15 ネズミのお散歩
『──ってわけだ、嬢ちゃん』
「………………なるほど」
領主の居住館の一室。
数年ぶりに戻ってきた自室で、エルナは不快なほど柔らかいベッドに横たわる。泣き腫らした目を濡れタオルで冷やしながら、ただのゴキヴリにしか見えないミニミニクロバと会話をしていた。
クロバの体からは嫌悪の〈心波〉が漏れている。
が、分裂した状態のクロバであれば、エルナの青魔導適性──精神耐性からすれば、嫌悪感を抱くことはない。
『ラークのことは心配いらねえ』
「……よかった」
ローデント家の当主は現在不在にしている。アルマ捜索の陣頭指揮を取っているのは、ローデント家の次期当主である長兄だ。ラークを拘束する決定をしたのも彼である。
『帝国法だっけな。明確な物証か自白がねえ限り、ラークの奴が罪に問われることはない。あとは時間の問題だ』
「……うん」
物証の捏造などの問題がないこともないが、今回はあくまで誘拐事件の捜査であり、ローデント家としてもアルマを見つけられなければ意味がない。
つまりは、ラークが拷問に耐えて冤罪を回避し続け、長兄が諦めてラークを釈放すればこちらの勝ちだろう。
『で、どうするよ』
「……うん」
エルナは口の端を小さく上げる。
事件以来、彼女が初めて浮かべる笑みだ。
「…………兄様を…………殺る」
『それはマズいんじゃねーの?』
「……………………冗談」
エルナは暗い瞳のまま微笑む。
居室の温度が数度下がり、窓ガラスがピキリと音をたてる。窓の外で鳥が墜落する音がした。
「…………もし、ラークが無事に帰ってこなかったら、殺る。惨たらしく、殺る。というのを、兄様に、分からせる。思い知らせる。骨の髄まで。心の底から、恐怖させる。ラークを釈放させてくれと、兄様が膝をついて、必死になって、懇願するまで。絶対許さない。のうのうと、生きていることを、後悔させる」
『──嬢ちゃん?』
「……………………冗談」
ふぅ、と息を吐く。
冗談にしては真に迫った言葉だった。溢れんばかりの狂気が滲む。どの程度本気で言っているのかは、エルナ本人にしかわからないだろうが。
「……作戦がある。クロバに、協力してほしい」
『そりゃ構わねえが、どんな作戦だ』
「うん……」
エルナは濡れタオルを放り投げ、ベッドから勢いよく立ち上がる。パン、と頬を叩くと、その顔にはいつもの冷静さが戻っていた。
手の上に、クロバを乗せる。
「……ちょっと、お散歩をする、作戦」
そう言うと、エルナは作務衣を脱ぐ。
裸のまま、堂々と背筋を伸ばし、ドレスのしまってあるクローゼットへと向かう。
領主館は混乱の渦中にあった。
皆に愛される令嬢アルマの失踪。容疑者の青年は拘束されているが、拷問部屋に入れられてもなお容疑を認めていない。
そんな中、豪華なドレスを身に纏ったローデント家のもう一人のご令嬢が、屋敷中をテクテクと散歩し始めたのだ。
令嬢──エルナの放つ〈心波〉は力強い。訓練していない者が嫌悪感を抑えるのは難しかった。その上、仕事をしていると、気がついたら後ろから覗き込まれている。
使用人たちはこれまでに経験したことのない嫌悪と恐怖を感じ、腰を抜かし、体調を崩して医務室へ逃げる者が続出していた。
「……ごきげんよう」
そんな風にして領主一家の居住館を非物理的に破壊した後、のんびりと外へ出る。
明るい庭では、騒ぎを知らない数人の庭師が、広大な庭を忙しそうに整備して回っていた。
そんな庭師の一人に近づく。
「……ねぇ」
「は、はひっ!?」
「……お疲れ、さま」
ターゲットにされた庭師はその場に尻もちをつき、目に涙を浮かべる。エルナの活動は、一人ひとりに話しかける地道なものだ。
「ラークに……不利な証言したの……誰」
「あ、いや、そのぉ」
エルナの体から膨らむ怒気。
庭師のおじさんは奥歯をガタガタ震わせ、樹木への水撒きのごとく小便を漏らしながら、手に持った高枝バサミを取り落とす。
「……誰」
「た、た、たぶん……新人の、オスタ……」
「……どれ」
「あ、あの。犬の、犬耳の、やつ」
「……あれ、か」
それは、ラークが一度、エルナのために怒った時の使用人だった。
あれ以来、ラークとエルナの仲は深まったが、ラーク自身は使用人から除け者にされるようになったのだ。
「……また……あいつ、か」
「──ひゃっ」
エルナの顔が、分かりやすく憤怒に歪む。
庭師の尻のあたりからブリブリという音が聞こえ、それはそれで大惨事になっていたのだが、エルナの顔もそれと変わらないくらいの大惨事になっていた。
エルナは庭を通り抜ける。
ポケット内のクロバをそっと撫でる。
「……ありがと。クロバ」
『なかなかやるなぁ、嬢ちゃん』
「……クロバの心波のおかげ」
『いや、俺は大したことはしてねぇぜ。嫌悪感をちいと手助けしてる程度だ。特に、やつらに恐怖の感情を与えてんのは、嬢ちゃん自身の心波だぜ。その感覚、よく覚えておけよ。いずれ青魔導を覚えるときに役に立つはずだ』
「……うん」
そんな感じで庭を通り抜け、向かったのは執務棟。ローデント家の次期当主を始め、領主館の従業員や多くの市民が集まる、領地運営の中心を担う建物である。
すでに連絡を受けていた執務棟の従業員は、可能な限り逃げ隠れしながらも、頑張って日常業務をこなそうとする。
「……そこの、あなた」
「──っふぇ」
「……お疲れさま」
エルナは従業員をねぎらっているだけだ。そのついでに、雑談をして、質問をして、ちょっとしたお願いをしているだけ。
違法な行為は一切行っていない。
メイド服の童顔の女性が膝から崩れる。
肩を震わせ、嗚咽を漏らす。
「……犬耳は、どこ?」
「あ、わ、わ……」
「……知らないの。そう。綺麗な髪ね」
「──ひっ、触、触ぁ……」
白目を向いて舌を出し、足を折り曲げた状態で背中から倒れる。スカートが大きくめくれ上がり、意外にも大人な感じの下着が大公開される。が、それに喜ぶ者はいない。
エルナはニヤリと笑って立ち上がる。
使用人の一人が、果敢にもメイドを医務室に運ぼうと、そろりそろりと近づいてくる。
「……そこの、使用人」
「──ひっ」
「……犬耳は、どこ?」
「──ぃ、ぃゃ、ぁ」
「……まぁ、いい。けど……みんなにちゃんと言っておいて、ね」
エルナの目がギラリと光る。
「……ラークが、帰ってこない限り、私は一日中、屋敷を散歩し続ける。早朝は門の前で、みんなを出迎える。昼食時には、食堂に居座る。仕事中、気づいたら、私が後ろにいる。休憩の時間、出されるお菓子の、どれかは私の食べかけになっている。医務室にも慰問に行く」
「──ひっ。そ、そんな……」
「それが嫌なら協力して。ラークを釈放するよう、使用人全員の署名を集めて、ね」
「──ふぁっ!?」
そう言うと、エルナはその場を立ち去る。
使用人はただガタガタと震え、その顔を絶望の色に染める。他の使用人は彼に近づき、崩れ落ちそうな体を支える。
「お、おい、大丈夫かっ!?」
「……やばい。やばいやばいやばい。だって、あの男、拷問室行き、だぜ……。無罪で釈放されるわけがないし、無事で帰ってくるはずがない──」
「しっかりしろ! おい!!」
「お、おしまいだ……署名を、あ、集めるだって……そんなことしても……絶対……」
「バカ、結果は関係ねえ。やるっきゃないだろ! 諦めるな! それに、アルマ様が帰ってきた時に、みんなで出迎えようって……俺たち、みんなそう誓ったじゃねえかよう!!」
「……そうだ……アルマ……さま」
使用人たちは震えながら立ち上がる。
とにかく、今の言葉を執事長に報告しなければ。全力で対応しなければ、自分たちのほうが早々に壊されてしまう。
かくして、エルナのドキドキお散歩大作戦が始まった。