29 ゴキヴリ男の全力
この三ヶ月あまりで、すっかり見慣れた街。
その上空を、クロバの足につかまって飛ぶ。
トーテムを召喚している間、ラークの体からは嫌悪の心波が放出され続けている。当然のことながら、空を見上げる住民の視線は、家に潜む害虫を見つけた時のものと同質だ。
それでも、今は全力で飛ぶしかなかった。ゴキヴリと比べ、カラスの力を持つクレルヴォの飛翔速度は圧倒的だ。少しでも早く追いつくため、今は向けられる嫌悪など気にしてはいられない。
『本当にやんのか、ラーク』
「嫌だけど。仕方ないだろ」
『まーたみんなに嫌われるんだぜ』
「そのみんなが殺されたら本末転倒だよ」
顔見知りが増え、様々な人に声をかけられるようになった商店街。真面目に生きるようになった元チンピラ達が掃除した街角。エルナと手を繋いでよく入った喫茶店。ラークの十七年の人生の中で、これほど楽しい時間を過ごした街はなかった。
『いい街だったな』
「うん。僕もこの街は好きだったよ」
もう、あの時間は返ってこないのだろう。
人々に嫌われながら、ラークは飛ぶ。
やがて中央公園の広場が近づいてきた。
そこには、妙な人だかりができている。怯えた様子の人々が芝生に座り込み、中央にいるカラス男を──クレルヴォを、ぐるりと取り囲んでいるようだった。
結界の魔術だろうか。みな後ずさりしながらも一定の距離から離れられないでいるようで、直径数十メートルのドーナツ状の人の群れが出来上がっていた。
ラークは人だかりの手前で地面に降り立つ。
クロバが光になって霧散する。
「来たな、六色」
「クレルヴォ。どうしたのコレ」
「運が良かったぜ。お嬢様を心配して、広場に集まってた奴らが大勢いたんだ。俺たちの闘いを、ぜひ観戦させてくれってさ」
タイミングの悪いことに、エルナたちは精霊樹の丘から領主館に帰る途中だったらしい。住民たちは、アルマの無事をその目で確認しようと集まったのだろう。
クレルヴォの放出する嫌悪と威圧の心波。
皆は恐怖と混乱を浮かべ、言葉を失っている。
「無関係な人を巻き込むなよ」
「いいだろ、嫌われながらやろうぜ。俺は中途半端に結界術も囓ってるからよ。どっちにしろ、闘い終わるまでこいつらは逃げられねぇよ」
「まったく。変なところ多芸だな」
ラークは人だかりを飛び越える。
中央で待つクレルヴォに一歩ずつ近づく。
「……ラーク」
その声は、ラークの耳によく響いた。
対角線側、騎士たちに守られて地面に座るのは、疲労困憊の様子のエルナ。彼女に抱きかかえられたまま朦朧としているアルマ。横に眠っているティコ婆さん。
無事を確認し、そっと胸をなでおろす。
クレルヴォと目が合う。
「ククク。俺は、本気のお前と闘いたいんだ」
「……あぁ」
「心が燃える理由が必要だろ。だから……お前が負けたら、こいつらを殺す」
クレルヴォの体から、瘴気が吹き荒れる。
ラークが本気を出すということ。
それは、青魔導の制御を手放し、その体から途方もない密度の心波を放つということだ。ゴキヴリのトーテム特性は、人々の心にラークへの激しい嫌悪を植え付ける。トーテム覚醒者でもなければ、まず間違いなくラークのことを嫌うだろう。
人を救おうとするほど、孤独になる。
それでも。
「わかったよ……本気を出そう」
エルナに視線を向ける。
本当に無事でよかった。
できることなら、もう一度だけ、彼女に触れたかった。でも、それは叶わない。こんな間近で本気の自分を見せてしまえば、嫌われてしまうことは、もう避けようがないだろうから。
「そういえば、クレルヴォ」
「どうした。早くやろうぜ」
「うん。ただ、その前に。クレルヴォはひとつ誤解してることがあるんだ」
そう言って、ラークはのんびりと、散歩でもするかのようにクレルヴォに近づいていく。
「君は、魔導でトーテムをねじ伏せる、その姿に憧れる、なんて言ってたけど」
「あぁ」
「誤解だよ。僕がはじめに魔導を覚えたのは、確かに心波を制御するためだ。でも、そのあと魔導を極めたのは『トーテムをねじ伏せる』ためなんかじゃない」
「はぁ?」
数メートルの距離。
ラークは立ち止まり、息を吐く。
「トーテムは、唯一無二の相棒だ。確かにトーテム特性で嫌われるのは辛いだろうけどさ。トーテムは敵じゃない。いつも隣にいてくれて、自分のことを思ってくれる存在だ。ねじ伏せるなんて考え方は、穏やかじゃない」
「……それは、害のねぇトーテム持ちの台詞だ」
クレルヴォの怒気が膨らむ。
鉤爪のついた足をドンドンと踏み鳴らす。
「そんな綺麗ごと、俺やお前の理屈じゃねぇだろうがよぉ!!」
体から狂ったように瘴気が吹き出る。
背中の翼が、威嚇するように大きく広がる。
「──じゃあお前は、どうして魔導を極めたんだ! トーテムをねじ伏せるためじゃねぇってんなら、なんのために」
ラークは静かに微笑む。
ゆっくり、しっかりと口を開いた。
「歩きたかったんだよ。嫌悪されない街をさ。操霊術を使って、クロバを肩に乗せて、歩きたかったんだ。魔導を全部極めたら、嫌悪感もどうにかなるかと思ったんだけどね……。僕にとっては、ただそれだけだった」
「っ!? そんな馬鹿な話が──」
「それだから君は〈霊装〉止まりなんだ」
軽く左足を引き、腰を落とす。
ラークは覚悟を決めた。誰に嫌われてもいい。やると決めたら、手加減はしない、と。
周囲から膨大なマナをかき集める。
集めたマナをその身で練り上げる。
「……見せてあげるよ」
風が渦を巻き、大地が震える。
右の手刀を前に出し、左の拳を腰に当てる。
「操霊術奥義──〈変身〉」
腹部の魔導核が激しい光を放つ。
人々は直視できずに顔を背ける。
操霊術〈変身〉。
それは、霊装のようにトーテムの力を纏うのではなく、自分自身がトーテムと融合しその身を作り変える魔法だ。召喚系・霊装系の術をともに極めた上で、心の底からトーテムと親和しなければ至れない、操霊術のひとつの到達点である。
緑の光の奔流。
その中から、彼は現れた。
引き締まった体躯のシルエット。
その体表は黒い外骨格に包まれ、頭から伸びる触覚は地に付きそうなほど長い。大きな緑の複眼をまばゆく光らせ、背中の翅が風にたなびく。
──文字通り、ゴキヴリ男。
放出された嫌悪の心波は、容赦なく領都の街を飲み込む。
人々の視線に困惑と嫌悪が宿る。
「……くくく。いいねぇ。ご機嫌だ」
「僕は不機嫌だ。さっさと終わらせるよ」
ラークは地面に手足をつけて腹ばいになる。
変身したラークにとっては、ゴキヴリを模したこの姿勢が最も高速で移動できる方法だ。
ゴキヴリ走法。
カサカサと四肢を動かし、滑るように移動する。
クレルヴォのカラス顔に驚愕が浮かぶ。
結局のところ、軍から激しく嫌われて部隊に配属されなかったのは、この姿が原因なのだろう。
ゴキヴリの身体能力は他のトーテムと比べても全般的に優秀な上、ラークはあらゆる魔導を器用に行使する。個体の戦闘能力としてはズバ抜けて高い。
一方、ラークがひとたびこの姿になれば、軍の規律が乱れるどころの話ではない。味方にまで嫌悪される能力は、どの部隊でも扱いに困るのだ。
一撃。
拳同士がぶつかり合う。
一度離れ、クレルヴォの背面へ回り込むように人々の付近をカサカサカサカサカサカサカサカサと通り抜ける。
「うわわわわわわわわわわわ」
「きもっ……ぎんもぉぉぉぉぉ」
「やだやだやだやだ誰かぁぁぁ」
「スリッパッ! スプレーッ! 新聞紙ッ!」
人々の阿鼻叫喚は無視だ。
マナを振り絞り、全ての魔導を行使する。
時空属性の黄魔導。精神属性の青魔導。生命属性の白魔導。強化属性の赤魔導。現象属性の黒魔導。今、ラークはこの場の全てを知り、理解し、操る。
地面を蹴り飛ばす。
めくれあがった地面をクレルヴォの方へと飛ばしながら、その陰に隠れて駆ける。
回し蹴り。
ラークの左脚は、クレルヴォの左腕を破壊する。
刹那の攻防。
二人は弾けるように離れた。
「くそがぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
「もう逃さない」
「負けねぇ……俺はもう負けねぇぇぇ!!」
クレルヴォの広げた翼から、黒い羽根が飛ぶ。
それは金属のように固く、重く、突き刺さった地面を吹き飛ばすほどの威力を持っていた。
雨のように降り注ぐ黒い羽根。
ラークはひたすらカサカサ、カサカサと避ける。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
「ゴキヴリの触角を舐めるな」
攻撃しては離れ、近づいては避ける。
激しく入れ替わる攻防は、常人が視認できる速度を超えていた。
二つの黒い影は戦場を縦横無尽に駆け回る。
人々はどちらをも嫌悪して震える。
「うわうわうわ、こっち来んな」
「ぎゃああああああああああああ」
「きもいきもいきもいきもい──」
もう聞き慣れてしまった絶叫。
ラークは虫顎を左右にニチャっと開き、駆ける。
自分を嫌う人々を守るために命をかける。
そのことに、昔はずいぶんと悩んだものだ。軍学校の公開演習では、軍のお偉い方や帝都の人々もラークを見て同じような反応をしていた。このまま軍人になって、命をかけた挙げ句嫌われるのか。当時はずいぶんと考え込んでいた。
結局、今もちゃんとした答えは出ていないが。
「みんなを、エルナを、守る」
「その結果、全員から嫌われてもかよぉっ!?」
「あぁ、誰に何を思われようと──」
クレルヴォの蹴り出した右脚を捕まえる。
体全体をひねり、地面へと叩きつける。
「僕の価値を決めるのは、僕だっ!!!」
脚を折ろうとした瞬間。
クレルヴォは全身を瘴気と化して逃げる。
ラークは立ち止まり、荒い呼吸を整える。
操霊術と魔導の行使に、マナの回復が間に合っていない。短期決戦のつもりでペースを上げていたが、どうしても最後のひと押しで逃げられてしまう。この後の戦略を考えながら空気中のマナをかき集める。
一方のクレルヴォは、体を再構成し始めていた。
苛立ちを隠そうともせず、地面を踏み鳴らす。
「瘴気でも……瘴気でも勝てねぇのかよぉ!!!」
「知らないよ」
ラークは脚力を強化し、一気に接近する。
刹那。
側面からの鋭い蹴りが、クレルヴォの首に刺さる。
地面を滑るように転がっていく。
「──っぐぁっ!?」
「逃さないっ」
ラークは攻撃を畳み掛けようとする。
が、クレルヴォは空に飛んだ。
「あああああぁぁぁぁぁぁっ!!!」
叫ぶクレルヴォを見上げる。
勢いをつけ、急降下してくるつもりのようだ。
あたりを見渡せば、あれだけの激しい戦闘のあとなのに、怪我をしている人々はいない。もちろんラークは気にしながら闘ってはいたのだが、クレルヴォはどうだっただろう。
彼の過去に何があったのか、ラークは知らない。容赦なく命を取りにくる彼を、こちらもどうにかして殺そうとしている。だが、なぜだろう、彼のことを心の底から嫌う気が起きないのは。
ラークは手足を地面につけた。
背中の翅をブゥゥゥゥンと震わせる。
……浮かび上がる。
「ぎゃああああ、飛んだぁぁぁぁ」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「ひっぐ、ひっぐ、もうやだぁぁぁぁ」
人々の声を聞きながら。
上空から高速で近づいてくるカラス男。
地面から浮かび上がるゴキヴリ男。
二つの影は空中で交差し──。
「ラークぅぅぅぅぅ!!!」
「クレルヴォぉぉぉぉぉ!!!」
二つの拳が互いの頭蓋に刺さる。
そのまま地面に墜落する。
激しい激突音。
地面に大穴があく。
ラークは素早く跳ね上がった。
翅を震わせ、上空へ飛んで勢いを付ける。
クレルヴォが起き上がる。
キョロキョロと首を動かしているのは、ラークの姿を見失っているからか。
人々の絶叫に釣られるよう、彼はラークの方に顔を向ける。
だが、時すでに遅し。
──彼の顔に、ゴキヴリ男の足が突き刺さった。
気を失ったクレルヴォを、ハシヴトガラスのトーテムが口に咥えて飛び去っていった。
止めることはできなかった。
追いかけるにも流石に体力の限界であったし、そもそもカラスの飛翔速度にゴキヴリでは追いつけない。
変身を解除する。
緑の光が体から渦を巻いて消え、ラークは元通りの人間の姿になった。
身体全体が疲労感に包まれる。
「終わった終わった……さぁて」
チラリ、と人々を見る。
その目には、見慣れた感情が宿る。
憎悪。嫌悪。恐怖。
「やっぱりなぁ。いっつもこうだ」
『お疲れさん。まぁ、今は休んどけ』
「いや」
ラークは顔を伏せる。
人々に背を向け、南門につながる大通り──領都の外に繋がる道へと進む。
「僕はこのまま街を去るよ」
『ラーク。お前……』
「さすがに今、エルナの顔は見れない」
『そうかよ。ま、そう気を落とすな』
この三ヶ月は、これまでの人生でもっとも充実した日々であった。だから、街の人に向けられる嫌悪はそれはそれで辛い。
でも、誰に向けられるどんな嫌悪よりも──エルナの嫌悪を想像するだけで、奈落に落とされた気持ちになる。それだけは絶対に見たくない。耐えられない。
そう思い、歩き始めた時だった。
『ちょっと待って待って、待ってったら!』
幼くてかん高い、可愛らしい声だった。
そんな声の知り合いなどいないはずだ。
ラークは少しだけ速度を緩めつつ、歩き続ける。
『止まって、止まってよぅ!』
「いや。ごめんな。街を出ないと」
『待ってよぅ、伝言があるのぉ』
「伝言?」
『そうだよぅ。エルナからの初仕事なんだから、ビシッとクリアして撫で撫でしてもら──待ってよぅ、止まって、止まってったらぁ!』
ラークはピタっと止まる。
ようやく、その声が人間のものではなく、トーテムのものだと気がついたのだ。
『やっと止まったぁ。もう……じゃあ伝えるよぉ。エルナからの伝言です』
ラークは後ろを振り返る。
そして、目を丸くする。
『──逃げないで、ちゃんと責任とって』
ドヴネズミのトーテムだった。
可愛らしい顔立ち。体の大きさは、長い尻尾を除いて50センチほどだろうか。嫌悪の心波を撒き散らしながら、機敏な動きでクンクンと手の匂いを嗅いでいる。
「エルナ……?」
『そう。私はエルナのトーテムだよぉ。名前はこれからつけてくれるって。可愛いのがいいなぁ。よろしく、ラークっち!』
ラークは力が抜け、座り込んだ。
エルナがトーテムに覚醒した、ということは。もしかすると、さきほどの闘いでも、エルナにだけは嫌われていなかった、ということになるのだろうか。
『どうしたの、ラークっち。ほら立って。連れ戻してくるように言われてるんだから。初任務から失敗なんて嫌だよぉ、協力してよぅ』
『まぁ待ってやってくれよ。コイツなりにいっぱいいっぱいだったんだぜ』
『あ、クロバっち。おいーっす!』
『これ……本当に嬢ちゃんのトーテムか?』
ラークはその場で笑うことしかできない。
立ち上がるには、まだ時間がかかるだろう。
遠くの方から、見慣れた一人の少女が、ポニーテールを揺らして歩いてくるのが見えた。