聖剣士ユリウス
ひとしきり泣いてようやく気持ちが落ち着いてきたらしく少女は地面の上に座りこんではぁっと小さくため息をついた。
「あの、本当にありがとうございました。助けてもらえなかったら、どうなっていたか……」
そう言って恐怖が戻ってきたのか言葉を震わせてぎゅっと目を閉じながら肩を抱く。
俺は正面に座ったまましげしげと少女を眺めていた。
肩の下まで伸びたモカブラウンの髪が印象的な少女だった。右側だけ小さく短い三つ編みが深緑色のリボンで結ばれており、真っ白なワンピースと合わさってその表情には可憐さと儚さを感じさせた。端的に言ってとても可愛い女の子だった。めっちゃ俺好み。同い年くらいだろうか。
女の子らしい部分を世界中から集めて形にしたような美少女だ。静謐な森の中に流れる小川のような透き通ったソプラノトーンに怯えが混じりながらも曇りのない瞳、慎ましやかでありながらしっかりと膨らみがあるとわかる胸。スカートから覗く真っ白な太ももはまるで汚れのない砂浜に流れ着いた貝殻のように神秘的だった。
町で見かける誰よりも可愛いのではないかと思えたが、一つ気になるとしたらあぐらをかいているところだった。こう見えて意外と男勝りな一面もあるのかもしれない。気が動転していて下着が見えそうなことにも気がついていないようだし、その無防備さもそれはそれで悪くなかった。
俺は顔を上げた少女へ向かってにこりと微笑みかけた。
「もうすぐ夜になる。さっきの奴らがいるかもしれないし、危ないから町まで行こう。すぐ近くにあるんだ」
「あ、あの……お名前、訊いてもいいですか……?」
「ユリウスだ。ユリウス・ローゼン。きみは?」
「あの、僕……その、なにも覚えてないんです……ここ、どこですか……?」
そういえば転生者はこの世界へ来たとき、生前の記憶のほとんどを失っていると母親から聞いたことがある。
彼女が転生者であるというのは疑いようのない事実だがそのことに気がついているだろうか。説明をするにしても混乱しているのは簡単に察することができたので、気配りのできる俺は多くを訊きださずまずは落ち着ける場所に行くことにした。
「ともかく明るいところへ行こう。さあ、立って」
そう言って手を差し伸べると彼女は戸惑った様子を見せながらも手を握った。
町まで連れて帰り、さっきの門番に不思議な顔をされながらも俺は少女の手を引いて飲食店が並ぶ通りを目指した。少女は困惑した顔で周りを見回していたがなにかを言いだしたりせず大人しくあとに続き、やがて俺は前々から彼女ができたときに行こうと思っていたバーに入った。
いや、バーというのは相応しくなかったな。これだけ洒落た店ならバーというよりヴァーだ。
扉を開けるとカランカランと頭上で音がして、やってきた俺たちにマスター(より適切な呼び方をするならムァスターだろうか)が『いらっしゃい』と渋い声で呟きグラスにふぅっと息を吹きかけナプキンで拭っていた。
「なにが飲みたい?」
「え、あの……すみません、こういうお店来るの、はじめてで……お任せしてもいいでしょうか……」
「なら、俺はサイレントヒートを。この子にはラストナイトで」
マスターは関節の具合を確かめるようにゆっくりうなずくとシェイカーへ氷を入れとても丁寧な仕草で酒の分量を量りカクテルをテルりはじめた。
まだ夜には早く客は俺たちだけだったがボックス席へ座っているあいだに店の奥にあったピアノから演奏がはじまった。向かいに腰を下ろし落ち着かない様子できょろきょろと辺りを見回していた少女へと俺は笑いかけた。
「大変だったね」
「いえ、あの……ユリウスさんのおかげで助かりました……」
「きっときみはいまとても混乱してるんだと思うんだけど、自分がいまどんな状況に陥っているのかわかる?」
少女は真剣にテーブルの中央を見つめてから目を閉じた。泣きだすのを堪えるようにゆっくりと震えた吐息をして姿勢を正す。
「罪を犯してこの世界へやってきたと言われました。また人間に生まれ変わりたいなら、ここでいいことをたくさんしなさいって……」
「……誰に?」
「わかりません。気がついたら目の前に女の人がいて、そう教えられたんです」
転生者たちをこの世界に遣わせる神様とか天使なのだろうか。俺は頭の中で翼を生やしたエッチな格好のお姉さんを想像しながらも少女に訊ねた。
「その人はどうしたんだ?」
「わかりません……話を聞いてる途中でさっきの二人がやってきて、その人はちょっと待ってとか言ってたんですけど、いつの間にかいなくなってて……」
要領を得ない説明に首を傾げているとマスターがカクテルの入ったグラスを持ってきたので俺はサイレントヒートを手に取った。静かなる炎という名に相応しい澄み渡る海のようにきれいな青いカクテルだ。
それとは対照的にラストナイトはやや濁りのある赤い色をしたカクテルで、別れを惜しむ二人の最後の熱い夜をイメージしたものなのだろうかと俺は想像を膨らませていた。
「きみの瞳に乾杯」
そう言ってグラスを差し向けると少女も気がついたように慌ててラストナイトを取りそっとグラスをぶつけあう。小気味よい音が鳴りマスターにも乾杯をしようと持ち上げると、ダンディな彼はなにやら口パクをしながら人差し指と親指を立ててくるくるっと回していた。
なにか大人の世界に通じるサインなのだろうか。俺も小さく笑みを浮かべると少女に向き直った。
「飲んでいいよ」
「あ、すみません、でも僕、お金……」
「ごちそうするよ。連れてきたのは俺だ」
「……すみません。じゃあ、いただきます……」
恐る恐るといった様子で口をつけるなり少女は「けへっ」とむせていた。酒を飲むのははじめてだが試しに飲んでみると甘く爽やかな果物の風味が喉を通りぬけ、特にきついお酒ではないようだった。
少女はグラスをテーブルに置くと真面目な顔で俺を見た。
「あの、なんなんですか、ここ……僕、あんまり覚えてないんですけど、こんなところ見たことがなくて……」
「ここはヴァーだ」
「あ、いえ……そういう意味じゃなくて……」
「たぶんきみは転生者だよ」
「転生者……?」
「そう」
転生者は俺たちにとって希望の象徴だった。世界が混沌に落ちたとき、空から現れた転生者が光をもたらし平和を紡ぎだす。
その混沌を生みだしているのは人が魔物と化した魔王種と呼ばれる存在だ。この世界の動植物たちは空気中に散在するフェアリーというエネルギーを集めることで狂暴な魔物へと姿を変えていく。
そしてそのフェアリーを利用している技術が魔導士の使う魔導術だった。彼らは自らの魔力と空気中のフェアリーを繋ぎあわせることであらゆる奇跡を現出させ魔物に対する武器として人々を守っている。
だが同時に魔導士は身体の中へフェアリーを蓄積させてしまうせいでいずれ魔王種へと変貌していく。魔導士として働ける年齢制限や医療の発達によって魔物化する人の数は昔に比べるとずいぶんと減少したようだが、それでも時折魔王種は誕生していた。
俺も実際に転生者に会うのははじめてだったが、ちらほらと新たな転生者が生まれたという話は新聞や風の噂などで耳にすることはあった。そして転生者の多くは与えられた力を駆使して人々に平穏をもたらし英雄として語り継がれていく。
そのような話をすると少女はにわかには信じられないといった様子で絶句しながらも、ついさっき自らの身に起きた出来事を振り返って口を閉ざしたままうつむいていた。
「じゃあ……僕は、もう死んだってことなんですか……?」
「……俺も断言できるほど詳しいわけじゃないけど、でも。そのことも覚えてないのか?」
「っ……」
少女は首を振った。そして両手で顔を覆うと小さな声で泣きだしてしまった。
俺はただじっとサイレントヒートを見つめながら彼女が泣き止むのを待った。そしてグラスを満たす青の中で母親のことを思った。
母さんも自分が死んだことについて泣いたのだろうか。いつどうやって聞きつけたのか、母さんが死んですぐにあいつらは俺たちの家にやってきた。きっと、俺を一人残して逝ってしまったことで不安に思っているだろう。だから俺は母さんが死んでも泣かなかった。どんなに悔しくて惨めな気持ちになっても泣いてはだめだと思った。
いなくなったのは悲しいけど、きっと泣いていたら心配ばかりかけさせてしまう。死んだことは寂しいけど、母さんの人生は幸せだった。この俺がいたんだから、それはもうこの世界で一番幸せな人生だっただろう。俺と母さんはその別れが他よりも少しだけ早かっただけだ。
「ユリウス、さん……?」
気がつくと少女が泣き顔を俺に向けていた。笑いかけようとした俺の頬を涙が滑り落ちてテーブルに跳ねる。俺は少しだけ驚いて涙を拭った。
「ああ、ごめん……なんでもないんだ」
「……もしかして、僕のために泣いてくれているんですか……?」
「……はは、我慢しようと思ってたんだけどな……」
「ユリウスさんっ……」
彼女も顔をくしゃくしゃにして小さくしゃくり上げ、マスターは聞こえない振りをしてグラスを磨き、ピアノはそっと寄り添うように優しくあたたかなメロディを奏でていた。俺もそういうことにした。
「これからどうするんだ?」
「……わかりません。どうすればいいのか、なにもわからなくて……」
きっと軍へ行けば保護してもらえるだろう。多くの転生者がそうであるように。
俺はくいっとグラスを傾けるとテーブルに置いた。
「俺に力を貸してくれないか?」
「え……?」
「魔王を倒す旅に出ようと思っているんだ。そのための仲間が欲しいと思っていて、きみも魔王を倒すのが転生者としての役目でもある。悪い話じゃないと思うんだ。この世界はなにかと物騒だし」
「ユリウスさんもその、魔導士っていう人なんですか……?」
「……いや、俺には魔導術の才能はないよ」
母さんは偉大な魔導士だったと聞いたことがある。俺の前では全然そんな素振りもない単なる超絶美人で優しい母の顔しか見せなかったが、いまでも母さんが世界で一番すごい魔導士だと信じている。
けれど、母さんは俺にその才能がないとわかっても決してがっかりしなかった──
『ユリウスにはユリウスのいいところがあるの。ママがユリウスの一番好きなところ、わかる?』
『前向きなところ!』
『うふふ、ユリウスは前向きだけど、前ばかり見てるからときどきは周りを見るようにね。もっと好きなところあるんだけど、わかるかしら』
『ママだけ見てるとこー!!』
『はぁい、せいかーい! ぶっちゃけ全然違うけど大正解にしちゃおっと! いい子にしてるから今日もママと一緒におねんねしましょうね』
『ママのお話聞きたい!』
『うふふ、じゃあ今日は魔王城を爆撃したお話でもしようかしら。あれはママが十六の頃でそのとき力を持っていた魔王から絶望の魔女と恐れられ血で血を洗う死闘を繰り広げていたときの話なんだけど──』
……。
「……ユリウスさん?」
つい思い出に耽っていると少女が窺うように俺を呼んだ。
「あぁ、悪い……なんだっけ?」
「その、才能がないって……」
「……そうだったな」
かと言って剣術の才能も俺にはなかった。
父さんは騎士団長で国から頼られ部下に慕われる自慢の父親だったが、俺に剣術の才能がないとわかっても決してがっかりしなかった。
『帰ったぞユリウス、いい子にしてたかー?』
『パパ、くさーい』
『ほーら兜はもっとくさいぞー!』
『ほんとだー!』
……。
がっかりしなかったのは俺がまだ三歳だったからに他ならないが、ともかくそんな偉大な両親から生まれたにも関わらず俺は戦いに関するセンスはなにも持てなかった。
ったく、天は二物を与えないというのは本当だな。
「あの、もしかして酔ってますか……?」
「……ああ、自分のあまりの美しさにな」
「へ……?」
彼女は少し呆気に取られた様子で気まずげにグラスを取ってまたけへりとむせた。
悲しいけど、俺にまともに魔王を倒す力はない。自分のことは自分が一番わかっている。
だがそれを正直に打ち明けても彼女を仲間にすることはできなかった。いまこの子は見知らぬ地で大きすぎる運命に困惑し右も左もわからなくなっている。俺がただのイケメン紡績職人であることがわかれば頼りにはしてくれないだろう。
「ここで出会えたのも運命だと思うんだ。だから力を貸してくれ。きみの転生者としての力と俺の力があればかならず倒せる」
「ユリウスさんはなにをしている人なんですか……?」
彼女の不安定な心を掴むには絶大な信頼とそれに伴う実力を秘めた導きの手が必要だった。
そして俺は今世紀最大のハートストライクな笑みを口元へ浮かべた。
「……改めて名乗らせてもらおう。俺の名はユリウス。聖剣士ユリウスとは俺のことさ」
なにも持たないこの俺が英雄へと駆け上がる伝説がはじまろうとしていた。
撃ち貫いてやるよ。どんな過酷も、このうそ魔法でな。