4 忘れ去られた屋敷
信じられない。
そんな視線を一身に浴びる。
目の前にいるのは、執事服を着た白髪混じりの中年男性。執事長だ。
彼は口をあんぐりと開けラークのことを見つめていた。同席している他の使用人も同様だ。
執務棟にある応接室。
ラークとしては、家庭教師の契約内容について詳細を詰めようと話し始めただけなのだが……。
「ラーク殿。聞き間違いがあってはいけませんからな、再度お聞かせください。今、なんと?」
「はぁ」
居心地は最悪だ。
来客用に飾られた絵画までもがラークを見つめているような錯覚に陥りながら、執事長をまっすぐ見返す。
「……家庭教師、引き受けます、と」
部屋の空気が固まる。
執事長は縦長の瞳孔をギンと光らせる。猫科か何かのトーテム特性だろうか。
「お嬢様にはもうお会いになられましたか」
「はい、さきほど」
「その上で、家庭教師を引き受ける、と」
ラークは首を縦に振り、書類を取り出す。
身元証明、経歴書、教官からの紹介書類。事務手続きに必要なはずのそれらを、呆けたままの執事長に手渡した。
「……た、確かに受け取りました」
「給与は月末でしたよね。銀行口座はまだ開設していなくて」
「なるほど。では、近日中に口座をお作りください。書類はあとからで構いませんので」
「わかりました」
言葉の端々に動揺がみられる。
が、ラークはひとまず気にしないように振る舞いながら、必要な事項を淡々と相談していった。
「執事長。彼女の屋敷ですが、マナ結晶の補充や部屋の掃除などがあまりされていない様子ですね」
「……仰る通りです。ですが──」
「あ、いや、事情は察してます。どうしようもない部分については、こちらでどうとでも対応しますよ。それで……」
「ふむ。気にされているのは費用面ですかな?」
執事長はなかなかに話が早い。
生活や教育にかかる費用はどのように精算したら良いか。溜まっている食器や掃除で出るゴミは誰の責任でどう処理すべきか。そのあたりは、はじめに詰めておかなければならないだろう。
「かかった費用でラーク殿が立て替えた分については、月末の給与と同時に返還しましょう。といっても、経費にも上限はあります。大きな出費については、その都度ご相談ください」
執事長の後ろで、書紀を担当する使用人が会話を記録する。あとで正式に書面にしてもらい、お互いの合意事項としておく必要があるだろう。
──契約ごとでは気を抜かない。
ただでさえ嫌われやすい性質のラークにとっては、身を護るためにこういった細部が重要になってくるのだ。
「あとそうだ、僕はどこに寝泊まりすれば良いでしょうか。荷物も多いですし、そろそろ腰を落ち着けたいのですが」
「そうですね。ただ、私どもとしても、まさか引き受けてくださるとは思わず、客間の準備ができていないのですよ」
申し訳なさそうに頭を下げる執事長。
使用人たちは気まずそうに目配せしあい、首を横に振る。おそらくは、客間のあきもない状態なのだろう。
春のこの時期は政治も大きく動くようで、領主館もいろいろと忙しいらしい。
「そうですな……。ラーク殿が嫌でなければ、エルナ様の屋敷で寝泊まりしていただきたいのですが」
「それは構いませんが……いいのですか?」
重大な間違いがあったら大変だ。
年頃のお嬢さんが一人で過ごす屋敷に、同年代の男性を住まわせるなど、普通はありえないことだろうが……。
「構わないでしょう。エルナ様ですから」
「ですが、さすがに──」
「万が一、ラーク殿がエルナ様に手を出せば、それはそのとき。もちろん責任は取っていただけるのでしょうからな。領主様も否とは言いますまい」
ニヤリ、と笑みを浮かべる執事長。
婚約者もおらず、結婚の見込みも薄いエルナのことだ。ラークのような平民であろうと、チャンスがあれば嬉々として押し付けるつもりなのだろう。
その後も、細々とした事項をまとめながら、契約の内容を詰めていく。
合意した諸条件の追加・変更には、双方の合意が必要である。そんな当たり前のことを、当たり前に記載した契約書が出来上がった。
エルナの屋敷に到着する。
空はすっかり茜色だ。
先程までの執務棟も、領主一家の館も、遠目に見てわかるほど煌々と明かりが灯されている。だというのに、人工林に囲まれたこの屋敷は、暗く冷え切っていた。
まるで誰からも忘れ去られたかのように。
玄関の引き戸に手をかけたところで、頭の中にクロバの声が響く。
『今日の寝床はこのゴミ屋敷かよ』
「仕方ないさ。片付けは明日からだ」
玄関の引き戸をガラガラと開く。
リビングに繋がる扉からは、薄っすらと明かりが漏れていた。さすがのエルナも、一日ずっと寝ているというわけではないらしい。
「エルナ、入るぞ」
声をかけながら、ブーツの土埃を落とす。
気がつけば呼び捨てにしているが。
軍学校でも、教官と生徒の関係は身分を超えて絶対のものだった。そこまで厳しくするつもりはないが、エルナとは教師と生徒なのだから呼び捨て程度ならおかしくはないだろう。
扉を開け、リビングに入る。
エルナと目が合う。
「……………………あ。さっきの」
「うん」
沈黙。
どちらからともなく視線をそらす。
エルナはソファの上に寝転がり、大きく重そうな本を静かに眺めている。読書のためだろう、壁の魔灯は彼女のそばのひとつだけがボウっと光っていた。
「………………」
無言。
ときおり、本のページをめくる音が響く。
ラークはリビングへと進み、エルナから少し離れた場所に背負い袋を下ろす。この近辺を片付けて、今夜の寝床にするつもりなのだ。
近くの壁にある魔灯をひとつ点ける。
「………………」
「………………」
お互いに無言で行動を続ける。
日が落ちてきたのだろう、室内は徐々に暗くなってきていた。
床に転がる本。散らばった書類。転がるインク瓶。それらを拾い上げ、丁寧に揃え、一箇所に重ねていく。
じっとりと汗をかき始める頃には、少しずつ床が見え始めた。が、寝床の確保にはまだ遠い。
ふと顔を上げると、エルナと目が合った。
「…………泊まるの?」
「あぁ」
「……そう」
短い会話。
不思議と嫌な感じはしない。
エルナは再び本に目を落とし、ラークは床の書類束に手を伸ばして──。
『ちょ、待て待て待て待て! お前らいい加減にしろよ! もっとこう、な、あるだろう、話すこととか疑問とか! 二人揃って「あぁ」「……そう」じゃねーよ!!!』
クロバの声が頭に響いた。
いつものように、ラークは心の中だけでクロバに答えようとした。しかし、それは意外な形で遮られることになる。
「……な、なに。今の」
エルナの動揺したような声。
見れば、彼女は空中をキョロキョロと見ながら何かを探しているようだ。
『嬢ちゃん。俺の声が聞こえるのか?』
「…………う、うん。何これ。誰?」
『はは、こいつは驚いたぜ』
ラークは静かに納得する。
トーテムの声が聞こえるのは、トーテムに覚醒した者か、覚醒間近の者だけなのだ。それ以外の者は声を認識することすらできない。
つまり──。
『ラーク。嬢ちゃん、不完全だがトーテムに覚醒しかかってるぜ』
「そうだな。ずいぶん心波が強い。マナ制御を教えるだけじゃ無理かもしれない。五色魔導……いや、青魔導だけでも練習しておかないと」
「……………………どういうこと?」
エルナの目が不安げに揺れる。
事前の手紙では、彼女の発する嫌悪感は年々強くなってると聞いていた。クロバの声を聞き取れることからも、トーテムへの目覚めが近いのは確実だ。
程度が軽ければ、マナの扱いをマスターするだけで嫌悪感を抑え込むことはできるのだが、ここまで来ると「魔導」を覚えなければ対処は厳しいだろう。
「あー、えっと、簡単に。この声の主は僕のトーテムであるクロバ。ゴキヴリ型のトーテムだ」
『よろしくな嬢ちゃん』
「……はぁ」
エルナは不思議そうにキョロキョロと首を動かし続けている。そうやって探してもクロバの姿は見つからないのだが。
「僕に依頼された仕事は、エルナに嫌悪感の制御を教えることだ」
『こいつも嬢ちゃんと同じ嫌われ体質だからよ』
「………………へぇ」
エルナは納得したように声を漏らす。
そのままソファに沈み込み、再び本に顔を埋め始める。
とりあえず最低限の情報は伝えたか。
そう判断し、ラークも寝床の確保に戻る。
『待て。待てよお前ら。初対面なんだぞ。これから一緒に過ごすんだ。もう少し話そうぜ』
「だってクロバ、寝床の確保……」
『黙れラーク! これだからお前は──』
ガミガミと頭に響くクロバの声。
ラークはスルーを決め込んで、小さくため息をつきながらゴソゴソとあたりを片付け始める。
『──ったくよお。まぁなんだ、嬢ちゃん。ラークはこんな奴だが、マナの扱いにかけちゃピカイチよ。こいつの言うとおりに訓練すりゃ、まわりに嫌われなくなる日もそう遠くねえ。がんばんな』
「別に…………いい」
エルナは本から顔をあげる。
そこにクロバはいないが……。
「……嫌われたままでも、別に、いい」
そんなつぶやきが、薄暗い室内に漂って溶けた。