1 青年とゴキヴリ
十七歳の青年ラークは、長らく暮らした学生寮の一室から、夕暮れの街をぼんやり眺めた。
大通りを照らす魔灯。帰りを急ぐ人の群れ。賑やかになり始める歓楽街。寮のある小高い丘からは、いつもと変わらない平和な街が一望できた。
「この景色も見納めか」
まだ冷たい春風が窓から吹き込み、ラークの短い黒髪が揺れる。
足元には大きな背負い袋がひとつ。
大荷物ではあるけれど、十二年も暮らした部屋にこれしか私物がなかったのは、ラーク自身にとっても意外なことだった。
住み慣れた帝都を出発するのは今日。
誰にも見られない夜中の予定だ。
「まさか配属すらされないとはな」
帝国始まって以来の珍事だろう。
軍学校の卒業試験において、学科・武技の両方の試験でダントツの首位を獲ったのがつい二ヶ月前。その結果を持ってして、ラークがどの部隊にも「配属されない」ことが決まったのが一ヶ月前。
帝国は「実力主義」を唱えているはずだが。
「笑えばいいのか、怒ればいいのか」
ラークは乾いた笑いを漏らす。
配属されなかった原因はおそらく、周囲からとんでもなく嫌われていた、という一点だろう。
と、一つの「声」が頭に響いた。
『抗議すりゃいいだろうがよ』
「いいよ。そこまでして軍の仕事をしたいわけでもないし。まぁ食ってくだけならどうとでもなるさ」
『はっ。のん気だな、相変わらず』
声の主はラークの守護霊だ。
彼のようなトーテム覚醒者にとっては普通のことだが、傍から見れば、誰もいない部屋で一人喋っているように見えることだろう。
「そうだ、クロバ」
『あん?』
何か思いついたように手を叩く。
そして、口角をニッと上げた。
「出ていく前に部屋を掃除をしたいんだ。最後だし、隅々まで。手伝ってくれ」
『はぁ、掃除魔め』
「自覚はしてるよ。〈召喚〉」
ラークが唱えると、空気中からマナが集まる。
それは彼の左肩の上で渦を巻き──。
現れたのは、一体の生物だった。
蟲系トーテム独特の甲殻。流線型の黒い体。風に揺れる長い触角。触れるのを躊躇させる脂ぎった翅。カサカサと動く六本足は、周囲に嫌悪感を撒き散らす。
ラークのトーテムであるクロバは、真っ黒なゴキヴリの姿をしていた。体長30センチほどのビッグサイズだ。
「徹底的によろしく」
『いいぜ。もうこの部屋には戻らねえんだろ? 屋根裏に住み着いてる奴らは、遠慮なく食い尽くしてくるわ』
「あぁ。寮母さんを喜ばすのは癪だけどな」
カサカサと部屋中を駆け回るクロバ。
ラークはバケツに水を汲むと、雑巾を絞る。辛いこともあったけれど、この十二年は彼にとって貴重な時間でもあった。
ラークがトーテムを初めて使役したのは、忘れもしない、五歳のときのことだ。
その日、ラークの生まれ育った辺鄙な田舎町に、魔物の群れが入り込んだ。
警告の鐘が鳴った時には、既に兵士を含む数十人が喰い殺されていて、住民は混乱の渦中にあった。
ラークは一つ年下の妹の手を引き、町の中心にある精霊神殿へと走る。
防衛に不備があったわけではない。
神殿のそばに立つ精霊樹は、魔物よけの結界を張っている。町の外壁も強固な上、見張りの兵もいたのだ。
「結界を無視する魔物……」
隣を走るおじさんが、顔を青くしてつぶやいた。
魔物よけの効かない魔物がいる、という噂はラークもしばしば耳にしていた。結界魔道具を身に着けていても、街道で襲われるケースが増えてきているらしい。
だがまさか、自分の暮らす街に現れるとは。
住人は誰も予想だにしていなかった。
「に、にーちゃん! あれ!」
妹のウリユが叫ぶ。
その声に釣られるように目を向ける。
赤角蛙という好戦的な魔物だった。
身長2メートルほどの、二足歩行の巨大蛙。頭に硬い角を生やし、赤茶色の体表はしっとり濡れている。発達した筋肉の中でも、とりわけ目立つのは太い脚部。
その魔物は、片手に棍棒を持ち、もう片方に食べかけの肉塊──ヒトだったモノを抱えている。
「あの足で外壁を跳び越えたのか」
「こわい……こわいよぉ……」
「とにかく行こう」
そう言って再び走り出そうとした、その時であった。
「どけよっ」
「邪魔だガキども」
ラークとウリユは、見知らぬ大人たちに足蹴にされた。傷だらけになりながら、最後尾へと追いやられいく。人々は自分が助かることに必死なのだろう。
赤角蛙はニタニタと狂った笑みを浮かべる。
そもそも、足の遅い人間の群れなど、赤角蛙が本気の脚力で走れば容易に追いつくはずだ。それをしないのは、食事を目的とした殺戮ではなく、殺戮を手段にした遊びだからに違いない。
「あっ……!」
地面に倒れ込んだ妹のウリユ。
赤角蛙は目ざとくそれを見つける。
「……グログログログロ──」
「ぁ……ぁあああああああ」
尻もちをつき、這って後ずさるウリユ。
その様子を楽しそうに眺める蛙。
助けてくれる人は──いない。
「ま……待て、このやろう」
ラークは意を決し、飛び出した。
両手を広げ、頭の中は真っ白。膝はガクガクと震え、背筋を冷たい汗が走る。
ふと、頭の中に声が響く。
『おい、死にてえのか』
「死にたく、ない」
『じゃあ逃げろよ』
「……いやだ。逃げない」
横目で妹をチラリと見る。
見捨てることなど考えられなかった。
ラークは幼い頃から冷遇されて育ってきた。
悪いことなど何もしていないのに棒で叩かれたり、食事をもらえず近所の生ゴミをあさって過ごしたり、あらぬ噂を立てられて罪をなすりつけられたり。
そんな中、妹のウリユだけは優しかった。
自分の食事やおやつをこっそり分けてくれたり、不器用ながら怪我の手当てをしようとしてくれたり──。
「ウリユ、逃げろ。僕が時間を稼ぐ」
「にーちゃん──」
「行けっ!!!」
嫌われ者の自分より、妹に生き残ってほしい。
死の恐怖にさらされながら、ラークはひたすらそう願った。
「グログログログロ……」
赤角蛙は口元に愉悦を浮かべる。
その体から、なにやら禍々しい黒い霧が吹き出した。噂に聞く「瘴気」だろうか。
ラークは死を覚悟する。
『おい、聞いてんのか』
「え? っていうか、誰?」
『説明はあとだ。言うとおりにしろ』
「う、うん……」
ラークの頭の中に声が響く。
戸惑っていると、目の前の赤角蛙は棍棒をブンと振りかぶり、こちらへ跳んできた。
「っ……〈召喚〉」
迫る赤角蛙。
その大きな体躯に向け、真っ黒なゴキヴリが飛んでいく。
守護霊。
人々は皆、自らを守護する精霊をその身に宿している。ただ、その声を聞いたり、姿を顕現させたりできるのは、一部の才能のある者のみだ。
トーテムは人によって異なる姿を持っていて、個性にも強く結びついている。
獣耳や鱗肌といった見た目にわかる特徴から、足の速さや目の良さなどの身体能力。食の好みや人に与える印象などの見えない部分まで。トーテムによる影響は様々な形で現れる。
ラークは妙に納得していた。
なるほど、皆からここまで無条件に嫌われてきたのは、彼の宿していたゴキヴリのトーテム特性なのだろう、と。
「……グロロ……っグ……ロ……」
『ふん。たいしたことねーな』
決着まで、ほんの十数秒。
ラークの召喚したゴキヴリは、赤角蛙の首の一部を食い千切り、ドス黒い返り血に塗れてヌラヌラと光っている。現実感の薄い光景だった。
ゴキヴリは倒れた赤角蛙の上によじ登り、ラークに向かって前足を上げた。
『おう、やっといたぜ』
「あ、ありがとう。君の名前は?」
『いや、お前のトーテムだぜ。お前が名付けろ』
「あ、うん」
『急ぎやしねえが、名無しじゃ不便だからな』
そう言うと、ゴキヴリは緑の光の粒になって空気に溶けた。
まったく、分からないことだらけだ。
ただ、呆気に取られたものの、ひとまずの危機は去った。息を吐き、脱力する。妹の方へと振り返る。
そこにあったのは──。
「ウリユ?」
「ぃゃ……」
「ど、どうした、ウリ──」
「いやぁ、こないでっ!!」
両親や町の人と同じ、嫌悪と憎悪の視線。
ウリユは肩まで伸びた黒髪を振り乱す。
青緑の目が、ラークを拒絶するように歪む。
「…………ウリユ」
「こないで、きもちわるい!!!」
キモチワルイ。
妹から言われた一言に、足を止める。
あとで知ったことだが、トーテムに覚醒した者はみな、トーテム特性が覚醒前より強く現れるようになるらしい。
ラークの場合も例外ではなく、その身体からはこれまでとは比較にならない嫌悪の心波──嫌悪感を誘発する波動を撒き散らしていたらしいのだ。唯一の味方だった妹ですら耐えられないほどに。
数日後、噂を聞きつけた軍部により、ラークはそのまま帝国軍学校へと連れて行かれることになる。幼少期にトーテムに目覚めた者は、帝国軍に引き取られて英才教育を受けるのが習わしだ。
両親から愛情を注がれることはついになかったし、妹には嫌悪感を与えたまま最後まで会話もできなかった。
それでも、ラークと引き換えに手に入れた山積みの金貨を目の前にすれば、多少なりとも「生んでよかった」「家族でよかった」と思ってくれるかもしれない。そんなことをぼんやりと考えながら、故郷の町をあとにした。
妹の「きもちわるい」の言葉は、いつまでも耳から離れなかった。
あれから十二年が過ぎた。
掃除を終えたラークは、黒豆茶の入った水筒を傾けながら目を閉じる。ふぅと息を吐き、頭を振って雑念を払う。
「気持ち悪い──か」
『なんだよ。まだあの時のこと気にしてんのか』
「はは、まさか。もう十二年も昔のことだよ、クロバ。今では嫌悪感も制御できるし、操霊術を使わないで普通に暮らす分には問題ないだろ」
ラークは懐から一枚の手紙を取り出す。差出人は、軍学校で世話になったヴォルフェン教官だ。
彼は鬼教官として有名で、ラークにも他の生徒にも分け隔てなく地獄の訓練を課してくれた。同級生はみんな彼を怖がるが、ラークは彼に好感を持っている。平等、という一点のみがその理由ではあるが。
『……なんだその手紙』
「うん。ヴォルフェン教官から、僕への仕事の依頼だって」
『仕事? 危険なやつか?』
ラークはクロバに笑みを返す。
手紙をヒラヒラと見せる。
「──家庭教師。とある銀級貴族の娘さんが、周囲から嫌われる体質なんだってさ」
『……ほう?』
「神殿の道具で調べたら、ドヴネズミのトーテムを持ってるんだとか。現在は十五歳。年々その度合が酷くなってきてるらしい」
つまり、ラークと似たような状況なのだろう。使用人からも陰湿な嫌がらせを受けていると手紙にはあった。
「その銀級貴族の当主とヴォルフェン教官は古くからの友人らしくて。それで、僕に話がまわってきたんだ」
嫌悪の心波を抑えるためには、マナ制御を身につける必要がある。程度が酷ければ魔導も必要になるだろう。ラークも当然身につけていて、教えることは自体は不可能ではない。
だが──。
『お前、人と会話するの苦手だろ』
「うん。しかも女の子なんて未知すぎる」
ラークは気まずそうに頬をかく。
『ろくに友達もいねえよな』
「クロバをカウントしてもいいなら──」
『どっちでもいいが、事実は変わらねえよ』
クロバの呆れたようなため息。
それでも、ラークはこの仕事を受けるつもりでいるのだ。
『明らかに向いてねーだろ。ボケたのか』
「いや、他に職もないし、やることがあるわけでもないしな。それに、ヴォルフェン教官の顔を潰すわけにも──」
『流されてるだけだろ』
クロバの懸念はもっともだ。
ラーク自身、今のところ上手くいく様子は全く想像できない。
『その娘に「気持ち悪い」とか言われてクビになっても、落ち込むなよ』
「……まぁ、やるだけやってみるよ」
クロバの言葉が地味に突き刺さる。
ラークは手紙を丁寧に畳み、不安な気持ちを封筒に閉じ込めた。