忘れ形見
紡績工場での給料は月末払いだがそのうちの何割か日払いしてもらえるという制度があり、俺はそれを活用して家族から大変感謝をされていた。バーの会計はそこから支払い店を出た俺はリナリアを町の門前広場で待たせて家に帰っていた。
住み慣れた実家の窓からは妖精灯の明かりが漏れ、俺の帰りをいまかいまかと待つ叔父の苛立った声と赤ん坊をあやす叔母の言い合いが聞こえていた。こんなに帰りが遅くなることははじめてで、そして家事をする者がいないせいでマイファミリーたちの会話には何度も俺の名が飛びだしていた。
俺はこっそり裏口から忍び込むと足音を立てないように階段を上がってかつて母さんが使っていた寝室に入った。あいつらは気づいていないと思っているのだろうが俺はこの部屋に金があるのを知っていた。毎日の稼ぎを渡すと彼らは決まって二階に行くからだ。
クローゼットを開けるとすぐに金庫があるのを見つけ、けれどその中には数万ディールしか入っていなかった。叔父は画家になるのを夢見ている男で週に何度かしか働いてなかった。
これまでにも何度かこの金を持ちだして家を出ようと画策したことはあったが、ほんの数万だけ握りしめて都会に出てもおそらく長くは持たないだろうという気がしていた。住居もなければ仕事もない。日銭を稼ぐだけではいずれホームレスへと転落してしまう。
あるいはそれでうまくいったのかもしれないが俺はこんな転機が訪れるのを待ち続けていたのだ。
そして俺は金をすべてポケットに突っこむと部屋を出て自室へ向かった。
そこは牛乳屋さんでもらってきた木箱のテーブルとベッドとタンスしかない殺風景な部屋だった。最低限の生活用品を除いて金になりそうなものは彼らが家へやってきたときにすべて売り払われてしまっていた。さすがにひどいと思ったが俺も幼い子どもで言い返せなかった。
俺は連中への怒りを寛大な気持ちで受け止めると気を取り直してベッドの下に潜りこんだ。一部だけ違う材質になっている床板を外して持ち上げるとその下には埃を被った木箱が置いてあった。
小さい頃、大工ごっこをしてつくった秘密の収納スペースだ。単に釘を抜いて外した床下のすきまをそう呼んでいるだけで、もちろんそのときは母さんにこっぴどく叱られた。結局は『ユリウスったら発明家の才能もあるのねうふふ』と許してくれたゲロ甘な母さんによって蓋代わりの板を乗せてもらい、当時の俺は誇らしい気持ちでここへよく宝物を隠していたものだ。
思い出がたくさん詰まった宝箱の中身は母さんが天国へ行くときに寂しくないようにと一緒に持っていってもらったが、その代わりに宝箱の中には一振りの真紅の剣と丁寧に折り畳んだ同じ色のローブが入っていた。
この剣は父親が名誉の戦死を遂げるまで使っていたものだった。とても貴重なものらしく父さんの代わりにこの剣が帰ってきたとき、母さんはこの剣のことは誰にも言ってはだめよユリちゃんとウインクしながら言っていた。興味本位で触ったことは何度かあるがなにかで固めてあるらしく鞘から抜くことはできなかった。ローブも母さんが魔導士だった頃に使っていた思い出の品らしく、絶対にこの二つだけは守ろうといままで奴らにはひた隠しにしてきていた。
腰に剣を携えローブを身に纏って家を出た俺はリナリアのもとへ行く前に一度家に振り返った。騒がしい声はいまもまだ窓から聞こえている。
もうこの家には帰らない。あの家族と会うこともないだろう。
英雄になる。具体的にどう駆け上がっていくのかその道のりは霧に霞んで見えなかったがたどり着くべき場所だけは見えていた。英雄となって称賛される未来しか見えない。自信しかなかった。ったく、困っちまうぜ神に愛されすぎてよぉ。
そうして駆け足で門前広場まで向かうと不安げに周りを見ていたリナリアが俺を見つけて安心したようにやってきた。
「お待たせ」
「いえ……なにしてたんですか?」
「忘れ物を取りに行ってたんだ。かっこいいだろ」
ふぁさりと真紅を翻してにやりと笑った俺をリナリアはしげしげと眺め、そうして春の木漏れ日みたいな微笑みを浮かべた。
「とても素敵です」
前世が男であることを考えるとそのセリフはいかにもヒロインすぎて『っべー、まじイケてんじゃん、それどこのショップで見つけたん? ってかクラブ行かね?(笑)』とか言えよと思ったが、心からの感想であることがわかって嬉しかった。
「さっそく町を出よう。まだ夜行便が残ってるはずだから」
「はい」
俺たちは門のそばで出発時刻を待っていた渡し屋に二人分の運賃を払い馬車に乗りこんだ。乗客は他にもいたが数えるほどで、俺たちは荷台に幌をつけただけの質素な客車に乗って前の席に座った。
田舎の町では定番の移動方法で渡し屋は護衛を雇って乗客の安全を保障している。座席というには簡素な板の上に座って待っているとローブに杖を持った魔導士と一緒に男が前の座席に乗りこみ、手短に町までの日程や注意事項を告げてから馬車を出発させた。
「ところでどこに行くんですか?」
「サントリナっていう町だ。そこなら案内所で仕事が受けられると思う」
「サントリナ……」
「細かい話はまた明日してやるよ。静かにしてないといけないし、心配いらないからのんびり寝てようぜ」
「はい」
俺たちはひそひそと言葉を交わすと固い背もたれに身体を預けた。道路の起伏を背負ってがたがたと車内は揺れ、リナリアは不慣れなのかそわそわと前の方を見ていたがしばらくすると大人しく席に座っていた。
酒の酔いが心地よくじっとしていると泥沼に引きずりこまれるような眠気がじわりとやってくる。今朝も早かったしリナリアも疲れていた。深い眠りの中へ落ちていこうとする最中で肩に微かな重みが加わり、目を開けるとリナリアがそっと俺にもたれかかって眠っていた。
花のような柔らかな香りと肩越しに触れる体温。それでもこいつは男なんだと払いのけようと思ったが、それよりも眠気の方が大きく俺はそのまま目を閉じた。