6 不器用な二人
木桶から食器を取り上げる。
ボロ布で擦り、丁寧に洗う。
しばらく水につけてはいたが、こびりついた汚れはどうにも頑固だ。それでも、何度も水に浸けなおしながら、少しずつ綺麗な食器に戻してゆく。
水を張った木桶をもうひとつ隣に置いて、洗い終わった食器を沈めた。
気がつけば、日はずいぶんと高い。
ふと人の気配を感じ、手を止めた。
執務棟の方から、見覚えのある人影が食事らしき盆を手に歩いてくる。
昨日案内してくれた、犬耳の使用人だ。
「あれ。先生、何やってんすか。皿洗い?」
エルナの朝食を持ってきたのだろう。
手に持った盆の上で食器が鳴る。
「あ、そうだ。改めまして、使用人のオスタっす。口調崩してもいいっすか?」
「はぁ、どうぞ」
「よろしくっす。いやぁそれにしても、本当にお嬢様の家庭教師を引き受けるなんて、勇者っすね。ある意味尊敬しますよ」
オスタは垂れた犬耳が揺らしながら、忙しく口を動かしている。よくここまで喋り続けられるものだと、ラークはついその勢いに圧倒されてしまう。
「先生の朝食は、職員用の食堂で食えるっすよ。みんな先生の話を聞きたがってて」
「話……?」
「いやぁ、ネズミ姫──失礼、エルナお嬢様の家庭教師を引き受けた上、屋敷に一晩泊まるなんて、前代未聞っすからねぇ。よっぽど強靭な精神の持ち主なのか、変わった趣味の変態なのか、なんて。そんな話題で持ちきりなんすよ。あ、みんな悪気はないっすけどね」
「はぁ……」
オスタは食事の盆をその辺にガチャガチャと置き、遠慮なく近寄ってきた。
盆の上の朝食をチラリと眺める。
スープの中に見えるのは、何かの幼虫か。
ラークは小さくため息をつく。
「昨晩は大丈夫でしたか? 会話すらちゃんと成り立たないでしょう、あのお嬢様。なんというか、他人に興味がないんでしょうね。声を出しても、ひと言ふた言ボソボソと話すだけだし」
「……んー、まぁ口下手なのは確かだけど」
昨日の様子を思い出す。
ラークとて目的のない雑談は苦手だが、エルナの口下手はそれ以上。誰かと話をすること自体を、完全に苦手としている様子だった。
唾のかかりそうな距離。
オスタは大きな身振り手振りで熱弁する。
「──家庭教師って言ってもねぇ。あの人、まともに勉強する気なんてないでしょ、たぶん。先生なんて要らない、勉強も別にどうでもいい、みたいな態度を取ったんじゃないですか」
「まぁ……そんなような事は言われたな。このままでいい、とか」
モチベーションはないに等しい。
ラークが来たからとて、自分の生活を何か変えるつもりはなさそうだった。嫌悪感を制御することに対しても、特に必要性を感じている様子はない。
別にこのままでいい。
エルナはそう呟くばかりだ。
「給料はいいのかもしれませんけどね。まー無意味だと思いますよ、あんなのの家庭教師なんて。ほら、双子の妹のアルマお嬢様だったらやる気も出るっすけどね。姉のアレは先生のことを雑草ほども気にしてませんって。なんつーか、向こうに打ち解ける気がないんだから、上手くいきっこないっすよ」
「そうか? 初対面だし、こんなもんだろ」
「いやー、俺だったら絶対無理っすよぉ」
ラークの肩がボンボンと叩かれる。
「建前はいいっすよ、正直にいきましょ。向こうもこっちを雑草だと思ってるだろうし、こっちもみんなアレは屋敷に住み着く薄汚いネズミだって思ってますよ」
「そんな──」
「使用人の誰に聞いても、いや、街の人みんなに聞いたって、ドヴネズミ姫の肩を持つやつなんざ一人もいません」
ケラケラと笑うオスタ。
ラークは口を閉じ、食器洗いを再開する。
──単純に不快だった。
ただ、これまでの経験上、こういう輩にまともに反論してもいいことはない。降り積もる憤りは、掃除などの建設的な方向に発散するのがラークのやり方だ。
ゴシゴシと皿をこするラークの横で、オスタの身振り手振りはどんどん大きくなり、酔っ払いのように舌をくるくる回して話し続ける。
「──あの人、なんで生きてるんすかね」
そんな言葉に、思わず手が止まる。
「あんなの存在してる意味ないっすよ。みんなに迷惑かけながら、ふてぶてしく飯食って寝るだけの生活でしょ。死にたくならないんすかね。こっちとしても、もうなんか、いない方がいいっつーか。生きてて欲しいと思ってるやつなんて一人もいないっつーか」
瞬間。
ラークの手から皿が滑り落ちる。
「──少し、黙れ」
思わず口から溢れたひと言。
我慢の限界だった。
「……生きてる意味とか、そんな大層なもの、お前は持ってるのかよ」
オスタの顔が固まる。
視線をあちこちに泳がせ、困惑している様子だ。ラークの反応が想像とは違ったのだろう。
ラークにとっては、エルナの状況は他人事ではない。
何をしても嫌悪されてきた幼少期。最後まで認めてもらえなかった軍学校。妹に拒絶され、軍にも見捨てられて、ラーク自身、今後の生き方を決めかねているところだったのだ。
器用になど生きられない。
ラークも、きっとエルナも。
「まぁいいや、どうでも。お前のことなんて、別に知りたくもない。たださ、あの子に生きる意味がないなんて、お前なんかが勝手に決めるなよ」
ラークはゆっくり立ち上がる。
自分の価値を他人に委ねたら、ラークやエルナのような嫌われ者たちは、生きていく意味をなくしてしまうだろう。
だから、自分で探さなければ。
「あの子の生きる意味は、あの子自身が自分で見つけるものだ。それを手助けをするために、僕は家庭教師としてここにいる。無駄だとも無意味だとも思わないし、早々にやめるつもりもない」
オスタの顔を真正面から見る。
静かな林の中、小鳥のさえずりが響いた。
「あの子は昨日、静かに本を読んでいたよ」
「それは……いつものことっすね」
「あぁ。お前らのように、わざと冷めた朝食を持ってきたり、その中にわざわざ虫を混入したりさ。そういう薄汚い真似は何もしてなかった。ただ、本を読んでいただけだった」
「あ……えっと……」
ラークは一歩ずつ、オスタに近づく。
感情的になってはいけない。
暴力沙汰でクビになれば本末転倒だ。冷静に、論理的に。戦いにおいて冷静さを失うことは敗北に等しいと、軍学校でも教わってきたのだ。
そう自分に言い聞かせながら、ラークはオスタの前へと立つ。
──気づけば、胸ぐらを掴みあげていた。
「お前らなんかが、僕の生徒を侮辱するな」
吐き出す言葉に、深い怒りが宿る。
オスタは怯えた顔をして、頭を下げて小さな声で謝ると、逃げるようにその場を去っていった。
執事服の後ろ姿を見送る。
『あーあ、こりゃあれだな、使用人をみーんな敵に回しちまったんじゃねーの』
「いいよ、あんなの。それに、僕の仕事はエルナの家庭教師だ」
『だからって魔導まで使うかよ』
「あれ……? 使ってたかな」
魔導とは、マナを使って魔現象を起こす術のひとつだ。
ラークはオスタを威圧していたらしい。
五色ある魔導のうちの青魔導──自分や相手の精神に干渉する、精神属性の魔導を使って。完全に無意識である。
ふぅと息を吐く。
再び腰を下ろし、汚れた皿を持ち上げた。
『今さらだがよ、ラーク。皿洗いってのは、家庭教師の仕事か? 普通やらねぇだろ』
「……確かに。まぁ、始めちゃったし」
『このマヌケめ』
「マヌケで結構」
『掃除魔め』
「やるべきことをやってるだけだ」
そんな話をしていると。
ガラガラ。
リビングと庭をつなぐ木戸が開く。
ボロを着た小柄な姫様が、遠慮がちにこちらを覗いている。
「…………あ……あの」
「あ、おはよう、エルナ」
「あの…………あの…………その…………」
「……?」
扉の向こうで、固まったままのエルナ。何かを言いたがっているような様子だが、どうしたのだろうか。
ラークは顔をあげ、ゆっくり待つ。
エルナは胸に手を当て、荒い息を整える。
不快ではない、緩やかな沈黙。
木々を吹き抜ける風が、春の陽気を運ぶ。
「あの……お皿……とか……」
「お皿?」
「洗う。お皿。私…………やる」
「そっか。じゃあ、一緒にやろう」
「…………うん」
数秒の沈黙。
ぎこちなく歩きはじめたエルナは、眩しそうに空を見上げている。もしかすると、屋敷の外に出たのも久しぶりなのかもしれない。
ラークの横に、ちょこんと座る。
「先生…………」
「ん?」
「…………ありがと」
「え?」
隣を見れば、涙目で顔を真っ赤にしたエルナが、汚れた皿を桶から取り出してじっと見つめていた。
なんに対しての感謝か、などと野暮なことは聞かない。おそらく先程の会話を聞かれていたのだろう。
ならば、ラークが言うことはひとつだ。
「エルナ。僕は君の家庭教師だ。知りたいことは聞くように。可能な範囲で教えるし、一緒に悩んで考える」
「…………うん」
「これからよろしくな」
ラークの言葉に、エルナは顔を上げて不器用な笑みを浮かべる。
「…………よろしく。ラーク先生」
細い声だった。ボロを纏い、髪はボサボサ、表情筋は瀕死。そんなエルナの様子に、ラークの心臓はトクンと音を立てる。
──天使が降りてきたのだろうか。
一瞬そんな錯覚をしたあとで、ラークはエルナの頭を優しく撫でた。