涙の理由
馬車が町に到着したのは翌朝、小さな雲が浮かぶよく澄んだ空に朝日が昇り既に町が賑やかになっている頃だった。
一晩中固い椅子に座っていたせいで背中が痛くなっており、よく眠っていたのにも関わらずリナリアも疲れたような表情を見せていた。
話は変わるが当然ながら町の中への武器の所持は禁止されていた。魔物討伐をする者たちも例に漏れず出入りの際に門で警護する衛兵へ預けており、店で購入するときも実際に受け取れるのは町の外に行くときだ。殺傷力の高さでいえば圧倒的に魔導士が上なのだが、彼らは崇高な精神の持ち主なので特に杖を預ける必要はない。魔導術に杖が不可欠でないという背景もあるが、そもそも善良な心の持ち主でなければ魔導士にはなれないというのが主な理由だ。
転生者や国からその功績を認められた一部の者たちは例外的に武器を所持することが許されるが、未来の英雄であるというたしかな自覚がある俺も見ず知らずの他人に親の形見を預けるつもりはなかった。
そうしてぐるりと全身を見回して剣がちゃんとローブで隠れているか確かめていると門前広場から見える町並みを眺めていたリナリアが呆気に取られたようにため息をついていた。
「とても大きな町ですね……」
「リナリアが住んでいた世界と比べて違うところとかあるのか?」
「向こうと比べれば少しだけこっちの方が昔なのかもしれません。町の外は自然が広がってますし車などもないようなので、産業革命くらいなのかなぁ……」
と、最後は自分自身へ問いかけるように呟いていた。
「車ならあるよ」
「そうなんですか?」
「都会の方じゃないと走ってないけどな。俺も小さい頃に旅行へ連れてってもらって乗ったことあるんだぜ」
「僕の世界だとそれが当たり前の移動手段だったんです」
「なんかお前の世界って空気淀んでそうだな……」
「大気汚染の原因ではありましたね。でも、ユリウスさんが想像しているほど汚くはありませんよ」
ふふ、と小鳥のさえずりのように可愛げのある笑いを零す。なんだかリナリアはとても頭がよさそうだった。
サントリナはブーケ地方の南西にありこの辺りでは一番大きな町だった。農業が盛んでサントリナ産の茶葉はコルシック産のものと並ぶ高級品の一つとして有名だ。都会のような人の流入は少ないが町の周辺には魔物の住処も数多くあるらしく案内所で受ける依頼には困らないだろう。というような話を母さんから聞いたことがある。
町自体の人口も多く広場から続く広い通りにはたくさんの建物が並んでいた。
「頑張ろうぜリナリア、さっそく案内所に行って依頼を探そう。朝ご飯はそのあとだ」
「案内所ってなんですか?」
「国から出された依頼が集まってる場所だよ。魔物退治がメインだけどいろんな仕事があって実力があればがっぽり大金を稼げる夢の国さ」
「じゃあユリウスさんもそこでお仕事をなさってるんですね」
「あ、あぁ……まあな」
案内所へ行くのは俺もはじめてだった。
魔物討伐は金を稼げるがそこで活躍できるのは魔導士ばかりだった。生物が魔物化してしまうととても力持ちになってしまうので、それまでは単なる狩りの対象だった動物たちも侮れない狂暴性を見せるようになる。
ぶっちゃけ剣もなければ魔導術も使えない現状では魔物討伐の依頼を避けて簡単な小銭稼ぎ程度の依頼しかできないだろう。
だが俺には考えがあった。なにも後先考えずに旅立ったわけではないのだ。
今日が英雄への第一歩だ。町を見回しながら俺は心が騒ぎだす熱狂的なビートを抑えきることができなかった。
そうして意気揚々と案内所を探しはじめ、目的の場所は人づてに訊いた通りに入って進んでいくとすぐに見つかった。
時代を感じる寝具店と軒先に並んだ植木鉢が目を引く小さな喫茶店に挟まれて立つその大きな建物には依頼案内所と書かれた看板がかけられており、扉の向こうからざわざわと賑やかな声が聞こえている。
ここで生まれる輝かしい栄光の日々、誰もが『俺は聖剣士ユリウスと一緒の案内所で依頼を案内してもらっていたんだぜ』と語り草にされる称賛に満ちた未来を想像して心が躍り、さっそく中へ入ろうと隣に振り向くと彼女は腹痛を堪えてそうな顔で不安げに看板を見上げていた。
「どうした?」
「なんだか緊張しちゃって……」
「大丈夫だって、お前は転生者なんだぞ? なにも心配することねえよ」
「そう言われても実感がなくて自信ありません……」
「ここで狼狽えてても仕方ないだろ。ともかく入ろうぜ」
俺は不安げなリナリアを引き連れ案内所の扉を押し開けた。
途端にざわめきが大きくなり食べもののにおいが充満したホールの中でテーブルについていた大勢の人の姿が目に入る。そのうちの何人かがこちらへ振り向きもの珍しげな視線を送ってきた。
てっきり魔導士ばかりかと思ったが中にいたのは肩当てや胸当てなどをつけたムキムキマッチョな強面の男たちばかりで、彼らは食事をしながら内緒話でもするように顔を寄せあってなにかを真剣に話していた。
「いらっしゃいませ」
すると料理を手にした女の人がテーブルのあいだを歩き回りながらこちらへにこやかに挨拶をし、俺は居心地悪そうに戸口から周りを窺うリナリアを連れて奥のカウンターに向かった。
通り過ぎていく中でリナリアに気づいた男たちが顔を上げてちらちらと彼女を盗み見るように眺めていく。知らない者からすれば絶世の美少女であり人目を引いていることに気づいて肩を小さくさせるリナリアは小動物のようで守ってあげたくなるような可愛さがあった。
だがこの俺も王国騎士団長と絶望の魔女が生んだ奇跡、世紀のイケメン聖剣士ユリウス・ローゼン様よ。案内所では数少ない女性客やスタッフたちは俺の美貌に見惚れて恋に焦がれた乙女のようにアンニュイなため息を零していた。
その熱い視線を感じた俺の身体からは自然ときらびやかなオーラが溢れてしまい、カウンターへたどり着く頃になると俺の表情は凛々しくも勇ましい歴戦の勇士を思わせる風格を漂わせてしまっていた。
「いらっしゃいませ、本日はどのようなご用件でしょうか?」
「登録がしたい。ここではいったいどのような依頼が受けられるのだろうか……」
「はあ……案内所をご利用するのははじめてですか?」
「ああ、なにぶん忙しい身でこういった機関には縁がなかったものでね……」
「ではこちらの用紙にご記入をお願いします」
渋みを利かせた俺の美声を前にしても仕事としてのプライドが邪魔をしたのか受付にいた美人は務めて真面目に、けれど微笑みを浮かべながら用紙とペンを二人分差しだしてきた。
名前と年齢と性別、過去の案内所での経歴や扱える魔導術の有無、討伐したことのある魔物の種類やどういった依頼を希望するのかといった事柄を記入する項目が書いてある。
俺はリナリアと向かいあわせで空いていたテーブルに座ると惚れ惚れする字で各項目を埋めはじめた。
ユリウス・ローゼン。十六歳。男。経歴なし、魔導術は使えないもののあらゆる魔物を討伐し、危険度の高い依頼は最優先で回してほしいという旨。備考として聖剣士であることを書き記した。
「あの、すみませんユリウスさん、あの……僕、トイレに行きたいんですけど……」
すると、ついでに女性のタイプなどを書いたとしてもあくまで備考だから問題はないだろうかと考えていた俺へ微かに頬を赤くさせながらリナリアが小さな声で言ってくる。
「ああ、いいよ。トイレならあそこだ」
俺は案内所を見渡すと反対側の壁の方にあった扉を指さした。もしかするとリナリアのいた世界とは違う目印かもしれないとすぐに察した俺の配慮はベテランの冴えが光るファインプレーと言えよう。
けれどリナリアは席を立とうとせずトイレの方を一瞥してうつむきがちにこちらへ向き直ってくる。
「えっと、その……あそこ通るの、ちょっとだけ怖くて……ついてきてくれませんか……?」
「もしかして生前はうさぎだった?」
「っ……」
小粋な冗談には目もくれず困ったような顔でじっと見つめられてしまい俺は仕方ないなとため息をついた。たしかにあのいかにも討伐業に勤しんでいそうな男たちにじろじろと眺められれば気後れもするだろう。
「じゃあついでに俺も行くか」
「すみません……」
「いいってことよ」
ほとんど飲んでいないとはいえ昨日のバーで行ってから一度もしてなかったので我慢していたのかもしれない。
そんなわけでトイレまで連れていき彼女と別れ男子トイレに入ると中はフローラルな香り漂う清潔な空間が広がっていた。つるつるとした床石には汚れが見当たらずきれいに清掃がされており、感心しながら用を足そうとしていると先に便器へ向かっていた男たちが驚いた顔をして俺を見ていた。
いや、彼らは俺を見ているわけではなかった。その視線を追いかけるように後ろへ振り返るとリナリアがきょとんとした顔で俺を見上げていた。
「え?」
「え、じゃねえだろばかかお前!」
俺は慌ててリナリアの小さく柔らかな肩を掴んで回れ右をさせると背中を押してトイレを出た。ホールにいた客たちも怪訝そうに俺たちを見ておりそこでようやく気がついたようにリナリアが声を漏らして顔を赤くさせながらうつむく。
「ごめんなさいっ……つい、癖で……」
「なにがついだよそのお約束がやりたくて頼んだみたいになってんじゃねえかっ」
「違うんですそんなつもりじゃないです……!」
「気をつけろよ、お前は女なんだから」
「すみません……」
耳まで真っ赤にさせたリナリアは井戸の底から響いてきたような暗いため息をつくと女子トイレを失意の眼差しで見上げて躊躇いがちに入っていった。
時を待たずして扉の向こうから小さく鈴を鳴らすような涙に濡れる声が聞こえ、やれやれ困った奴だと思いながらも俺は少しだけ彼女に同情していた。
まぁ、仕方ないよな……。
ある日突然女の身体になれば戸惑うのも無理はない。おまけに見知らぬ土地へ覚えのない死と共に突き放され、ともすれば一人で過ごすトイレの時間でさえも彼女にとっては不安や恐れに苛まれる孤独が寄り添っているのかもしれない。
だからこそ、俺はリナリアにとって信頼できる仲間であり続けなければならなかった。そこにいれば大丈夫だと思える安心感がいまの彼女を支える唯一の希望であり、それを失えばもう前へ進めなくなってしまう。
「そうか……」
小さく呟く。そして、気がついた。心の変化に戸惑いながらも、俺はそれが最初から決定づけられていた出来事だったかのように受け入れることができていた。
はじめはただ野望を実現するための足がかりとしてついたうそだった。けれど、いつしかそれは俺の中でリナリアを守るためのうそへと変わっていた。彼女の前では聖剣士であり続けなくてはならなかった。たとえ、それが偽りの剣だったとしても。
というような口実をもしもうそがばれたときに使おうと思いついた俺はトイレで用を足し心身共にすっきりとすることができたのだった。