3 引きこもりの少女
大きく堅牢そうな門だった。
歴史を感じさせる重厚かつ繊細な装飾。数人の衛兵が何やら忙しなく行き来し、張り詰めた空気が漂っている。
銀級貴族ローデント家の屋敷。
領主一家の暮らす家であり、領地経営の執務が行われている場所。門の先には広大な敷地が広がっているようだ。
待たされることしばらく。
門前に現れたのは、執事服に身を包んだ青年だった。垂れた犬耳はトーテム特性なのだろう。歳はラークと同じくらいか。
「ラーク先生、ですよね」
「あ、はい」
「旦那様から先生を案内するよう申し付けられております。どうぞこちらへ」
丁寧な口調とは裏腹の、不満げな顔。
ラークを嫌悪しているわけではないようだが、案内をすること自体あまり気乗りしていない様子である。
門の内に進みつつ、ラークは話しかける。
「すみません、手間を取らせて」
「あっ……いや。申し訳ありません。お客様の前で不満を顔に出すんじゃない、なんてよく言われるんですが。ただ少し、エルナお嬢様のもとへ向かうのが憂鬱だったんで──」
そう言うと、男は途端に饒舌になった。
聞いてもいないことを次々とまくしたてる様子は、口下手なラークからすれば未知の生き物のようだ。
「私は使用人の中でも一番の下っ端っすからね、エルナ様への案内をいつも押し付けられる形になってしまって。それでつい不機嫌な顔を。本当にすみません」
「……いえ、お気になさらず」
よほど皆に嫌われているのだろう。
ラークと同じトーテム特性だということであれば、納得のいく状況である。
「先生も災難っすね」
「……災難?」
「はい。エルナお嬢様にお会いになればわかるかと思います。こう言ってはなんですが、あんな薄汚い──ゴホンゴホン、あー、えっと、決して綺麗ではない方と四六時中一緒にいるなんて、拷問や神罰の類いっすよ」
「それほどですか」
「ですです。家庭教師なんて、さっさと断っちゃっていいっすからね。これまでの先生だって一晩と耐えきれずに──」
ペラペラとよく喋る使用人だった。敬語も怪しいし、こんなんでよく貴族の使用人が務まるものだ。ラークは半分ほど聞き流しながら歩みを進める。
門を入ってすぐの場所には執務棟。
数階建てはあろうかという大きな建物で、領地運営の仕事はそこで行われているらしい。貴族から平民まで、様々な立場の者が出入りしているようだ。
執務棟の横を抜けた先は、庭園だった。
綺麗に整備された庭は軍学校の校庭よりも広いだろう。庭師たちが日々手入れをしているらしく、美しい芝生、植樹、綺麗な池や小川が見るものを楽しませる。
「ほら、庭の向こうに大きな館があるっすよね。あれが領主一家の暮らす居住館っす」
領主一家の館は豪華だった。
長い歴史もあるのだろう。遠目に見てもわかる、荘厳かつ繊細な装飾。絵物語のお貴族様が暮らしていそうな、石造りの立派なお屋敷だ。
「へぇ、あれが──」
「あ、でも先生の行き先はあの舘ではありませんよ」
そう言うと、使用人は歩く方向を変える。
広い庭の片隅。
人工林をぐるりと回りこむ。
日の当たらない寂しい場所。
そこで、彼は一度立ち止まった。
「お嬢様はこちらで暮らしてまして──」
人工林のちょうど裏側。その屋敷は、目立たずひっそりと建っていた。
石造りの平屋建て。
平民であれば、ひと家族が暮らしていてもおかしくはないサイズだが、あの壮大な領主舘を見たあとでは、同じ敷地内にあることすら場違いに思える。
入り口の前まで進む。
コンコン。
使用人が屋敷の戸を叩く。
「エルナ様。失礼します。家庭教師の先生がいらっしゃいました」
ガラガラ。
使用人は返事を待たずに引き戸を開ける。
そして、すぐさま飛ぶように数歩下がる。
振り返った彼は、口元を押さえて涙目でラークを見た。
「うぐっ……さぁ、先生、中へどうぞ。わ、私は少しこの場を離れますので、用事がありましたら執務棟まで──うげぇっ」
使用人は嗚咽を漏らしながら足早にその場を立ち去る。
大げさだなぁ。
そう思いながら、ラークは扉の中へ滑り込んだ。
玄関は妙に薄暗かった。
壁面に魔灯はあるのだが、その光は弱々しい。マナ結晶が切れかかっているのだろう。本来はそういった消耗品を交換するのも使用人の仕事のはずだ。
「冷遇されてるんだろうな」
『昔を思い出すか?』
「まぁ、ね」
ひとまず、ブラシを使ってブーツの底面の土埃を落とす。家に入るときの最低限のマナーだ。
頬をムニッと摘んでみる。
落ち着け落ち着け。人付き合いにおいて第一印象は大事だと聞いたことがある。なるべく笑顔を心がけよう。
『変な顔になってるぞ』
「うーん……」
『慣れないことすんなよ。普通でいいだろ』
「普通か。それが一番難しいんだよな」
ふぅ、とひと息。
覚悟を決める。
「えっと、エルナさん。入るよ」
声をかけ、玄関の先にある室内扉を開けた。
「こんにち──」
数瞬の思考停止。
ラークは言葉を失った。
まず目に飛び込んできたのは、汚れものだらけのキッチンだ。使い終わったお皿やコップらしきものが、洗われないまま放置されている。数ヶ月どころじゃない、何年分だろう。カビの臭いが強烈に漂う。
汚れた食器の山はダイニングテーブルにも侵食しており、まるでその一帯が人間避けの結界を張っているかのようだ。
『おい、ラーク、ちょ』
「──腐ってる。これはダメだ。トーテム以前の問題。ただでさえ嫌われやすいのにこんなんじゃ。いや、貴族的には、使用人が片付けてくれないのが問題か。それでも、この状態を平気で放置してる時点でそもそもが──」
呟きつつ、リビングに目を向ける。
そこには多数の本や書類が乱雑に積まれていたり、カピカピに乾いたインクの瓶がいくつか転がっていた。キッチン、ダイニングとの間に仕切りはないが、一応使い分けはしているらしい。ただ、足のふみ場はない。
本棚や雑貨棚のような気の利いた家具もないから、これでは片付けようもないだろう。
ラークは腕を組み、天井を見上げる。
「──これはあれだ。マナ制御うんぬんじゃない。もっと前段階からなんとかしないと。整理整頓。清潔清掃。人としての最低限の生活ってもんを教えなきゃ。家庭教師? いいさ、やってやる。この腐った性根から叩き直して──」
『おーい。ラークやーい。帰ってこーい』
ボソボソと決意を固めながら、ラークはリビングの奥を見る。三つの扉のうちの一つから、人の気配を感じた。
寝室だろう。
まだ昼の時間帯だが、エルナは寝ている様子だ。
『ちょっと落ち着けよ、ラーク』
「エルナめ。この屋敷の惨状を目の前に、真っ昼間から眠りこけるとは。いい根性してるじゃねぇか。まぁいいさ、そんな腐った生活も今日でおしまいに──」
『ダメだこいつ、聞きやしねえ』
ラークは寝室の扉に手をかける。
「エルナ、このやろう、入るぞ。家庭教師のラークだ。お前に掃除の極意を教えにきた」
『そうだったか?』
クロバの言葉は華麗に聞き流して。
ガチャリ。
音を立てて、扉が開く。
エルナは確かにそこにいた。
柔らかいベッドの中心に丸まり、無防備に目を閉じている。呼吸に合わせ、体が小さく上下する。手元に転がっているのは、読みかけの本だろうか。
「エル……ナ?」
髪色は青みがかった灰色。日焼けしなさそうな白い肌。体のサイズはあまり大きくない。どちらかと言えば幼さの残る顔立ちだが、目鼻立ちは整っていて、ベッドに横たわる様子は置き忘れられた玩具人形を思わせる。
髪は伸びっぱなしで長すぎるほどだし、着ている寝間着もツギハギだらけのボロだけど。
なんというか。
「……可愛いよな? ものすごく」
『人間の基準は知らねえよ』
前評判はあてにならない。
こうして見ると、ただの可愛い女の子だ。
ただ、体中から人を嫌悪させる心波が出ているのは確かだ。これほど濃い嫌悪感を振りまいていれば、使用人が屋敷に寄り付かなくなるのも頷ける。
しばらくすると、エルナはもぞもぞと手足を動かしはじめた。薄く開いた目が、ラークのことを不思議そうに見る。
「………………誰?」
細い声だ。
ラークは貴族向けの礼をする。
「はじめまして。家庭教師のラーク・クロウラです。よろしく」
「家庭教師……」
ラークの体を、頭の上から足先までさっと観察する。
「……はぁ」
そう言ったきり、エルナは興味を失ったようにベッドに倒れ伏した。そして、すぐにスヤスヤと寝息を立て始める。
ラークは困惑しながら頬をかく。
「うーん……」
『どうすんだ、ラーク』
「まぁいいや。まずは執務棟に行ってみる」
寝室の扉をそっと閉める。
ひとまずは、もろもろの事務手続きを済ませてから考えることにしよう。そう決めて、ラークはエルナの屋敷をあとにした。