17 釈放と歓声
釈放が決まり一夜明けた早朝。
地下の階段をゆっくり上がるラークは、久々の明るさに目を細めた。建物の中ですらこれほど眩しいのだ。外に出るには、もう少し目を慣らす時間が必要だろう。
地下から出てすぐの待合室。
木製の長椅子に腰掛け、しばらく待つ。
「……シャバだ」
『おぅ。お務めご苦労さん』
「まぁ、務めっていうか、働いてたのは拷問官だけど。あの人はあの人で、夢見てただけだけどさ」
『働いてたのは主に俺だな』
「そりゃそうだ。お疲れ」
『おうよ』
クロバと話しつつ、衛兵に出された黒豆茶を啜る。幸い、雑巾や毒などの味はせず、普通の美味しいお茶であった。
ホッと息を吐く。
意識こそしてなかったものの、釈放されるまで多少は張り詰めていたのかもしれない。眩しい日の光に気が緩み、あくびが漏れる。
「例の手がかりは、間違いないんだよな」
『あぁ。この件はちいと厄介そうだぜ』
「アルマ、無事かな。早く探してやりたいけど」
アルマの失踪については、クロバがひとつの手がかりを見つけ出してきていた。無実が認められ釈放された今、ラークは捜索に加わるつもりだ。
クロバと議論しているところへ、ローデント家の衛兵がビシッとした装いで現れる。なんの用事かと思ったが、手に持っているのはラークの着替えやタオル類だ。
「ラークさん」
「あ、はい」
「風呂場の準備ができております。なにぶん、兵たちが使うためのものなので、たいした風呂ではありませんが」
「ありがとう。助かります」
ずいぶんと丁寧な対応だ。
訝しくも思うが、風呂自体はありがたい。この一週間ほど、蒸しタオルで身体を拭く程度しかしていなかったから、ところどころベタついているのだ。
誘導されるまま浴場に向かう。
体を洗い、湯に浸かった。
つい気の抜けた声が漏れてしまう。
「はぁ……思ったより早かったな。釈放」
『あぁ。嬢ちゃんが相当頑張ったんだぜ』
「エルナが?」
『お前の釈放のために、いろんな人に掛け合ってな。最終的に次期領主の奴が釈放を決めたのも、嬢ちゃんの働きがあってこそだ』
「へぇ。なんか想像できないけど」
エルナはまだ心波を抑えられるほどのマナ制御を覚えていない。きっと嫌悪を向けられながら、どうにか交渉したのだろう。
ずいぶん大変だったはずだ。
ラーク自身もそうだったが、嫌われ者を自覚するというのは、頭ではわかっていてもなかなか辛いものがある。
「……お礼しなきゃ。何がいいかな」
『熱いキスでもかましてやれよ』
「無理」
『はっ。意気地なしめ』
「何とでも言え」
クロバと気楽に言い合いをしながら、風呂を上がる。外行き用のジャケットに袖を通す。先ほど衛兵が持ってきてくれたものだ。
身綺麗になったラークは、警備棟の出口へと歩みを進める。
「クロバ」
『あん?』
「なんかさ。建物の外に。ものすごく大量の人の気配がするんだけど。何ごと?」
確かに感じるのだ。この扉の外に。
何かを待つように警備棟の方を見つめる、大勢の気配を。
ラークは首を傾げ、扉の前で躊躇する。
『──お前の出迎えだよ』
「え?」
『みんな待ってんぞ』
「は?」
『嬢ちゃんもいる。早く行ってやれ』
そういえば。
ラークは考える。
一週間、クロバは屋敷の様子をあまり教えてくれなかった。せいぜい、次期領主と拷問官の会話の概要や、アルマの捜索状況くらいだ。
エルナがずっと交渉を頑張っていたのなら、もっと早くに教えてくれてもよさそうなものなのに。
この感じは、覚えがある。
ラークにとっての良し悪しは完全に無視して、クロバ自身の愉悦のために動いてる時の雰囲気。ラークがどんな反応をするのかを観察するために、わざと情報を隠しているときの怪しい感じ。
「おい、クロバ」
『なんだよラーク』
「今、外はどんなことになってんだ」
『ククク……。確かめりゃいいだろ、自分で』
開き直ったな。
ラークはため息をつき、覚悟を決める。
渋々ながら、扉を開けると──。
──大歓声が、ラークを迎えた。
感動の叫び。囃し立てる口笛。人の群れが、まるで英雄の帰還を讃えるかのような熱量でもってラークを祝福する。聞こえてくる内容は「これでエルナ様のお散歩も終わりだー!」「大人用オムツは卒業だー!」のようなものだったが。
「──散歩ってなんだ。オムツ?」
『本人に聞けよ。ほら、来たぞ』
集団の最前列。
ひとつの人影が、ラークの方へと走ってきた。
「…………ラーク」
エルナは可憐に着飾っていた。
以前ラークが好きだと言った、複雑に編んで後ろで結んだ髪。ラークが思わず顔を赤くして褒めた、自然で可愛らしいメイク。ラークが挙動不審になっていた、清楚な中にほんのり色気が滲むお洒落なワンピース。
完全にラーク仕様のエルナ。
心臓がドクンと跳ねあがる。
ラークは熱くなる顔を少しそらし、ゴホンとひとつ咳払いをする。
「エルナ」
「……ラーク」
エルナは、そのままラークに抱きつく。
石鹸のいい匂いがする。
思わず襲いかかりそうになってしまった。
ラークは人目があることを思い出し、彼女に向けて青魔導を発動する。エルナの体から放出されていた嫌悪感が打ち消され、傍目にもただの可愛い美少女になる。
人々にこれまでとは違ったどよめきが走った。
「エルナ。少し痩せた?」
「……あんまり……食べられなくて」
「ずいぶん頑張ってくれたんだろ」
「…………できること。やっただけ」
「お礼は、何がいいだろう」
そう言うと、エルナは少し身体を離す。
モジモジと顔を赤くして──。
「……か……考えとく」
そう言って、ラークの手をとった。
クロバの呆れたようなため息が聞こえる。
二人で手を繋ぎながら、集まった人々の間を抜ける。青魔導を発動している今、彼らからは微塵の嫌悪も感じない。可愛い令嬢を呆然と見つめる視線だけが、ただそこにあった。
「で、どういう状況?」
「……簡単。ラークが釈放されるまで、私は屋敷中を散歩するって。宣言して、実行した」
「あぁー……。なるほど、ありがとな。辛かったろ、みんなに嫌悪されながら歩くの」
「……全然。ラークに会えない方が嫌」
『嬢ちゃん、けっこう楽しんでたぜ』
詳しいことはあとで聞こう。
そう決めて、どこか頼もしいエルナの横顔を見る。
去り際。
エルナは使用人たちへと振り返った。
「……安心して。お散歩は終わり」
それだけを言って、すぐに前を向く。
だから、エルナは見ることはなかった。
使用人たちが浮かべた表情を。
これまでの自分たちの行為に初めて気がついたような。この少女にどんな言葉をかけてきたのか、どんな仕打ちをしてきたのか、それを思い出したような。
──罪悪感のこもった、そんな顔を。
「で、エルナ。アルマの捜索状況は?」
「……まだ有用な情報はないみたい。ただ、兄様の呼んだ専門家が今日到着するって」
『相変わらず進展なし。大丈夫かよ』
歩きながら話をする。
この一週間、アルマ失踪の謎について、クロバは独自に調査を進めていた。犯人の素性にも目星をつけている。
一方のエルナもまた、確度は高くないが、捜索隊とは別に手を打っているらしい。
『次期当主の奴が呼んだ専門家ってのだけどよ。たぶん、ラークの知ってる奴だぜ』
「へぇ、誰?」
『会ってからのお楽しみだ』
クロバがこういう言い方をするということは、ラークにとっても悪い人物ではないのだろう。ひとまず放っておくことにする。
「…………クロバの見つけた手がかりって?」
「あぁ。犯人のものらしき血痕をアルマの部屋で見つけたんだ。拐われるときに抵抗したんだろう」
血痕はあらかた拭き取られていたが、よく見ると拭き残しがあったのだという。クロバのゴキヴリ目線だからこそ見つけられた痕跡だった。
そして──。
「犯人の血は、瘴気を含んで黒く濁っていた」
「…………瘴気って、最近増えてきたっていう」
『そうだ。霧状の穢れた力だぜ』
瘴気。
その禍々しい闇色の霧に冒された生き物は、理性を失い、他の生物の血を吸って生きるようになる。
「──瘴血鬼。瘴気に冒され変異した生き物は、一般にそう呼ばれている」
その昔、ラークの故郷の町を襲った赤鬼蛙も、瘴気に冒され変異した瘴血鬼であることが後の調査で分かっていた。
エルナは首を傾げる。瘴血鬼、という単語自体初めて聞いたのだろう。帝国内でその名称が使われ始めたのは、比較的最近になってからだから、無理もない。
クロバが言葉をつなげる。
『その瘴血鬼はな、血痕を拭き取って証拠を隠滅しようとしたんだ。つまり、瘴血鬼なのに狂ってねえ。理性を残してやがる』
普通の生き物は、瘴気に冒されれば狂うだけだ。欲望に忠実に行動するため、対処自体はある意味単純だ。
だが、一種類だけ。
狂わずに瘴血鬼化する生き物が確認されている。
『人間だろうな』
「……人間?」
「うん。人間ベースの瘴血鬼だけは、変異後も理性を保てることが帝国の研究で分かってる。アルマの現状は分からないけど、誘拐犯が奴らなんだとしたら……厄介なことになるかもしれない」
今はちょうど早朝の対策会議が行われている時間だ。まずはそこでこの事実を話す必要があるだろう。
二人は執務棟へと進んでいった。