26 心の川
真っ暗なのに、あたりがぼんやり把握できる不思議な空間。膝までの深さの小川の中に、エルナはぽつんと立っていた。
どうしてこんな場所にいるのか。
なんだか、頭がぼんやりとしている。
小川から出ようと足を上げる。
『やめときな、エルナ』
振り返る。
魚が宙を浮いていた。
思考が徐々にクリアになる。
精霊樹の丘の上、魔術陣の中心にいたはずだ。ティコ婆さんのサポートのもと、横たわったアルマのヘソのあたり──魔導核の付近に触れたところまでは、記憶にある。
エルナの使命はひとつ。
アルマを蝕む瘴気を追い出すのだ。
成功すれば、エルナもアルマも助かる。
失敗すれば、最悪は二人とも瘴血鬼になる。
そのはずだが──。
「……ここは? 私、死んじゃった?」
『違うさね。ここは精神を具現化した空間』
「……ティコ婆?」
『そうだよ。早く頭をシャッキリさせな。今、あんたたち双子の心は繋がっている。早いところアルマを見つけて、瘴気を追い出してやるのさ』
「……そっか。そうだった」
喋る魚を見ながら、説明を思い出す。
瘴気は心の深い部分を蝕む。それを追い出すためには、精神を具現化したこの呪術空間で、深い霧の中にいるアルマを探し出し助ける必要があるのだ。
『この小川の中を歩きな。アルマの近くまでは送ってやれるだろう』
「……わかった」
『決して川から外れるんじゃないよ。瘴気の影響から守ってやれなくなるからね』
「……瘴気の……影響?」
『すぐ分かるさね』
そう言うと、空飛ぶ魚の姿をしたティコ婆さんは、先導して川の上を飛ぶ。エルナは黙ってその後ろを進む。
気を抜くと意識がボヤけてしまう。
エルナはパンパンと頬を叩きながら、水しぶきを上げて歩いていく。
どれくらい進んだだろう。
前方に、何やら人影が見えてきた。
「……ティコ婆、あれは?」
『何を見ても、川から出るんじゃないよ』
それだけ言うと、ティコ婆さんは特に気にした様子もなく宙を泳いでいく。
だんだんと人影が近づいてくる。
その輪郭がハッキリしてくると、エルナは驚愕に顔を染め、走り出そうとする。
「ティコ婆──」
『川を出るな!』
「でも」
エルナは川の中で立ち尽くす。
一人の男が後ろ向きに立っている。
その男の手元には、手術台のようなものに固定された小人の少女の姿があった。
小さな手足と、オレンジ色の髪。少し釣り上がった生意気そうな目元に、何度も涙が流れて乾いた跡が残っている。
『やめてっ……』
小人の少女は、悲痛な声で泣き叫ぶ。
男は引きつった笑いを漏らし、何かの道具をその手にとる。
『面白いなぁ、小人の身体って』
『お願い、やめて……やめて……』
『半小人なんてどうやって生まれるんだと思ってたけど、確かにこの穴なら──』
絶叫。
この世のものと思えない叫びが、エルナの耳を貫く。
「…………ティコ婆」
『無視してさっさと進みな。分かるかい。これが瘴気のやり口さ。人の記憶を勝手にほじくり返して、気持ちを抉ろうと見せつけてくる』
「……うん」
『川の外に出てはいけないよ、エルナ。あんたは妹のもとに辿り着かなきゃいけない。こんなクソったれの瘴気の中にいるアルマを助けてやれるのは、今、あんただけだ』
「…………わかった」
エルナは一歩ずつ進んでいく。
終わらない絶叫を背中に聞きながら、ただひたすらに川を歩いていくしかない。
気が遠くなるような距離を歩く。
すると前方から、何か激しく言い争っているような声が聞こえてきた。エルナは気を確かに持って、進んでいく。
そこにいたのは。
先ほどの小人の少女と、空飛ぶ魚。
少女は苛立ったように叫ぶ。
『あんたが私のトーテム!?』
『うん。僕に名前をつけて──』
『ふざけないでよ! 私が一番苦しい時に助けてくれなくて。こんな後になって現れてさ。なにが守護霊よ! トーテムよ!』
『それは──』
『言い訳なんか聞きたくない! 消えて! お願いだから消えてよ!!!』
『ティコ……』
『うるさいっ!!!』
少女は泣きながら叫ぶ。
空飛ぶ魚は、だんだんと色を失っていく。
「ティコ婆……」
『愚かだったねぇ、あの頃の私は。トーテム覚醒のタイミングも悪かった。トーテムは何も悪くないのに、意固地になってねぇ』
「…………」
『いつしか、あの子の声は聞こえなくなっちまった。操霊術も使えないまんまさ』
そう言いながら、ティコ婆さんは魚の姿でエルナの目の前を泳ぐ。
『不思議なんだよ。呪術を使うときにね、精神を具現化すると、私の姿は魚になる』
「……そうなの」
『それに私は、普通のトーテム覚醒者と同じくらい瘴気の影響を受けづらい。やっぱり、守ってくれてるのかねぇ』
「……そっか」
そんな話をしながら、川を伝って進んでいく。
再び、長い長い時間が流れた。
だんだんと、川が浅くなって来ている。
目の前には、何やら剣を片手に憤っている少女と、大人になったティコの姿があった。
『お前がお父さんを呪い殺したんだ』
『否定はしないよ』
『よくも──』
『私はそれだけのことをされたんだ。実験道具にされ、欲望のはけ口にされ、晒し者にされた。この身体は、もう子供だって産めやしない』
『嘘だっ! お父さんはそんな──』
『ふん。じゃあ見てみるかい。体験させてあげるよ、私の記憶を。私がされたのと、全く同じことを、私の視点で──』
ティコの持っている杖が光る。
剣を持っていた少女が、泣き崩れる。
「ティコ婆……」
『あの男、家族がいたんだよ。だから、私の復讐にはケチがついた。まったく、何もかも気に入らないねぇ。嫌になるよ』
「この……女の子は?」
『自殺しちまったよ。言い訳はしない。罪もない少女を、私が追い込んだんだ。私の罪さ』
ティコ婆さんは力強く泳いでいく。
一体いつからだろう。気づけば、エルナの頬は濡れていた。
歩いて、歩いて、ひたすら歩く。
川の水かさは、もうずいぶん浅い。
「……ティコ婆は」
『なんだい、エルナ』
「どうしてそんなに……強くいられるの。嫌なことが、辛いことが、いっぱいあって。どうして、生きようって思えるの」
『……ふふ。そうさねぇ』
ティコ婆さんは沈黙する。
少しして、エルナの顔の前に泳いできた。
『今回は特別サービスだ。見せてやるよ』
そう言うと、何かを思い出すように身をよじる。先ほどまでとは違った光景が目の前に現れた。
ずいぶんと歳をとったティコ。
その足元で、涙を流す綺麗な女性。
『ティコ先生。ありがとうございます』
『頑張ったのはあんたさ。自分を誇りな』
『先生がいなかったら……本当に……』
『ふふ。教師冥利に尽きるねぇ』
『これで、これでもう──』
その女性に、エルナは見覚えがあった。
「……お母さん?」
『そうさ。あんたの母親はねぇ、精神属性の厄介なトーテム特性を抱えていた』
「トーテム特性?」
『あぁ。何かの弾みでスイッチが入ると、我を忘れて凶暴になっちまうんだ。〈狂化〉なんて呼ばれる特性さ』
「……お母さんが」
エルナの記憶では、優しい母だった。
そんな特性を持っていたとは、これまで欠片も知らなかったのだ。
『〈静心〉って青魔導を指導したんだ』
「──あっ」
『なんだい。知ってるのかい?』
「ラークが……発情を抑えるのに使ってた」
『──っバカだねぇ、あいつ』
「うん。ばかなの」
二人でクツクツと笑う。
ここに来て、なんだか緩んだ空気になる。
ティコ婆さんはエルナの前でくるっと回る。
『嫌なことは、いっぱいあるさ。間違うことも、傷つけることも。取り返しのつかない、罪を犯すことも』
「…………うん」
『でも、私のおかげで、あの子は心を制御できるようになった。結婚して、子供まで産んでね。早く逝っちまったのは残念だが……エルナもアルマも、私の孫みたいなもんさ』
「そっか……」
エルナは小さく頷く。
ティコ婆さんは宙を泳ぎ、エルナの頬に触れる。
『そうやって、やっていくしかないんだよ。嫌なこともあれば、嬉しいこともある。悪いことをしちまったら、そのぶん良いことをするしかない。まぁ、そうそう割り切れるもんじゃないけどね』
「…………うん」
『悟りを開くには、私もあんたもまだまだ若い。だからさ、一つだけ持っておきなよ』
ゆっくりと歩いていく。
川の水は、もうほとんど残っていない。
「一つだけ……」
『そう。クソったれな瘴気の中にあっても、心の支えになるもの。もうあんたは持ってるだろう。良かったねぇ、昨日のうちにあの男に抱かれておいて。それがなかったら、妹を救うのにちょいとばかり苦労したかもしれないよ』
「…………ラーク」
『行っておいで。それで、ちゃんと帰ってくるんだよ。あのゴキヴリ男の隣に立てるのは、ドヴネズミ姫しかいないんだからね』
「……うん。行ってくる」
今、アルマの心の深部に到達できるのは、救ってやれるのは、エルナだけだ。
足元の水がなくなる。
魚の姿はどこにもない。
それでも、エルナは足を止めず、前へ前へと進んでいった。