていますよ!?ケガしてるなら、今すぐこっちに来てください!』
温かみのある茶色の髪に、目鼻立ちのくっきりした美しいかんばせ。女性を喜ばせることに慣れているエドフォード様なら、きっと彼女のことを花にでも例えたろう。
まだ幼さの残るその顔は、愛らしさに勝る意志の強さを感じた。
『これは返り血だ。問題ない』
そう言えば怯えて去っていくだろう、そう思った俺はわざと冷たい口調で返事をした。
それなのに、彼女はくわっと目を見開いて怒鳴った。
『はぁ!?返り血って、ダメに決まってるでしょう!?感染症や疫病になったらどうするの!あなただけの問題じゃないの、早く拭いて!』
いくら鎧を着けていないとはいえ、大の男にここまで言うとは。
じっと見つめると、彼女はぷりぷりと怒ってタオルを渡してきた。
『いいですか!自分以外の血は触ったらダメだし、持ち込み禁止です!』
『わかった』
彼女は他の騎士たちにも同じことを言って回り、消毒薬や傷薬、飲み薬などを配って歩いていた。あの細く白い手足で、傷ついた男たちの世話をするのは心配だったが、数日も経てばそんな姿も見慣れたものとなる。
特にエドフォード様の治療を行ったのには驚いた。
王都まではとても保たないのに、誰もかれも責任を取りたくないからと言って王子に触れようともしない。
教会へは一応聖女の派遣を頼んでみたが、奴らは返事すら寄越さなかった。
あの地で頼れたのは、リディアのいた治癒団だけ。
見事に病を治してくれたことは、感謝してもしきれない。
ただ、彼女は鎧と兜をつけているときの俺を、初日に怒鳴った男だとは思っていないらしく、今度は愛らしい笑みを見せてくれた。戦場に咲いた花とはこのことだ、と厳つい騎士らの間では和ませてくれる存在として称えられていた。
あれから数年。
まさか生きる希望を失った俺の前に、もう一度リディアが現れるとは夢にも思わなかった。
『あの……何かご用でしょうか?』
薬屋の前で出会った彼女は、すっかり大人の女性に成長していたが、かつて出会った薬師の娘だとすぐに気づいた。こんな偶然があるとは、と少しだけ感情に波が起きる。
俺が生け贄になりに来たと告げると、なぜかリディアはすごい剣幕で怒り出した。
彼女は俺のことを直接覚えていたわけではなく、黒騎士としての姿と名声だけを知っていた。
『生きたいと願う理由がないですって?生き死には個人の自由かもしれないけれど、それならこっちだってあなたに死んでもらいたいって思う理由がないわよ!ふざけないで!人の店に死にに来ないでくれる!?』
まさか二度も同じ娘に叱責されることになるとは。
そして、誰もが積極的に俺の腕を治そうとしなかったのに、自分が作った薬の実験体になれとまで言う。
変わった娘だ。
こうして俺は治療を受けることになったのだが、リディアは俺の想像を超える無茶をしたようだ。
治療ははっきり言って地獄だった。
騎士団の訓練よりもずっときつい。
熱に浮かされ、意識を失ってはふと目覚め……その繰り返しで。
短く途切れ途切れに見る夢は、剣の師匠やディノ、それから先に逝った部下たちが現れて、治療の苦痛を超える痛みがあった。
もう嫌だ。
消えてなくなってしまえたらどれほどいいか。
そんなことばかり頭をよぎる。
けれど、いつだって目を覚ますとそばにリディアがいた。
その大きな瞳が不安で揺れている。
薬師としての矜持なのか心配性なのか。
汗を拭いてくれる手は優しく、かけられる声は涼やかで心地いい。
この人は、俺が消えれば悲しむだろうか。ぼんやりとした視界で、そんなことを考える。
笑ったり怒ったり、せわしなく表情を変えるリディア。
頼もしいことをいい、勇ましく啖呵を切ったかと思えば、無防備に寝間着で俺の目の前に現れたりする。
つらい思いはさせたくない。
そんな感情が湧き上がる。
そして、笑う顔も怒る顔も、不安で曇った顔すらも、もっと見ていたいと思ってしまった。
左腕が治ったとわかったとき、リディアは心の底からうれしそうな顔をした。
『っ!よかった~!!』
本人がずっと握りしめていた両手は白くか細く、かすかに震えていて。俺自身はそこまで危険な状態だと自覚がなかったわけだが、魔力過多症になって意識を失っていたらしい。
騎士団でも、年に数人は魔力過多症で治癒院に入院する者がいて、その症状は様々だ。しかし危険な病だということは知っている。
『これでまた剣が握れるわね!』
涙ぐんで微笑む彼女を見ると、言葉に困った。
礼を言わなくては、と思うのにそれが出てこない。
たった一週間。再会してそれほど時間を重ねてもいないのに、彼女のそばでその姿をずっと見ていたいと思っている自分に気づく。
気の迷いだ。
七つも年下の娘に、そんな感情を抱くはずがない。
今は弱っているから、気の迷いに違いない。
自分にそう言い聞かせてその日はベッドで休んだ。
数日後、順調に回復していった俺は、身体の回復に反して精神的におかしくなってしまった。そうとしか思えない。
リディアの姿を目で追ってしまい、彼女が笑うたびに胸が躍るような気分だった。
ノルンからは射るような視線を受け、模擬戦でおそろしく鋭い突きをもらいそうになったが、そんなことは些細なことで。
彼女のことをもっと知りたい。
そう思う気持ちは次第に大きくなっていった。気の迷いと片付けることはできなかった。
数日後、リディアにすべてを話そうと決意して、共に山へ向かった。挙動不審だと指摘されたのは不本意だが、朝から落ち着かなかったのは事実だから仕方がない。
俺はイズドール卿との確執や弟子のディノのこと、腕をケガしてからのことをリディアに話した。彼女は相槌をうちながら聞いてくれて、ときに私のために怒ってくれた。
そして、俺はまだリディアに言っていない「ありがとう」という言葉を伝えたいと思った。
それなのに口から出たのは、おそろしく情けない言葉で。
『俺が生きていていいのかはわからない。この腕が治ったことを喜んでいいのか、それすらわからないんだ。』
違う。
こんな弱音を吐きたかったわけじゃない。
そう思ったところでもう戻せない。
しかしリディアは、優しく微笑んでくれた。
『あなたは喜んでいいの。情けなくなんてない。今つらいのは、ちょっとがんばりすぎただけよ、大丈夫』
ふと、頬に冷たいものが伝うのを感じた俺は、慌ててリディアを腕で掻き抱いた。無意識だった。
涙も、抱擁も。
ふわりと甘く優しい香りがして、どうしようもなく感情がこみ上げる。長い髪に顔を埋めてリディアの柔らかな身体を抱き締めていると、自分のこれまでのことが許される気がした。
単純なものだ。実に滑稽なことだと我ながら思う。
どれくらい時間がかかったかはわからないが、俺はようやく伝えることができた。
『ありがとう』
何も言わずにいてくれるリディア。
俺はこのとき、彼女のために生涯生きていきたいと思ったのだった。
***
いよいよリディアの師匠が戻ってくる日がやってきた。
ここへ来て2週間。共に暮らす日々は穏やかで幸福感に溢れたものだった。リディアがいつ俺を王都に戻そうか考えているのは薄々感じていて、俺は気づかぬふりをしてその話題を避け続けている。
誠実さのない態度だと自覚はあるが、早く帰れと言われたくなかった。
料理をしたり、護衛をしたり、荷運びを手伝ったり、俺はそばに置いてもらいたいということをアピールしたつもりだったが、リディアにはまったく伝わっていない。
直接、気持ちを伝えなくては。
そう思った俺は彼女と二人きりになって思いを告げた。
『これからは、リディアのために生きたい』
『ごめん、そういうのいらないわ』
即刻、断られたのは意外だった。見合いはいずれすると聞いていたが、恋人はいないはず。それなのになぜ一瞬の思案もなく、いらないと断られてしまったのか。
俺はリディアに詰め寄った。
『リディアは俺を救ってくれた。生涯、君を守りたい』
『リディアのそばにいたい』
特別になりたい。
触れてもいい権利が欲しい。
ずっと隣で生きていきたい。
思いを込めて伝えたつもりだった。けれど彼女は、顔面蒼白になって拒絶の意を示すだけ。
性急すぎだか?
彼女は自分のことを、男に好まれない女だと思っている節がある。それは無防備なところや警戒心のなさから感じ取れるものだった。
誰がどう見ても美人に分類される顔立ちなのに、自己評価が低い。仕事に夢中で、患者かそれ以外かという基準でしか人を見ていない。
俺は彼女と過ごせば過ごすほど、不安になっていった。うかうかしていると、俺のように抑えの利かない男に強引に迫られるかもしれない。
俺は自分がどれほど本気か示すため、リディアに騎士の求婚を行った。
ニース王国の騎士は、主人に忠誠を誓う場面では片膝をついて剣を右手で前に掲げる。主人は剣に右手で触れて、祝福の言葉を与えると主従関係が成立するのが習わしだ。
そして婚姻の申し込みの際には、想い人の右手を取り、その指や甲に口づける。
すでに廃れた儀式かもしれないが、本気だということを示すにはこれがいいと思ったのだ。
『ラウル・グレイブの名に誓う。俺は生涯、君の剣となり盾となろう』
『誓うな!』
なぜだ!?
出会ってから日が浅く、互いのことを知らないから拒絶するのか?
わからない。
政略結婚なら、結婚式で初めて顔を合わせることもある。リディアもその所作から貴族であることはわかる。なのに俺の求婚を一瞬で断るということは……
男として見られていないのか?
それとも弟子に裏切られるような男は願い下げだと?
あぁ、懐かない猫のように怒る顔もまたかわいらしい。
まさか自分が、ここまで一人の女性を繋ぎとめたいと思うとは。これまでの人生では考えられない。
12歳で初めて戦場に立ち、それからは王都の邸で剣術の訓練と戦場を行ったり来たり。師匠から武具を受け継いだ後は、騎士団で戦うことだけを考えて生きてきた。
それが今はどうだ。
難攻不落の砦を落とすよりも、目の前にいるリディアを頷かせる方がむずかしいように思える。
彼女の部屋でつい焦って抱き締めると、身を強張らせたのがわかった。
怖がらせたかったわけではない。
ただ、俺のことを男として見てもらいたかった。
エドフォード様が女性の気を引こうと、あの手この手を尽くしているのを見て「なぜそんなことが必要なのだ」とつくづく疑問に思っていたが、今なら気持ちがわかる。
どれほど見苦しくても俺はリディアを手に入れたい。
もとより捨てるつもりだった命だ。
初めて自分のために使ってみようと思う。
『この先、リディアを口説き落とせば俺の勝ちだろう?』
時間はある。
いつも気丈な彼女を甘やかして、俺なしでは生きていけないようにしてやりたい。
顔を真っ赤に染めて睨みつけてくるリディアは、何て愛らしいのか。薬師としての腕は確かだが、色事は縁遠いのがわかる。
これからの彼女との暮らしを思えば、自然と笑みが零れた。
とりあえずは、戻ってきた師匠とやらを何とかしなくては。生け贄を募るような魔女だが、リディアの師には変わりない。
しっかりと挨拶をして、リディアを貰い受けなければ……。





