ハンカチと思い出
トイレから出てすぐに、足元に一枚のハンカチが落ちているのが目に入った。誰かが落としたものなのだろう。
僕は落とした人に届けてあげたくて、それを手にとって広げてみた。
大きさは三〇センチメートル四方ぐらいで、裏面はタオル地になっている。タグに名前が書いてないかと見てみたが、何も書いていない。さらに手がかりを探して表面を見ると、そこには思いもよらないものが描かれていた。
表面には、寝そべっている猫のキャラクターが描かれている。しかしこれはただの猫ではない。亀の甲羅にすっぽりと収まり、まるで身動きをする気がないようにじっとしている。猫のやんちゃなイメージからは程遠い穏やかな表情で、見ているこちらも穏やかな気持ちになる。
間違いなく、これは僕が愛して止まないかめにゃんだ。
かめにゃんといえば、グッズが出始めたのは八年ほど前だ。今ではあまり有名ではないキャラクターではあるけれど、女子にはとても流行ったキャラクターだ。その可愛らしい見た目は男子に理解されるはずもなく、小学校でかめにゃんのグッズを使っている男は僕だけだった。あの時はとてもバカにされたものだった。
それでも、僕がかめにゃんを好きな気持ちは変わることがなかった。だから、中学に入ってから高校一年生となった今まで、ずっとかめにゃんを隠し持ちながら過ごしてきた。本当はかめにゃんが好きな気持ちを誰かと分かち合いたかった。けれど、女子の輪の中に入るのはなんだか気恥ずかしかったし、そもそもかめにゃんは今ではマイナーなキャラクターだから、それが叶うことはないと思っていた。
ところが、そんな隠し続ける日々に最近変化があったんだ。
※
入学してから一週間ほどたった放課後の出来事だった。あの頃の僕は部活動には入っていなかったし、特に学校に残る用事はなかったので、家に帰ろうと思って帰り支度をしていた。
「優木くん」
そんな時、すぐ後ろで女子が僕を呼んでいた。女子とは喋ったこともないのに一体誰なんだろう。肩を思わず跳ね上がらせながら、あの時の僕は振り返ったんだ。
そこに立っていたのは表情がとびきり明るく、いかにも高校生活を楽しんでいるといった様子の女子生徒だった。
入学してから初めてクラスメイトに話しかけられた。一体何故なんだろう。いや、それよりもこれは友達を作るチャンスなのかもしれない。一瞬のうちに思考が巡ったあと、僕の口から出たのはこんな言葉だった。
「優木じゃないよ!」
「そんな、優木くんじゃないの!?」
話しかけられたことが信じられなくて、つい否定から入ってしまった。しかし、僕は紛れもなく羽柴優木である。何を言っているんだろうか。
彼女はとても困惑していた。うーんうーんと唸って、僕の本当の名前を思い出そうとしている。
「いや、優木です……」
僕は教室から今すぐ消えてしまいたくなりながら、訂正した。
「良かった、やっぱり優木くんだよね」
彼女はまた満面の笑みに戻って、両手で肩を叩いてきた。僕は彼女の手が触れるたびに、柔らかな感触にいちいち軽く震えてしまった。
「ところでさ、何か用かな、えっと」
僕は彼女の名前を呼ぼうとしたが、まだパニックが抜けていなくて詰まってしまった。 彼女はそんな僕とは対照的に、とてもはっきりと元気よく名前を教えてくれた。
「華だよ、私は華」
「そうだった、柏原さん」
下の名前を教えてくれたとき、入学初日に、やたら元気に自己紹介をしていた彼女の姿を思い出した。それで僕はようやく相手の名前を呼ぶことができた。
でも彼女は何故か軽く笑いながら、「華って呼んでよ」と応えた。笑うようなことなんてしてないはずだ。お母さんからは女の子には乱暴しちゃだめだと言われているから、ちゃんと丁寧にしたはずなのに。
それはともかく、彼女はなぜか僕に声をかけてきた。しかしながら、僕は女子の興味を引くようなイケメンでも無ければ高身長でもない。もちろん、スポーツが得意なわけでもない。いったい僕の何が彼女にそうさせたのか。
「あの、僕なんか変かな?」
これは聞いても仕方がないことだ。変じゃないと言われても、それが本当かどうかはわからない。変だと言われたらただ落ち込むだけだ。でも、自信のなさから聞かずにはいられなかった。
彼女は僕の顔を少し眺めて、目をぱちくりさせた。
「んー、びっくりしすぎたとは思うけど、それくらいかな?」
ならば僕は別に変じゃないということだ。
「はあ、ならいいのかな」
僕は愛想笑いを浮かべながら言った。まだ変な人だと思われてないなら、ここからは冷静にしゃべらないと。
「あ、『僕なんか変かな?』は変だよ」
柏原さんは僕にツッコミを入れて、心から楽しそうに笑った。どうやら、僕はすでに冷静ではなかったようだ。恥ずかしくてたまらず、額に手を当てて俯いた。そんな僕を見て柏原さんは「可愛い~」とクスクスと笑っていた。
それで、結局なんで僕に話しかけたのだろうか。僕は咳払いをして、改めて聞いてみた。
「なにか用があったんじゃない、柏原さん」
彼女の名前を呼んだとき、柏原さんはどこか苦い表情になったような気がした。ちょっと馴れ馴れしかっただろうか。
「華だよ」
「うん、知ってるけど……?」
どうしてまた名前を教えてくれたのかは分からないけれど、これだけ言われたら柏原さんの下の名前はきっと忘れないだろう。
僕に釣られたのか、彼女も咳払いをした。それから言ってきたのは、こんなことだった。
「ねえねえ、カバンの中のそれってさ――」
カバンの中のそれという言葉に、僕は寒気を感じた。一体、中に入っているどれの事を言ったのか。まさかあれのことなのか。
僕はうまく動かない唇で何かを言おうとしたが、途端に身が凍る思いをした。彼女はもうすでに、僕のリュックサックの中を見ていた。そこにある見られたくないものを急いで隠そうとしたけれど、手遅れだった。
「わあ、かわいい!」
彼女は近づいたまま、幼稚園児がパンダを見たときのような声を上げた。しまった、かめにゃんを見られた、バカにされる。僕は少し耳鳴りを覚えながらも、慌ててリュックサックのファスナーを閉じた。
「えー、もっとよく見せてよケチケチしないで」
まだ興奮しながら彼女はリュックサックに手をかけてきたので、僕もワンテンポ遅れながらもカバンを引っ張りつつ、なんとか声を上げた。
「柏原さん、落ち着いて。人のカバンは勝手に開けちゃ――」
「かめにゃんでしょ? 私も好きなんだ」
柏原さんは僕の言葉を遮りながら言った。あの時は本当に耳を疑った。高校生になってまで子供の頃のキャラクターが好きなのは、自分だけだと思ったからだ。
「……知ってるの?」
僕はあっけにとられて、なんとかそれだけを言った。
「うん、私もまだ持ってるよ」彼女は目を輝かせながら続けた。「かめにゃんのグッズって今は売ってるとこ少ないから、ゆうにゃんが持ってるなんてねー。ゆうにゃん真面目そうだから、こういうの興味ないと思ってたんだけど、もう私の同志だね」
一息に言い終えると、親指を立てた拳を突き出しながらニカッと笑った。それとさり気なくフランクな呼び方をしてきたのを、僕は聞き逃さなかった。
「ゆ、ゆうにゃん?」
「そう、ゆうにゃん。優木くんがかめにゃん持ってたから、ゆうにゃん」
さも当然のように、彼女は言ってのけた。僕はかめにゃんほど自分が可愛らしいだなんて思わない。それに、男に生まれたのに可愛らしくても、そんなの人生で役に立つのだろうか。いや、そんなことではない。その呼び名を使われ続けるのはなんというか、あまりにも恥ずかしい。
「いや、ゆうにゃんはやめてほし――」
「あー、あったあった、やっぱり可愛い~」
あまりにも可愛らしいあだ名に戸惑っていたら、彼女はいつの間にか、リュックからかめにゃんを取り出していた。僕はうっかりリュックから手を離していたようだ。
「ああ、返して!」
僕は席から立ち上がって、柏原さんの手の中にある、毛糸で出来たかめにゃんを取り返そうとしたが、たやすくかわされてしまった。
「あれ、あみぐるみだ、こんなグッズあったっけ」
柏原さんはてんとう虫を観察する少年のように、手のひらに乗せたかめにゃんのあみぐるみに見入っていた。
「売ってないって」
諦めずに取り返そうとしたけれど、彼女は真剣に観察しながら、軽やかなステップで身をかわしてきた。今思うと、柏原さんには第六感でもあるのだろうか。
「え、売ってないの? もしかして、限定グッズ!?」
しまったと思った。つい口が滑ってしまったようだ。あみぐるみを握りしめて柏原さんが迫ってきた。
「ちょっと、近いから」
「どうやって手に入れたの、ねえねえ」
彼女は今度は打って変わって、どんどん近づいてきた。僕は女の子に近づくことがはばかられて、身を引いてしまった。
「良いから返してって」
僕は近づいてくる柏原さんから顔をそらしながら言った。しかし彼女は聞き入れてくれなかった。
「返すから教えて」
まるで悪気のない純粋な声だった。もしかして、彼女はからかうつもりなんて微塵もなくて、本当に僕とかめにゃんの話をしたいだけなのかもしれない。ならば、僕もその気持ちには応えてあげたいと思った。
覚悟を決めて柏原さんの方を見ようとすると、やはり目と鼻の先に彼女の目があって、恥ずかしくて即座に顔をそらし直した。僕は相当な挙動不審に違いなかった。そして、かめにゃんのあみぐるみがどこで作られたものか言おうとしたけれど、うまく言葉にならずに空気の音だけが僕の口から漏れた。
「え、なになに」
柏原さんは聞き逃さないように、僕の口元に耳を寄せてきた。もはや髪が鼻に触れるほど近い。シャンプーの香りをほのかに感じた。何故柏原さんはこんなに人との距離感が適当なのか、そしていい香りがするのか、僕には分からなかった。
「おーい、ゆうにゃん?」
柏原さんは今度は正面から顔を覗き込んできた。
「うわ、ごめんなさい」
僕は反射で謝ってしまった。でも僕は何も悪いことなんてしていない。柏原さんが勝手に近づいてきて、髪の香りを感じてしまったのは不可抗力なのに、どうしてそんなことをする必要があるんだろうか。
「えっ、ごめんね」
何故か柏原さんも一緒になって謝っている。そして一拍置いて「あれ?」と首を傾げてから、ハッとした様子で言った。
「なんで謝るの!?」
それから少し遅れて、彼女は吹き出した。
「なんか、ゆうにゃん面白いね」
批難されるどころか何故かニヤニヤしていた。
「あ、どうも……」
面白いなら良かったのだろうか。
「ゆうにゃんってよく見たら結構可愛い顔してるね!」
どさくさに紛れて男子としては屈辱的なことも言われた。
そういえば小学生の頃、低学年の子から僕はお姉ちゃんと呼ばれていた。別に髪の毛を伸ばしていたわけでもないし、口調も女の子じゃなかったはずなのに、どうしてなんだろうか。性別を間違われるのは当時の僕にはダメージが大きかった。
その時のことを思い出してなんだかしょぼくれてしまう。
「私は好きだな―、ゆうにゃんの顔」
「えっ、ええ」
不意に言われた好きという言葉に、僕は思わず痙攣するような返事をした。
「可愛いのが好きなんでしょ?」柏原さんは早口で喋り始めた。「だったら自分自身が可愛いなんて最高じゃん、鏡見て毎日可愛いものを愛でることができるんだよ、ゆうにゃん幸せ者だよ」
言い終えた彼女の顔はどこか満足げだった。
「さすがに自分の顔は無理かな」
苦笑しながら僕は答えた。
「あー、笑った顔も可愛い!」
柏原さんは、すっかりかめにゃんのことを忘れているようだった。
それにしても、今彼女の手にあるかめにゃんが、限定グッズと勘違いされるとは思わなかった。そもそもそれは公式のグッズですらないのに。
でも、彼女の勘違いは、僕にとってとても嬉しいことだった。かめにゃんのことを知っていたし、あみぐるみを見たとき心の底から嬉しそうにしてくれた。
それに、柏原さんだって可愛いと思う。高校生になったらみんな大人になると漠然と思っていた。けれど、彼女の笑顔はタンポポを見つけて喜ぶ子供のようで、釣られてこっちも子供に戻っていくような気持ちがした。
「どうしたの?」
僕が黙っているのに気づいて、柏原さんが首をかしげていた。
そう言われて、僕は女の子の顔をジロジロ見ていたことに気づいた。
「あ、えっと、なんでもないです」
つっかえて、しかもやけに丁寧になりながら僕はうつむいた。まさかあなたも可愛いと思いますよなんて、そんなに親しくもないのに言えるわけがない。僕は柏原さんじゃない。
そこに、彼女はおもむろにかめにゃんを差し出してきた。
「ねえ、これってもしかして自作?」
忘れてなんていないようだった。
「……どうして分かったの?」
本当に何故わかったんだろうか。そう、これは僕の手作りである。
かめにゃんは今ではすっかりマイナーなキャラクターなので、売っている場所はめったに見つかることがなかった。なので、僕は中学から自作を始めたのだ。
でも、さっきは公式のグッズとすっかり勘違いしていたみたいだったし、バレていないと思っていた。
「あれ、ほんとに自作なの、天才!?」
柏原さんは驚きながらも褒めようとしてくれていて、その表情はとても忙しかった。あと、ただの勘で自作であることを当てたみたいだった。
なんて大げさな人なんだろう、と思った。その一方で、こんなに素直に褒めてくれる人がいるのに、どうして僕は隠し続けていたんだろうか、とも思った。
柏原さんはすっかり子供になって僕のあみぐるみをぐりぐりと撫で回したり、あみぐるみの手足をジタバタさせたりしていた。かめにゃんをただ持っているだけで恥ずかしいと思っていた僕自身が、なんだか馬鹿らしかった。
高校生になったら、みんな大人になるものだと思っていた。でも、彼女はとにかく天真爛漫と言うにふさわしい人物で、彼女の周りは常に陽が差しているように明るく感じられた。
僕はいつの間にか、柏原さんのそんな様子に頬が緩んでいた。
※
ハンカチに描かれていたかめにゃんを見て、僕は柏原さんのことを思い出していた。
この学校でかめにゃんのことを話していた人なんて、僕は彼女しか知らなかった。だから、これもきっと彼女が落としたものなんだと思う。
同じかめにゃん好きとしては、これは早く届けてあげたい。なくしてしまうと、もう手に入りにくいのが僕にもよく分かる。そうなったらきっと彼女はとても悲しい思いをするに違いない。
僕はハンカチを四つ折りにしてから、ブレザーのポケットに入れた。
そして、すぐに問題に気づいた。
「連絡先、交換しとけばよかったな……」
かめにゃん仲間なのに、LINE友達登録をしていなかったのだ。
そもそもかめにゃん仲間だと思っているのは僕だけなのではないだろうか。自分から話しかけたこともないのに、仲間だと思ってもらえるはずがない。
でも、僕はこのハンカチの価値がわかる。これは絶対に届けなくてはいけない。
まだ教室に残ってたらいいなと考えつつ、僕は自分のクラスに足を向けたのだった。