8 初めてのお買い物
いつもなら朝食をとっている時刻。
普段のラフな作務衣から外出用のジャケット姿に着替えたラークは、玄関前でエルナが来るのを待ち構えていた。
──現れたエルナは、石像のようだった。
特別、服装などがおかしいわけではない。
普通に街を歩いていてもおかしくない、春らしいパステルブルーのワンピース。それほどセンスに自信のないラークが、乏しいコミュニケーション能力で店員に相談し、悩みに悩んで買ってきたものである。
よく似合っている。
が、エルナの表情は大理石のように硬い。動作もカクカクしており、全般的に余裕というものが感じられない。
「エルナ、大丈夫? 緊張してる?」
「………………何も問題ない」
『気楽にいこうぜ、嬢ちゃん』
「…………問題ない。私は気楽」
気楽な石像のガチガチの笑み。
右手と右足が同時に出るほどのリラックスぶりに、苦笑いを浮かべながら屋敷を出発する。
ラーク自身、軍学校の学生寮から初めて街に出たときは、同じようにずいぶんと緊張したものだ。数年間の引きこもり期間を考えれば、エルナがこれほど硬くなるのも頷ける。
明るい庭をゆっくり歩く。
林を抜け、執務棟の横を通る。
領主館の門にたどり着く。
あらかじめ申請はしてあったものの、衛兵はずいぶんと驚いた顔でラークとエルナを見た。
「エルナ様! い、行ってらっしゃいませ」
門のところでは、衛兵がビシッと敬礼をして二人に挨拶をしてきた。その様子から嫌悪は感じられない。
エルナは戸惑ったように頷く。
ラークは衛兵に帰宅時間の見込みを告げると、先導して門を出た。
「お、お気をつけて!!!」
背後から聞こえる声。
その勢いに驚いたのだろう、エルナの挙動からは少しだけ硬さが抜けていた。表情こそまだこわばっているが、足取りには微かに楽しさが滲んでいる。
「衛兵……なんだか、優しかった」
「いや。驚くだろうけど、あれが世の中の普通なんだ。ビシッとしてるのは衛兵だからだけど、嫌われない人っていうのは、あんな感じの扱いを受けて暮らしてるんだよ」
「……………………なんと」
驚くエルナの傍ら、ラークはホッと胸をなでおろした。
青魔導〈心波〉。
これは、精神属性の青魔導の中でも、その身から発する心の波動を操作することができる術だ。
ラーク自身、嫌悪感を抑える手段として常に発動しており、現在はエルナの嫌悪感を打ち消すためにも使っていた。
だが、自分とエルナの二人分、しかも同時発動しながら街歩きをするというのは、実はかなり高度で繊細な技術だ。魔導に長けているラークだからこそ実現できているが、他の者では難しいだろう。
ラークはこの一ヶ月、エルナには内緒で早朝や深夜に特訓を重ねていたのだ。
そんなことはおくびにも出さず、ラークはいつものように説明する。
「エルナの訓練の最終目的は、青魔導を自力で扱えるようにすることだ」
「…………なるほど」
「最終的には、二十四時間、息をするように自然と発動できるようになれば完璧。まぁ、ひとまずは誰かと会っている間だけ発動できれば十分だよ」
「……うん……がんばる」
ラークは気軽に言うが、寝ている間も魔導を常時発動する、などという変態じみた魔導行使ができる者は、軍学校でもラークの他にはいなかった。
未だマナの把握すらできていないエルナは、その壁の厚さを全く理解しないままコクコクと頷いた。
領主館から道沿いに進むことしばらく。
現れたのは、この都市の中央公園だ。
広い敷地のあちこちで、商売人たちが屋台で様々なものを売っている。事務所街で働く人たちをターゲットに、安価な朝食を提供しているのだ。
興味深げにあたりを見回すエルナ。
ラークは数枚の銅貨を彼女に手渡す。
「買い物、してみようか」
「………………無理」
エルナは首を横に振る。
「でも、朝食まだだし。お腹空かない?」
「…………待って。無理。まだ無理」
さすがに難易度が高いか。
ラークは考えをあらため、エルナから突き返された銅貨を受け取った。そして、彼女を伴いひとつの屋台へと向かう。
その屋台は、ラークもこの一ヶ月で何度か利用したことがある店だった。その上、店主のおばちゃんのパワフルなキャラに引っ張られるように、いつの間にか名前を知られて常連扱いされ、スムーズとは行かないまでも軽い雑談はできるようになっていた。
つまり、これは勝ち試合だ。
ラークとてコミュニケーション能力は高くはないが、生徒の前で情けない姿を晒したくはない。
堂々と背筋を伸ばし、エルナに「会話とはこうやってするのだ」という姿をババンと見せつけたいのである。
意気揚々と屋台に向かう。
ずんぐりむっくりとした小柄なおばちゃんの背中に話しかける。
「こ、こんにちは」
「ん? あぁ、ラークちゃんかい! おはよーさん。今日はいやに早いじゃないか……ってなんだい、彼女連れかい!?」
「あ……いえ」
「んもぅ、なんだいなんだい、ずいぶんと可愛らしい彼女じゃないのさ! やだねぇ、妬けちゃうよぉ! ぼんやりした顔して意外とやるじゃないのさ。あんたがフリーだったらアタシの娘を紹介してやろうかと思ったのにねぇ。これがさぁ、アタシによく似て美人なんだよ、アッハッハッハッハ」
「あ……はぁ」
体感で普段の十倍ほどのテンションだ。
ラークは気圧されて口をパクパク開く。
いつも、ラークが街へ出るのは午後のことが多い。というのも、午前中は自分自身の訓練やエルナへの指導を行っているからだ。
つまり、朝のおばちゃん──元気フルチャージのおばちゃんに遭遇したのは、実は初めてのことなのだ。
一方のおばちゃんにとっては、いつも一人で利用していた常連客が恋人連れでやってきた。口撃力は倍ドン。ゴシップ大好き世話焼きおばちゃんを前に、ラーク程度のコミュニケーション能力で対応するのは絶望的と言えた。
「──にしても、可愛らしい娘だねぇ。地味めなラークちゃんにはもったいない娘だわ! 目がくりんとしてて、ちょっと領主様んとこの姫様にも似てるんじゃないかい?」
「あ、その」
「クールな感じでちょっと小柄なところなんかはアタシに似てるわね! そうよ、スラッとしたスカした女より、アタシみたいに小ぢんまりした可愛らしい系の方がいいわよね。どこで捕まえたのよ、こんないい子。んもぅ、恥ずかしそうに一歩引いちゃってねぇ。こういう奥ゆかしい大人しい子に限って、アッチの方は意外と──」
「──ちょ、ちょ、そういうのは」
「あら、もしかしてまだなの? 意外だわぁ、今どき初心なのねぇ。うちの娘なんて彼氏ができる度に──」
竜巻のように話し続けるおばちゃん。
ラークが完全敗北を喫する傍ら、エルナの表情は逆に冷静になりつつあった。
「ねぇ、クロバ……」
『どうした? 嬢ちゃん』
「……ラーク先生みたいに『あ』『いや』『その』とか言ってれば……おばさん、勝手に話してくれる、よね……」
エルナの言うとおりの光景だった。
竜巻どころか徐々に大嵐の様相を呈してきたおばちゃんのしゃべくりに、ラークは首を縦横に振るだけの返答しかできていない。
「……いける」
『嬢ちゃん?』
「……私でも……いける」
なんだか妙な決意をした様子のエルナが、ラークの手から銅貨を奪い取る。そして、無謀にも大嵐の真っただ中に突っ込んだ。
ラークは固唾を飲んで見守る。
「……はじめまし──」
「あらあらお嬢さん、彼氏を取っちゃってごめんなさいね! 今日はこれからデートでしょ。そのワンピース似合ってるわよ! いいわね青春ねぇ。まったくもう、ラークちゃんたら、こんな可愛い彼女がいるなんてひと言も言わないんだから」
「……あ」
「こういうクールぶった奥手な男はねえ、お嬢さんからガンガン行かなきゃだめよ! アタシの旦那もそうだったわー、それはもう大人しくてね! 引っ込み思案な少女だった私もいよいよ覚悟を決めて脱いで迫ったものよ」
「……二つ」
「二つ? あぁ、注文ね。はいはいちょっと待っててね。それでそうそう、旦那の話よ! だいたい男なんてのは待ちの姿勢じゃいくら経っても何もしてこないんだから──」
おばちゃんは決して口を止めることなく、パンの切れ込みに野菜とソーセージを挟んでソースをかける。スパイシーな香りのホットドッグが、あっという間に二つ出来上がる。
「はい出来上がり。80クロンね。はぁ、まったくもう、男どもってのはどうしてこうも情けないのかねえ。やっぱ女が引っ張ってかないとダメよ」
「……銅貨」
「はいはい。えーっと……8枚ちょうどね。ありがと、うちのは絶品だからね、温かいうちに食べな」
「……食べる」
「今日のデートで決めちまうんだよ!」
「……決める」
「ちゃんと責任取らせるのよ!」
「……取らせる」
「よく言った、その意気だ! 女は度胸!」
「……度胸」
二人はハイタッチを決める。
完全にその場の勢いだ。
戦利品を受け取り、背筋をピンと伸ばして凱旋する。戦場を生き残った英雄は、途中で離脱してしまった負傷兵にも優しく成果を分け与えた。
まさに美談である。
「……人生初。お買い物、できた」
「お、おめでとう」
『ラークよりやるじゃねえか』
「……ばっちり」
得意げに微笑むエルナ。
二人はホットドッグを頬張りながら、中央公園をあとにした。
ラークの背中からは謎の敗北感が漂う。
その一方、エルナの足取りはすっかり軽くなり、朝の緊張はすっかり消え失せているようだった。