最初のうそ魔法
春の朝は少し寒い。
まだ朝日も出ていない早朝の町の中で自転車を走らせながら俺は不意に身震いをした。通りに並ぶ木造建築の家々のポストへ牛乳を投函していきながら鼻をすする。
俺の名はユリウス。ユリウス・ローゼン。そう、成り上がりを夢見る十六歳のイケメンさ。
道の脇に立っていたカエルの像へポーズを決めながら自己紹介をした俺は改めて自転車を漕いで残りの牛乳を配達していった。
すべての配達を終えて挨拶して家路に着く頃には東の空に微かな光が見えはじめていた。これから家に帰って鳥の餌のような朝食を食べたら紡績工場の仕事だ。そのあとは新聞配達の仕事が控えていて、こう見えて俺は仕事ができる人間なのさ。
母親は俺が十歳になったときに死んだ。軍の兵士として働いていた父親は俺が小さい頃に魔物との戦いで命を落としたらしく、女手一つで育ててくれていた母親も過労で倒れ、二十八歳という若さでこの世を去っていった。完全に死んだのだ。あんなに綺麗な自慢の母さんだったのに。そりゃあ母親似の俺だって自然とイケメンになるさ。ったく、困っちゃうぜ。
それからどこかからやってきた母方の親戚に世話をしてもらうようになり、俺はいつしか家の中で肩身の狭い思いをするようになり、そして赤ん坊が生まれた二年前辺りから家計を助けるためにこんな毎日を送るようになった。
「ぶっちゃけ、よくある不幸な人生を歩みはじめてるわけなんだよな俺ってやつは」
同僚のレンコンはそれを聞くと隣で精紡機を動かしながら眉をひそめた。
「すぐに家を出た方がいい。その家族にここの稼ぎも持ってかれてるんだろ」
レンコンはここで知りあった三つ年上の先輩だった。とても気のいい男で時計職人に憧れており、けれどもこの町にはそういう仕事がないため首都へ行くための資金づくりのために今日もこの騒がしい工場で糸をつくっている。その過程で知りあった女と色気のある仲になって最近子どもができたとかで彼の夢は散っていったのだが、幸せそうなのできっと新たな夢を見つけたのだろう。
お金がないのでせめてもの気持ちとしてできるだけきれいな雑草の花束を結婚祝いに贈ったのだが、レンコンは埃が目に入ったとかでろくに感謝もしなかった。そんな無礼極まる亭主の傍らで嫁もただの雑草なのに丁寧に花瓶なんかへ活けて、きっと素敵な花言葉があるのねといつまでもにこにこしていた。
この件とはまったく関係がないが俺はレンコンとその嫁が大好きだった。野菜のレンコンは好きくない。
ともあれ、周りの同僚たちより質の高い糸を繊細に紡ぎだしていた俺は家を出ろという勧めに対して納得のいく答えを出すことができなかった。
町を出ていこうにも金がない。時間をかければ徒歩で行けないこともないが魔物が溢れているこの世界、運賃を払って馬車を使うか護衛を雇うかでもしないと呑気に町の外を闊歩していればどんな危険に晒されるかわからない。魔物だけならいざ知らず強盗だって潜んでいるアウトローな魔境が町を覆う壁の外に広がっているのだ。
もしも魔物に襲われて命を落とすことにでもなったら天国で父ちゃんにしこたま叱られるのは間違いないだろう。けれど母親は再会を喜んで涙を流してくれるに違いないね。そういう意味では死ぬことに対してある意味では待ち遠しさもあった。そのときは甘い卵焼きをつくってもらって膝枕してもらいながらお昼寝するという強い野望がある。
そう、この俺は生粋のイケメンでありマザコンであり、そしてイケメンだったのだ。
「なにか、人生を丸ごと覆してくれるような出来事でも起きないかなぁ……」
「家の裏に金銀財宝が眠ってるとか?」
「そんなのうちの優しい叔母さんが全部持ってくに決まってるだろ。なんかすごい力持った女の子が現れてくれるとか、そんなのだよ」
「あるわけないだろそんな都合のいい話。それより聞いてくれよユリウス、俺の嫁さんが最近家事を全然してくれなくってさ──」
このままでは一生這い上がることはできない。
俺はレンコンの話を親身になって聞きながら彼を励まし、嘆きの心に煌めきを抱き続けた。
父さんも母さんも、きっと天国で俺の幸せを願っている。だから俺は幸せをあきらめない。父さんのように屈強な身体も持たなければ母さんのように魔導術の才能もないけど。
それでも俺は後ろを向いたりしない。家に雷が落ちて親戚家族が全員死んでくれれば金を稼ぐことができるようになるのだ。それでなにかを変えられるわけではないが、一歩は進める。そうして俺は牛乳を運び、糸をつくって新聞を配達する毎日を送りながらやがて来る転機を待ち続ける。
そんなわけで朝の九時から夕方の五時になるまでひたすらに糸を紡ぎ続けて仕事を終えた俺はレンコンと別れ、新聞配達をするために仕事場へと向かっていた。
夕暮れで赤く染まった空を見上げながら俺はそっとため息をついた。
救いなんてそんなに都合よく降ってくるものじゃないとわかっていた。明日も同じ夕暮れが空を茜色に変えていくように、時はいつも同じ速度で進み続けては悠久の平穏をこの世界へと平等に降り積もらせていくのだ。
そんなふうに詩的な表現で過酷な日常を彩っていると町を囲う巨大な壁の向こう、町外れの森がある辺りへ一筋の光の柱が落ちていくのを見つけた。
「え……えっ……?」
流れ星かなにかでも落ちたのかと驚き慌てて周りを見回したものの俺以外にそれを見つけた者は誰もおらず、急に驚いた俺へと近くを歩いていた人たちからの冷ややかな、かつ美貌を羨む妬みの眼差しが送られる。
振り返ったときにはもう光の柱は消え去っており、俺はゆっくりと深呼吸をして気を落ち着かせると女を落とすときに使おうと思って止まない低い声で呟いた。
「いったい、いまのは……」
まさか、いまのが噂に聞く転生者の光か?
この世界には時折、前世でなんらかの罪を背負った人間が現れるという。彼らはとても強大な力を手にしており、かつて存在していた転生者たちもみな英雄として歴史に名を連ねている。なにを隠そうこの俺のユリウスという名も希代の天才と謳われた大英雄、ユーリ・ホワイトガーデンから取ったものらしい。
その由来って実は後付けなんじゃないかと訊いたとき母親は目を逸らしていたが俺は転生者の光を見たとき迫りくる運命の旋律を感じていた。
大英雄の名を冠したこの俺に魔王を打ち倒せというのか……?
まるで天命を受けたように俺は駆けだしていた。あの転生者は俺の力となるべく現れた救い。日頃から言っていたならまだしも、願った直後に訪れた転機にさすがの俺も作為的なにおいを感じずにはいられなかった。
空がこの俺に英雄になれと言っている。
門番から暗くなってきたから気をつけるんだよ、とあたたかい言葉をもらった俺は町を飛びだしてさっき見た光の場所へ向かった。町の外に魔物はいるが、軍の魔導士たちが駆除しているおかげで町の周辺はそれほど危険な場所ではない。いや、たとえどんな危険が待ち受けようといまは死ぬときじゃない。
平原を抜け山菜取りに町民が訪れることもある森に足を踏み入れた俺はしばらく森の中を彷徨い、そして見当をつけた辺りから悲鳴を挙げる少女の声とそれを取り押さえようとする男たちの声を耳にした。
「誰かっ……! お願い、誰か助けてっ!!」
「静かにしろ! おい、さっさと縛れよ!」
他にも光を見た奴らがいたのか。
ユリウスは足音を忍ばせて大木に身を隠しながら覗きこんだ。屈強な男たちが一人の少女を羽交い絞めにして手足を縛ろうとしており、少女はぼろぼろと涙を流しながら必死でもがいていた。
やばい、どうやって助けるんだ……?
周りを見回して武器になるようなものを探してみたが、男たちは腰に短剣を差しており生半可な道具では太刀打ちできそうになかった。そのそばには大きな積み荷を背負った馬が二頭いて、どうやら彼らは行商人のようで町の人間ではなさそうだった。つまるところ外からやってきた奴であり、要するに足がつかない連中だ。
このまま出ていけば殺されてしまう。あの二人が少女をどうするつもりなのかは定かじゃないが、現場を見た俺を生かしておくつもりはないはずだ。
けれど、俺には野望がある。立ち止まっていられない。父ちゃん母ちゃん、見守っていてくれよな。
「そこまでだ」
俺の声に二人が驚いた顔をして振り返った。だが現れたのがただのイケメン、いや、望まざる運命に翻弄されし悲しき宿命の咎を背負う少年だと気づくと恐ろしい目で睨みつけてきた。
「なんだお前は?」
「町の人間か? すっこんでろよ」
工場長より怖い……。
俺は怯んですぐさま家に帰って虫の餌のような夕飯を食べたいと思ったが、背中で両腕を拘束された少女が涙でくしゃくしゃになった顔を向けて叫んだ。
「助けてくださいっ……!!」
やれやれ、女の涙を見るといつもこうなんだよな俺ってやつはよ。
男たちの視線を受け止めた俺は悠然と二人を見返した。
武器なんてなにもない。だが俺には母さんから褒められた唯一の武器がある。そういう意味では武器がある。武器ではないが、武器なのだ。
「その子を解放しろ。そしてすぐに逃げるんだ、俺の魔力が暴走をするその前に」
「なんだてめぇ、その格好で魔導士だって言うのかよ」
「やる気かよおい、ぶち殺すぞくそがき」
ロープを手にしていた男がそれを放り投げて短剣を抜きながら近づいてくる。俺は微動だにすることもなくその数人は殺してそうな強面の男を見上げた。
「……ふふ、まあやる気ではあるよ。こっちも仕事だから」
そう言って笑みを浮かべると微かに男の表情が変わった。そこに潜む恐れのかけら。気圧された様子もなく向かってこれる意味。もしかしたらという可能性に行き着いた心の揺れ動き。
俺はその変化を見逃さなかった。
「嫌いじゃないぜ、そういう命の捨て方。また人間に生まれ変われたら今度は身なりで判断しないよう気をつけるんだな、あばよ」
そのまま手のひらをかざすと男は慌てて短剣をしまい降参したように手を挙げた。
「ま、待てっ! わかった、待ってくれ! おい……やばいって、こいつほんとに魔導士じゃないのか……?」
「なに言ってるんだよ、杖もなしに……せっかく転生者を手に入れたんだぞ……?」
「大人しく引き下がるんなら見逃してやるよ。殺すか殺されるか、張るにはつまらない博打だろう?」
「っ……」
男たちは顔を見あわせると少女を離し、馬に乗って町とは反対の方向へと逃げていった。それを見送りながら、小さく息を吐く。
そう、俺にはどんなうそだろうと平気な顔で貫くことができるという底なしの度胸があった。内心では心臓がものすごい速さでばくばくと音を立てていたが、それに気づかれずうまくいって俺は味をしめていた。
俺はうずくまって泣いていた少女の前に膝を突いて手を差しだした。不安げに顔を上げた少女へと小さく微笑みかける。
「怪我はない? もう安心していいよ」
「あ、あのっ……ありがとう、ございますっ……」
堪えきれず抱きついてきた少女の頭をそっと撫でながら俺は耳元で大丈夫だよ、と囁いた。
この少女は転生者で、魔王を倒せる力を持っていて、そして俺は超絶ド級の貸しをつくった命の恩人である。
やったぜ母ちゃん。俺が英雄になる姿、天国で見ていてくれよ。
少女が泣き止むまで優しく頭を撫でながら、俺はにやりと口元に笑みを浮かべた。