理由がない
1階に下りていくと、彼はまだ同じ場所に立ったままだった。
私を見ると「早いな」とだけ言って目を瞬かせる。
あぁ、何このきれいな人……お師様もきれいだけれどまたタイプが違う神々しさだ。
鋭く尖った雰囲気が軍神っぽい。
私も一般的な女性としての感覚は持ち合わせていて、カッコイイ人を見るとときめくし楽しい気分になる。あぁ、でもなんで生け贄……?美形がいても喜べない状況だ。
私はカウンター越しに彼の正面に立ち、状況を説明する。
「お師様が昨日から二週間、診察旅行に出かけてしまって不在です。私はさっき王都から戻ってきたばかりで、何も聞いていないんです」
生け贄だなんて、何かの間違いだと思うんだけれど……。
彼は「そうか」とだけ答え、困っているようだった。
「とにかくいったん座ってください。せっかくコーヒーを淹れたので……」
生け贄になりたい男がコーヒーを飲んで寛ぐだろうか。
ふと疑問に思ったけれど、いくら考えても生け贄の気持ちなんてわからないからいつも通り振舞うことにした。
彼はゆっくりとした所作でドラム型の袋を置き、スツールに腰を掛ける。
白い湯気を立てるコーヒーカップをカウンターに置き、砂糖とミルクポットを添えた。
「申し遅れました……私はこの店をやっている薬師です。リディアといいます」
彼は砂糖とミルクには手を付けず、コーヒーカップに指をかける。
「ラウルだ。ラウル・グレイブ」
「……はぃ?」
おかしいな。
確か黒騎士様もラウル・グレイブという名前だったような。
彼の顔をまじまじと見つめると、紫色の瞳がまっすぐに私を見つめ返す。
逸らしたい。
でもこの目から逃げられない、謎の圧迫感がある。
「ほ、本物……!?」
まるで芸能人にでも遭遇した気分である。
そして私は、彼の素顔を初めて見た。
「黒騎士のラウル様なのですか?」
なおも見つめると、彼は無表情のままやや首を傾げた。
「様はいらない。ラウルでいい。……俺のことを覚えていないか?」
覚えている、とは?
いやいやいや、覚えているけれども。
「俺は君を覚えている。昔、隣国から奇襲を受けたときに砦で仕事をしていた薬師だろう?」
「いっ……!?」
私は思わず一歩足を引いた。
倒れかかって腰が引けた、と言った方が正しいかもしれない。
初恋というには恐れ多い、でも憧れの人が自分のことを覚えていてくれたなんて。
感動よりも驚きが勝った。
しばらく声なき声が漏れた後、上ずった声で私は返事をする。
「確かにあのときの薬師は私です。その、黒騎士様のことは覚えていましたが、でもそのあの」
彼は私の言いたいことがわかったようで、「あぁ」と言ってかすかに目を細めた。
「兜か」
「はい。お顔は存じませんでしたので」
えええー!!
私は今すぐ外へ飛び出して叫びたい衝動に駆られる。
信じられないっ!
まさかあの恐ろしい鎧と兜の中身が、こんなイケメンだなんて!!
渋めの屈強な男性だと思っていたのに、想像とかなり違う。
「意外……」
「よく言われる」
確かに現実にここにいるはずなのに、キラキラのエフェクト効果が見える!
不躾な視線を送りまくる私の前で、彼は無言でコーヒーを口にした。
そして、ふぅっと一息つくと視線を落としたまま言った。
「そうか、師匠とやらは二週間も不在なのか」
「はっ!そ、そうです」
え、待って。なんで生け贄!?
ニース最強と謳われる黒騎士が!ラウル・グレイブ様ともあろうお方が!
なんで熟女好き魔導士の人体実験の生け贄になんてなるの!?
衝撃的な再会に指先が震え、私はコーヒーを飲むのを諦める。
「あの……」
「なんだ」
「なぜ生け贄に?私だって生け贄の内容を知っているわけではありませんが……今までそんな実験したことないし……でも贄というからには、死ぬかもしれないって思わなかったんですか?」
美形を生け贄にして、異世界から何かしらを召喚するつもり?神でも召喚するんですか?
お師様が今ここにいないことが恨めしい。
彼はじっと私を見つめ、よどみなく答えた。
「死ぬというよりも、生きたいと願う理由がないからだ」
「生きたいと願う理由」
この人は騎士だ。これまで、戦場に身を置いてもどうにか生き延びてきたはず。ようやく国が落ち着いて、これから平和を享受しようっていうときに……
それなのに、生きたいと願う理由がないと言うの?
「自分の命を捨てるほど価値ある何か」が得られるという確証もなしに?
意味が解らない。
死にたいというのとは違うんだろうけれど、結果は同じだ。
長い沈黙の末、私は声を震わせて尋ねた。
「それは、ケガをしたから……ですか?」
彼の左腕は、だらんと下ろされたまま。
動かないのかもしれない、ということは彼を見ていると何となく違和感があって気づいた。
「そうだ。でもケガをしたのが直接の理由ではない。利き手は右腕だから、戦えないわけじゃないしな」
「それならなぜ……」
ラウルは再び同じことを言った。
「生きたいと願う理由がない」
もう、やりきったとでも言うのか。
騎士団を退団し、人生からもご勇退ってこと?
「……えない」
「ん?」
「ありえない!!」
カウンターに拳を叩きつけた私は、キッとラウルを睨みつけて叫んだ。
「生きたいと願う理由がないですって?生き死には個人の自由かもしれないけれど、それならこっちだってあなたに死んでもらいたいって思う理由がないわよ!ふざけないで!人の店に死にに来ないでくれる!?」
「俺は君の師匠に会いに来たんだ。君には関係ない」
「関係ありますっ!お師様はお師様だけれど、生け贄を使った実験なんてさせません!そんなことしたら、お師様の評判に関わります!!ただでさえ変態で不審者で頭のおかしな人なのに」
「ちょっと待て、その部分は聞いていない」
何を今さら、と私は彼に蔑んだ目を向ける。
「いいですか。生きたい理由がないだなんてそんなの……心が弱っているからだわ。そして心が弱っているのは、身体が弱っているからです!私が!責任をもってあなたを治療します!」
「おい、俺はそんなこと望んでいない」
「ちょうど新しい薬ができたところだし、生け贄になりたいっていうくらいなら、あなたをその薬の実験台にしてあげる!それならいいでしょう?お師様が帰ってくるまで、あなたはここで療養よ」
命の前借り、あの副作用の苦しみを味わって「やっぱり死にたくないぃぃぃ!」って思えばいいんだ。
これは自分の勝手な都合だってわかってる。
彼は治療を望んでいない。
けれど、私は憧れていた人がこんな風になってしまって、勝手にショックを受けているのだ。
この治療は八つ当たりにも近い。
そんなことはわかってる。自己満足だって、傲慢だってわかってる。
私に睨まれた彼は、しばらく思案した後にぽつりと言った。
「生け贄となるにも心身の健康は大切だと言うことか」
「違います」
生け贄から話を切り離せ。
なんでそんなに冷静なんだ。これから自分がどうなるか、不安じゃないの?
目の前にいるラウルは、人として普通にあるべき感情の起伏が少なすぎる。
6年前に会ったときは、表情はまったくわからなくても人間味のある人だと伝わってきたのに。
私はカウンターから出ると、彼のそばによって問答無用で床の荷物を持ち上げる。
「今日からここに泊まってもらいます。部屋は余ってるから好きにしていいわ。治療は明日から始めるから、今夜はゆっくりして」
「おい」
「二階には、生活に必要な設備も物もすべてがあるから心配ない。ついてきて」
「待て」
「待ちません」
くるっと背を向けた私は、彼の荷物を持ってまたカウンターの中へと入る。そして階段に向かうと、彼が渋々ついてくるのが見えた。
意外と押しに弱いタイプなのかも、そんなことが頭をよぎる。
絶対にうちで生け贄になんてさせないんだから。
どこのホラーだ、イケメンを生け贄にするなんて……!
私はぎゅうっと彼の荷物を抱き締め、ドスドスと淑女らしからぬ音を立ててらせん階段を上っていった。





