いちごのリス
ぴーぴー、とどこかで鳥の鳴き声がしていた。午前の時間に浮かぶ森の中は澄んだ空気と清らかな風、瑞々しい草花の香りに満ちていてとても爽やかな気分にさせられる。木々のあいだを通り抜けてくる日差しの柔らかなぬくもりを肌に受けながら俺はゆっくり深呼吸でもしようと思い立ち止まった。
するとその背中にどん、となにかがぶつかる。
「あいたっ、あ、ごめんなさい……」
振り返ってみると真後ろをついてきていたリナリアが鼻を押さえながら俺を見上げていた。
「だからもう少し離れて歩けって言っただろ」
「いつ魔物が飛びだしてくるんだろうって思ったら、怖くて……」
そう言ってさっと辺りを見回してはか細く怯えた声を漏らす。とても緊張しているようで表情は青ざめており微かな物音に反応してさっと振り向くその姿はさながらうさぎのようだった。まあ、見たことはないんだけど。
それにしても、町からそれほど離れていないのどかな森だというのに性格もいじられてしまったのかと思うほどリナリアは臆病なようだった。
前世では男だったって話はもしかして勘違いじゃないのかと一縷の望みにすべてを賭けたが、ついさっき尿意を催したリナリアがうっかり立ちションをしようとして「あ、できないんでしたえへへ……」と誰も救えないドジをかまして怯えながら木陰に消えていった姿を見てしまったので俺の儚き願いは幻想となって散っている。
「別に危ない魔物じゃないって受付の人も言ってただろ?」
「でも前にそうやって油断して大怪我した人がいるともおっしゃってました……」
「今日のところは俺が相手をするから心配すんなって。リナリアは俺の勇姿をしっかりとその瞳に焼きつけてくれればいい」
「はあ……」
そう、俺たちはいま魔物討伐の依頼を受け魔物が潜むという森にやってきていた。
英雄への第一歩を踏みしめる記念すべき最初の依頼。その討伐目標は最近この森で繁殖が確認されているというイチゴリスの討伐だ。
『イチゴリスというのはその名の通りイチゴの形をした尻尾を持つリスの魔物です。子猫くらいの大きさなので見つけるのはそう難しくないかと思います』
受付嬢の説明によるとイチゴリスは大木を齧ってそこに巣をつくるらしい。人に危害を加えるような魔物ではなく放っておいても危険なわけではないが、彼らが繁殖すると森の木々が根こそぎ齧り取られてしまうので自然保護の観点から野放しにしておくことはできないそうだ。
そんなわけで改めて聖剣を取り戻した俺はリナリアを引きつれイチゴリスを探して森の中を彷徨い歩いていた。
だが周りを見回してみても視界を埋める木々のどこにもリスの齧り跡は見当たらない。注意深く木の根元を確かめながら少しずつ森の奥へ入っていくとそれに伴って後ろから聞こえる怯えた声も震えが大きくなっていった。
「ねえユリウスさん……あんまり先へは進まない方が……」
「見つからないんだからしょうがないだろ」
「でも……」
「依頼をクリアしないと金が手に入らないんだ。路地裏で一晩明かすなんて嫌だろ?」
「はい……」
しゅんとして呟いたモカブラウンの髪が小さく揺れる。
なんとしてでもこの依頼くらいは達成しなければならなかった。もともと危険な魔物を討伐するのは無理だと思っていたが、それはあくまで今日明日明後日に限っての話だ。
まともな生活を送るためにはそれなりの依頼をこなさなければならない。けれどいまの俺たちが受けられるのは日雇いのバイトくらいしか稼げないものばかりであり、早いうちに高ランクの依頼を受けられる状態に持っていかなくてはならなかった。
そして、そのために必要な実力を数日のうちに手に入れる。それは数奇な運命によって導かれた聖剣の力であったり、あるいは経験豊富な頼れる仲間であったり、あるいは──
「あ、ユリウスさん、あそこ……!」
神妙な面持ちで考えていると不意にリナリアがひそひそと声を荒げながら俺の服の裾を掴んで引き止めた。
「どうした?」
「あれ、あそこにいるのって……!」
と、一番大事な部分をぼかしながらリナリアが伸ばした細く白い指先に目を凝らすと向こうの方にある木々のそばでうずくまっている小動物の姿があった。
咄嗟に足音を立てないようそばにあった大木の陰に身を隠しながら覗きこんでみるとリスにしてはとても大きな獣が地面に落ちた木の実を両手で掴んでもぐもぐと食べていた。ふとした拍子に失った記憶を取り戻したようにはっとしたかと思うとまた記憶をなくしてもぐもぐと木の実を口に運んでいる。
その尻尾には森で生きるにはいささか不憫に思えるほど目立つ色の真っ赤なイチゴがついていた。
「味もイチゴなのかなあれ……」
「可愛いですね」
ぱぁっと顔を輝かせながらリナリアがうっとりとため息を零す。
俺は標的をロックオンすると腰に携えた聖剣をその手に掴み感触を確かめた。
「くくく……いよいよエーデルワイスの真の力を見せるときが来たようだな。聖なる導きが敵を討つ」
「え、いきなりどうしたんですか」
「ここは俺に任せて先に行け。なぁに、すぐに追いつくさ」
徐々に高揚していく気持ちの昂りに任せて思いついたセリフを口にするとさすがのリナリアも本気で意味がわからなかったのかぱっちりとした二重の瞳で何度がまばたきをした。
「話は変わるんですが」
「どうした」
「あの……やっぱり、あの子をその、殺すんですか……?」
リナリアの不安げな瞳が微かな揺らぎと共に俺を見つめる。よく見たらお前の目ちょっと茶色いんだな。
「急になに言いだすんだよ。最初からそのつもりだっただろ」
「そうですけど……でも、なんだかかわいそうで……」
「リナリア……」
優しい子なんだな、と俺は思った。
そりゃ俺だって生き物を殺すことに抵抗がないわけじゃない。こっちの都合で勝手に命を奪って、けれどそうしないと俺たちは生きていけないんだ。
「わかってくれ、リナリア」
「ユリウスさんっ……」
うるうると涙を浮かべながらすがるように泣きついてくる。こういった出来事は生きていた頃には経験してなかったのだろう。そんなことをする必要がない世界に彼女は生きていたのだ。俺はリナリアの生前を思い、そしてそこで彼女が見つめていた景色を思った。魔物がいない世界。誰にも脅かされることのない穏やかで優しいその場所ではきっと誰もがゆっくりと幸せを育んでいたのだろう。
それはとても素敵なことだと思ったが、俺はふとあることを思いだしてリナリアの潤んだ瞳をまっすぐに見つめ返した。
「お前、死ぬ前は肉や魚散々食ってたろ」
「え」
「まさか野菜しか食べてなかっただなんて言わないよな。お前さっき喫茶店行ったときメニュー見ながら『朝からステーキはさすがに重いですよね、えへへ』つってたもんな。そのキャラに合ってないからやめとけって言ったときの不服そうな顔を俺は忘れてないぜ。実は気にせず好きなものたべろよという言葉を待っていたことなんてお見通しなんだよ。そうやって食べるために殺戮の限りを尽くしてるくせにどうしてあのリスだけかわいそうに思うんだよ」
「いえ、それは……あのー……というか、殺戮って言い方はちょっと語弊が……」
「殺戮だよ。殺戮だったんだよあいつらにとっては。お前の今日の気分一つで牛や豚や鶏たちが無残にも命を奪われ晩ご飯の食卓に並んでいるというのにそれに対してはどうして心が痛まないんだ?」
「それは、あの……殺戮と言われたらそうかもしれないですけど……でも、だからこそ命をもらっていることに感謝して……」
「その気持ちは目の前の晩ご飯たちへどんなふうに届くんだ? 別に好きで命を差しだしたわけじゃない。お前が勝手に殺してありがとうと言いながら食べて気持ち良くなっているだけじゃないか。お前は道端で唐突に殴られても『きみのおかげでストレス解消になったよ、ありがとう』と言われればそれで満足するのか? いいや、しないね。一方的な略奪の前ではどんな言葉を並べても心は埋まらない。略奪は罪だ。消えない痛みなんだ。つまり食への感謝とは自らの罪悪感を和らげるために生みだされた人間たちのエゴの塊なんだよ。真に動物たちの心を思うなら決して食べものに変えたりできないはずじゃないのか?」
「うぅ……」
「要するにお前はいたいけな動物に力を振りかざす自分を見たくないだけなのさ。命あるものすべてに平等の愛を降り注ぐことを善とし無闇に命を奪うことが悪だと思っている。だがそれは大きな間違いだ。たとえ道楽目的で動物を殺していようとそれは人間としての習性の一つにしか過ぎないんだよ。皮を剥いで服にすることも、首を切り落としてはく製にすることも、すべて他の動物が同じように行う習性の一つなんだ。人間とはそういう悲しい性を背負った生き物なんだ」
「でも、だからってかわいそうだって感じる気持ちは……」
「愛護する気持ちを間違っているとは言わない。お前は優しい奴なんだと思うよ。リナリアのいいところの一つなのは間違いない。だがそうして声高にひどいことをしないでと叫ぶ者の足元ではアリが踏み潰されている。わかるか、リナリア。生きていく上で他者を退けるのは生物に与えられた逃れようのない宿命なんだよ。その優しさであのリスを守ることはできても奴らは木々を枯らせそれを糧とする動物たちの居場所を奪っている。生きていくためにはなんらかの命を奪っていくしかないんだよ。そこに迷いを持ちこむな。人間としての暮らしを送っていきたいのなら躊躇ってはいけないんだ」
使ったこともない難しい言葉をそれっぽく並べてみたおかげで自分でもなにを言っているのかいまいち理解が追いつかないという奇怪な現象に見舞われた俺ではあったが、賢そうな印象のあるリナリアは見た目通りの聡明さを発揮したらしく失意を背負った表情ながらもしっかりとうなずいていた。
「ごめんね、リスちゃん……」
「わかってくれたか」
「うぅ……はいぃ……」
ぐすぐすと泣きだしながら服の袖で目尻を拭っている姿に少し心が痛んだが、普段はユーモアに溢れた好青年でありながらも魔物討伐には情に捉われない冷酷さが必要だという非情な一面を見せつけた俺は吹きに吹かせた先輩風に背中を押されて駆けだした。
「はぁぁああぁあああああっ!!」
大地を駆け抜け一陣の風となってイチゴリスのもとへと肉薄する。
抜くことのできない聖剣。それは決して無意味なものではなかった。俺は剣をまともに扱う腕はない。振るったことのない状態で剣を振り回せばいつか腕そのものがなくなってしまうだろう。だが、そんな俺にでもこの聖剣ならば……!
「ローゼン流奥義……疾風の激烈閃光斬っ!!」
振り上げた聖剣が陽光にきらめき俺は突然の攻撃に驚愕して身体をびくりと強張らせたイチゴリスに向かって刃を叩きつけた。地面を穿つ固い衝撃が痺れとなって手のひらに伝わり、疾風の激烈閃光斬を受けたイチゴリスは跡形もなく斬撃の際に現れた時空の歪みへと引きずりこまれこの世から姿を消したようだった。
「ユリウスさん! なにしてるんですか逃げてっ……!」
勝利の喜びと、それと同時に胸中へ訪れた微かな虚しさに争いとは悲しみしか生まないのだと悟っていた俺は不意に叫んだリナリアの声で顔を上げた。
「なにっ……!?」
イチゴリスは虚空へと消え去ったわけではなかった。斬撃の寸前で俊敏にかわしていたのだ。そんなものはお見通しさ、はじめからな。
「ぎぃぃぃぃ!」
奴は大木の幹へ鋭い爪を立てて飛びつきながら濁った声を発して果敢にも威嚇をしてくる。その様を目にして俺は素直に感服していた。
「ふっ……小さいながらもその獰猛さはさすがは魔物、と言ったところか……」
「ぎぃぃぃぃ……」
相手の実力を認め本気で挑むのが礼儀と聖剣を構え直していると唐突にイチゴリスが戦意を失ったかのように威嚇するのをやめた。
怪訝に思いながら相手の様子を窺っているとしっぽのイチゴが突如として膨らみはじめ、まるで呼吸に合わせて空気を送りこんでいるように徐々に大きくなっていく。自分の身体の大きさを越えて肥大し続けていく姿に嫌な予感を感じた瞬間、まるで臓器のように生々しく膨らんだしっぽが水風船のように弾けた。
「なっ……」
俺の口から思わず本気の動揺が声となって零れ落ちる。そこから現れたのは無数の鋭いとげが突きだした細長い骨だった。
破れた皮膚が血を滴らせながら垂れ下がり、イチゴリスは痛みを感じているのか悲痛な声を挙げながらとげだらけの骨を俺に向ける。
なんだこいつ……こんな話、受付嬢はっ……。
動揺しているうちにイチゴリスは断末魔の叫びのような奇声を挙げながら幹を蹴って飛びかかってきた。慌ててしゃがんだ俺の髪の毛を鋭く細長いとげが撫でていく感触に背筋が凍る。
ベテランぶって途中で話を終わらせたのがいけなかったか……!
どうせリスだし新人向けの依頼だからと高を括った俺は少しでもかっこよく見せようと途中で受付嬢の話を終わらせていたのだった。完全にそれが裏目に出た形だ。
大木のあいだを跳ね回るように飛びながら鋭利なしっぽで串刺しにしようと企むイチゴリスの攻撃を必死でかわし続けながら俺はリナリアに叫んだ。
「なんとかしてくれリナリアー!!」
「どどどどうやってですかぁ……! やだユリウスさん逃げて死んじゃうっ……!!」
「転生者的な覚醒をするやつが来てるだろ! なんか聞いたことない音楽鳴ってるだろ!! 常識的に考えてあり得ない技で倒せよー!!」
窮地に陥ればリナリアの隠された力が解放されるはずだと確信していた俺をよそに、彼女は焦りと怯えで混乱しているのか意味不明な叫び声を挙げて右往左往していた。
昨日からの幸運の連続。思った通りの出来事が立て続けに起こっていたのは女神様に愛されているからだと思っていたが、まさか、それはまさか、すべて俺の勘違いだったとでもいうのだろうか……?
やばい、このままじゃあっさり死んでしまう。あってたまるかそんなこと。
しゃがみ横に飛んでは前に転がってと怒り狂った小動物に追い回されながら、その最中で五回もイチゴリスの猛攻を神がかり的なセンスで避け続けていた俺は相手がほとんど狂うことなく同じタイミングで飛びかかってくることに気がついていた。意識してはいない。たぶん感覚的な気づきだった。俺は必死だった。はっきりと死を目にして余裕をかます余裕はなかった。ちょっと泣いていた。
「うわぁああぁあああああっ!!」
俊敏な動きで大木間を横切ったイチゴリスがしっぽを振り上げ再び飛びかかってきた攻撃に合わせて反射的に迎え撃った。ぎゅっと閉じたまぶたの向こうで聖剣から朽ち木を割るような軽い感触がして、目を開けるとばらばらに砕け散った骨が宙を舞っていた。
「きゅーん……!」
体勢を崩されたイチゴリスが地面に叩き落とされとても可愛らしい悲鳴を挙げて苦痛に転げ回る。これ以上油断を見せたら本気で殺される。俺は半ば恐怖に駆られたまま勢いに後押しされ絶叫しながら聖剣の鞘をその小さな身体に叩きつけていた。
突然のピンチで頭の中は既に真っ白な雪景色に変わっていたが、ここで取り乱して死体に聖剣を振るい続ければリナリアが怖がるかもしれないと気を回す余裕はかろうじて残っていた。
慌てるな、落ち着け、そいつはもう死んでいる。
ぐしゃりとなにか潰してはいけないものを潰してしまった嫌な感触に苛まれつつも完全に死んでしまったリスを見下ろして震えた呼吸でゆっくりと気を落ち着かせていく。
これが魔物討伐、か……。
見くびっていた。リスの魔物なら楽勝だと。倒してみれば実際に弱い相手ではあったが、下手をすれば顔面傷だらけになっているところだった。
考えてみれば向こうだって命が懸かっているのだ。俺はその辺りを少し見誤っていた。
早くも臆病風に吹かれはじめこの先もうまくやっていけるのだろうかと心配になりながら小さくため息をつくと、俺は死体のそばを離れぺたりと地面に座りこんで泣いているリナリアのもとへ向かった。
「……もう泣くなよ、倒しただろ」
「だって……だってぇ……! 死んじゃうかと、思ったからっ……!」
本当は俺も一緒になって生の喜びを噛みしめたかった。あまりの恐怖で心がざわついたまま、少しでも気を緩めれば安心感で泣きだしてしまいそうだった。
けれど俺は聖剣士。ここで弱みを見せるわけにはいかなかった。だから頑張って微笑を浮かべてみせた。
「……死ぬわけないだろ? お前が真の力を引きだすと思ってやられそうになったふりをしただけなんだから」
「そ、そうなん、ですか……?」
「ああ、心配させて悪かったな」
すんすんと鼻をすすりながら泣き止んだリナリアは呆然としたような表情で俺を見つめてから、死体に変わったイチゴリスに目を向けて小さく安堵のため息をついた。そうして目を伏せながら、涙に滲んだ声で呟く。
「びっくりするから、危ないことしないでください……」
気をつけよう、と俺も思った。
そして、俺は一縷の望みを託しながらポケットに畳んで入れておいた依頼書を取りだした。それを広げながら祈るような気持ちで内容に目を通す。そこに記された討伐数は記憶していた数と変わっていなかった。
「……行くぞリナリア、あと九匹だ」