7 新しい生活
人工林に囲まれた小さな庭。
そのどこを見ても、以前の荒れ果てた様子はまったく残っていない。
伸び放題だった雑草はきれいに刈り取られているし、地面のデコボコもすっかり均されて踏み固められている。
そんな庭を、ひとつの人影が懸命に走っていた。
「……鬼……悪魔……人殺し」
げんなりした表情で呪詛を吐きながら走るのは、エルナ・シルバ・ローデント、十五歳。銀級貴族ローデント家の嫌われ令嬢だ。
ラークの指導が始まって一ヶ月。
彼女の見た目には大きな変化があった。
雑草のように伸び放題だった青灰色の長い髪は、バッサリと切られてポニーテールに結ばれている。前髪もさっぱりして、小動物のような可愛らしい顔もよく見えるようになった。
ボロボロだった服装も、今ではラークとお揃いの作務衣だ。エルナの髪色に似合う濃紺の布生地を見繕い、縫い合わせ、普段着として数着を着回している。
健全化した日常生活。
だというのに、エルナの表情は優れない。
「……サディスト……破壊者……極悪人」
「そういう無駄口を叩けるうちは大丈夫だ。ほら、口は動くのに足が止まりかけてるじゃないか。スピード上げろ。〈雷火〉」
黒魔導〈雷火〉。
岩に腰掛けたラークの手から、紫の電撃が放たれる。それはエルナの足下に炸裂し、小さく火の手を上げる。
「ひっ……」
「遅い。ナメクジに追い抜かれるぞ」
「……外道……悪党……甘党」
『──いや甘党は関係ないだろ』
クロバの呆れ声が響く。
エルナは体力を絞り出すように速度を上げる。
見たままを素直に表現するのなら、現在のエルナの顔は死にかけの小動物そのものだ。とても人に見せられたものではない。他でもない、ラークによる指導(と言う名の拷問に似た何か)のせいである。
もちろん、虐めているのではない。
これは立派なマナ制御の修行で、実際に五歳の頃ラークが受けたものだった。
「……はぁ、はぁ……はぁ」
「そろそろ体力が尽きるか。〈回復〉」
白魔導〈回復〉。
ラークの手から飛んでいった白い光が、エルナの体にすぅっと吸い込まれる。すると、疲れ果てていたエルナの顔に生気が戻り、足取りが少し軽くなる。
「どうだ? マナの感覚は掴めそうか」
「…………やっぱり、よく……わからない」
「そうか。まぁ、焦らなくていい。僕自身、マナを把握するまでには結構時間がかかったからね」
普段意識することはないが、人は呼吸や食事でマナを取り込み、体内のマナを用いて日常生活を送っている。体を動かすときにも、怪我の回復時にも、脳内での思考や情動に至るまで。全てにおいてマナが必要だ。
そんなマナを制御する第一歩は、体内のマナを感覚的に理解することだ。
「──ほら、遅いぞ、走れ」
「…………辛い」
「いいぞ。辛いのは大正解だ。白魔導で体力を回復させても『何か』が消耗したまま辛いだろう。その感覚を深く追いかけろ。それがマナだ」
簡単な話だ。
走ることで、体力とマナを消費する。そして、白魔導で体力だけを回復させる。すると、体力は残っているのにマナだけ枯渇した状態が出来上がる。
それを取っ掛かりに、マナを理解するのだ。
「遅い遅い。ペンギンに嘲笑われるぞ」
「……人でなし……悪逆無道……掃除魔」
『おう、掃除魔は間違いねえな』
「……あと洗濯魔」
『ははは、片付け魔も加えてやれ』
クロバは楽しそうに笑うが、当のエルナはひたすら悲惨な様相だ。そろそろモザイクをかけた方が良いかもしれない。間違っても、銀級貴族家のご令嬢が無様に晒していい顔ではないだろう。
──黒魔導〈雷火〉が飛ぶ。
「よし、じゃあそろそろ……二倍速で走れ」
「無理」
「できるできないじゃない。やるんだ」
「死ぬ」
「そう言って死んだ者はちょっとしかいない」
「…………いるんだ」
「なんだ、元気だな。じゃあ三倍速で」
「……理屈が分からない」
無茶である。
が、ひとつだけ言い訳をするのであれば、ラークは軍学校でも基本的に教官から嫌われていた。他の生徒より厳しい訓練を課され、暴言を吐かれ、とんでもない無茶を要求されてきたのだ。
そんなラークの「普通」の基準から比べれば、現在の指導はかなり優しめのつもりである。
──黒魔導〈雷火〉が乱雑に飛び交う。
「……理解不能……傍若無人……冷酷人間」
「そういや、もうすぐ昼食の時間だな。献立はどうするか。卵入りの肉麺と春野菜の蒸したのと。デザートは──」
「先生は精霊神の御子……守護聖人……大天使」
コロッと態度を変えるエルナ。
その様子に、ラークは苦笑いで答える。
「分かった分かった。山羊乳の氷菓子がまだ残っていたはずだ。それをつけよう」
「……いちごのシロップは?」
「あぁ、買い足したのが保冷庫にある」
「……大勝利」
『嬢ちゃん……。いや、何も言うまい……』
疲弊しきった顔でニヤけるエルナ。
微笑みながら黒魔導を飛ばすラーク。
地獄に平和があるのなら、きっとこんな光景なのだろう。この屋敷においては、いつも通りのただの修行風景なのだが。
一ヶ月前と比べ、すっかり整頓された室内。
ダイニングテーブルでは、小さなスプーンをくわえたエルナが、恍惚の表情を浮かべて固まっていた。デザートの山羊乳氷菓子 (いちごシロップがけ)が相当お気に召したらしい。
春も中旬を過ぎ、ここ最近は気温も高くなってきた。冷たいものがことのほか美味しく感じる時期だ。
「…………はぁ…………幸せ」
『そりゃあよかったな。にしても、嬢ちゃんもだんだん表情豊かになってきたじゃねえかよお』
傍から見れば無表情に近いだろう。
ただ、この一ヶ月を共に過ごす間に、ラークやクロバは彼女の表情の微妙な変化を読み取れるようになっていた。
「今日の肉麺はどうだった?」
「…………胃袋、掴まれた。完璧」
『訓練始まってから、嬢ちゃんもけっこう食うようになったもんな』
昼食に出した肉麺は好評で、エルナは何度もおかわりをしていた。はじめの頃の少食が嘘のようだ。
氷菓子の最後の一口を名残惜しそうに運ぶ。
「気に入ったなら、また作っておくよ」
「……うん……よろしく、先生」
エルナは嬉しそうに顔を緩める。
現在、食事はすべてラークが作っていた。
使用人を完全に敵に回したのだろう。
一日二食の冷めた食事も運ばれて来なくなり、魔道具用のマナ結晶や日用雑貨の補充も完全にゼロになった。
料理、掃除、洗濯、裁縫、買い出し、その他もろもろ全ての業務を自分で行う必要がある。
つまり、簡単に言うと──。
『軍学校時代と何も変わらねえってこった』
「……そうなの?」
「あぁ。寮母さんに任せると大変なんだよな。服を縫ってもらえば針が刺さったままになってる。黒豆茶は雑巾の絞り汁の香りがするし」
『料理には羽虫やら芋虫やらが何かしら入ってたりするからなぁ。はじめは、そういう料理なのかと思ったくらいだ。珍しい虫が入ってたりすると、嫌がらせなのに妙に得した気分になったりな』
思い出話に花が咲く。
一度など、生きたクワガタがオスメスそろって食事に混入しており、繁殖させ街で売りさばいたこともあった。
帝都の中心部は自然が少ないため、意外といい値がついたのだ。
「懐かしいな。まぁ、そんな感じでさ」
『だな。気づけば、大抵のことは自分でやるようになったんだ、こいつは』
「……なるほど」
疑問を挟むでもなく納得するエルナ。
おそらく、これまでの使用人からの仕打ちを思い出しているのだろう。クワガタの繁殖はともかく、似たような経験もけっこうしているようで、一つ一つのエピソードに驚くでもなく共感している。
「まぁ、しばらくは僕が全部やるから、そういう心配はいらないけどね」
「……しばらく……って、いつまで?」
「ん? 少なくとも、家庭教師の間は」
「あっ…………」
エルナはスプーンを取り落とす。
小さく口を開けたまま、ラークを見る。
「……そうだった……ずっとじゃ、ないんだ」
呆然としているような声と表情。
エルナの目が潤む。
「……先生と……ずっと、一緒がいい」
「それは。うん。嬉しいけどさ」
「……こんなに楽しい生活。初めて」
「それは僕もだ。まぁ、まだしばらくは続くさ」
頭をポンポンと撫でると、エルナはラークの胸に飛び込んでくる。
「……どこにも行かないで……先生とずっと一緒がいい。料理も覚える。裁縫もする。先生が望むなら、何されてもいい。ねぇ、既成事実を作れば、責任取ってくれる?」
『わりととんでもねえ発言だぞ、嬢ちゃん』
その内容はともかくとして。
消えてしまいそうな、小さな声だった。
孤独だったのだろう。
母親はエルナを愛してくれたが、五年ほど前に亡くなってしまっている。双子の妹のアルマとは普通に会話ができるが、会える機会もそう頻繁にはないのだという。それ以外の人間は、彼女に嫌悪の目を向けるのみで、ろくに話しかけてもこない。
ずっと独りのままなら、まだ耐えられた。
でも、エルナはもう知ってしまったのだ。
ラークはエルナの頭を撫でると、彼女の身体をそっと引き剥がし、腰を落として視線を合わせる。気恥ずかしさもあって、ラークの顔はずいぶんと火照っていた。
「えっと、その。エルナがそこまで言ってくれて、僕は嬉しく思ってるよ。素直に」
「…………うん」
「まぁ、恋愛うんぬんっていうより、依存心の方が強いんじゃないかとも思うけどね」
「……わからない……それは悪いこと?」
「悪くはない。でもきっと──」
彼女の目を覗き込む。
ラークの視線の温度が、スッと下がる。
「きっと、いつか。エルナは僕を嫌悪する」
「…………そんなこと」
『気持ちや努力がどうのじゃねーよ。今は嫌悪感を与えないよう制御しちゃいるが、こいつはゴキヴリのトーテム覚醒者なんだ』
「あっ……」
エルナは口をつぐむ。
現在は制御しているものの、ひとたび魔導の制御を手放せば、彼女はラークに嫌悪感を持ってしまうだろう。
「ずっと一緒にいれば、きっと何かの拍子に僕を嫌悪してしまう。その時、僕に依存してしまっている状態は危険だ」
それは、ラークにとっても耐えがたいこと。
何でもない人に嫌われるのは気にならないが、好意が憎悪に変化する苦痛はいつまでも慣れることはできない。
故郷の妹や、一度は友達になってくれた軍学校の同級生の顔が浮かぶ。
エルナはガクッと肩を落とした。
「……普通に……フラれた」
「いや、あの、エルナの事を嫌って言ってるわけじゃないからな。むしろ好ましいからこそ、こんなゴキヴリ男に深入りするのは、やめておいた方がいいっていう」
「………………悲しみが、深い」
「そ、そ、そう悲観することもないよ。僕の家庭教師が終わるってことは、エルナは人に嫌悪されなくなるってことだ。ほら、そうすれば、今とは全然違う人生が待ってるから」
「……そんなの……全然わからない」
『さぁラーク。今こそお前のコミュニケーション能力が覚醒するときだ。嬢ちゃんを上手く丸め込め』
「クロバは少し黙ってくれ」
うなだれるエルナを、ラークは視線を泳がせながら必死になだめる。二人の様子に、クロバは愉快そうな笑い声をあげた。
『ラークよぉ、嬢ちゃんがいいってんだから、一度くらい交尾してみたらどうだ』
「…………それはいい考え」
「クロバは誰の味方なんだ」
エルナはクスクスと笑う。
ラークも脱力し、軽いため息を漏らす。
「あ、そうそう、明日は街に出るよ」
「……そう……行ってらっしゃい」
「いや、エルナも一緒に行くんだよ。というか、エルナの外出がメインだ」
「…………えっ?」
「僕以外の人と接する練習も必要だよ。それに一度、嫌悪されない街ってやつを、体験してみてもいいかなって」
エルナは目を丸くしてラークを見る。
嫌悪感の制御はまだまだできていないのに、街を歩くなんて無謀もいいところだ。というのが、彼女の言い分だが──。
「まぁそのへんは任せてよ」
そう言って、ラークは気負った様子もなく穏やかに笑うのだった。