<3>余命60年
僕達の地球
<3> 余命60年
「――――瀬戸さ〜ん!瀬戸洋介さ〜ん!!」
「はっはい!はい!!」
看護師の声に俺は慌てて返事をした。
「お待たせしました。診察室へお入り下さい」
「はっ…はい…」
おずおずと診察室へ入った。目の前には完全にメタボ体型の医者が椅子に座っていた。
「えぇ…と…瀬戸さんですね、どうぞ座って下さい」
俺は言われるがまま、医者の前に置かれた丸椅子に腰を下ろした。
今日は会社規程の健康診断を受けるため、有休を取ってこの医療センターに来ていた。俺は今年で35歳になったので、去年の健康診断より少しばかり検査項目が増えていた。
「検査結果は会社の方に3、4週間後に郵送しますので…お疲れ様でした」
素っ気なく言う看護師にとりあえず軽く頭を下げて、俺はセンターを後にした。
センターを出ると途端に蝉の猛烈な鳴き声と、うだるような熱気に襲われた。俺は着ていたポロシャツのボタンを全部外しながら駐車場へと急いだ。
今、家に帰ってもまだ誰も帰っていないだろうなぁ…
そんな事を考えながら、バリウムのせいでゴロゴロ鳴りっぱなしの腹を手で押さえながら車に乗り込んだ。
俺の生活は本当に平凡だ。
朝、6時半に起床して顔を洗い…(妻の佐和子が顔を洗ってから朝ご飯を食べないとすぐ怒る)…佐和子が用意した朝ご飯を食べ、朝刊に目を通し…そしたら娘の奈菜も起きてきて、佐和子にお気に入りのゴムで髪を結ってもらう…
「パパ!可愛〜い?」
満面の笑みで奈菜が言う。
「あぁ、とっても可愛いよ」
俺の言葉に奈菜は満足げな表情をする。
「良かったわね、奈菜!」
「うん!」
奈菜は元気に返事をする。そんな奈菜を佐和子は優しく見つめ、そのままの視線を俺に向ける。そして言う―――
「あなた、今日も遅くなりそうなの。悪いけど奈菜のお迎えよろしくね」
毎朝、毎朝…佐和子は同じ表情で同じ言葉を吐く。
「あぁ…分かった」
「お夕飯は…」
「準備して行くんだろ?イチイチ言わなくても分かってるよ」
俺は思わず不機嫌な声で言ってしまった。
「…そうね…ごめんなさい」
佐和子は苦笑いしながら呟いた。
佐和子と奈菜より少し早めに新築したばかりの家を出て、駅へと小走りで急ぐ。いつもの時間の電車に乗って、いつものようにドアの近くに立つ。そして毎日聞くバカでかい声が聞こえてくる…
「瀬戸さ〜ん!おっはようございます!今日も良い天気ですねぇ〜!」
会社の後輩、舛本慎之介。舛本はもうすでに汗だくで、タオルで汗を拭いながら俺に近寄って来た。
「本当にお前は暑苦しいな…」
本気で俺はイライラしながら言った。
「そんなひどい事言わないで下さいよ!俺が悪いんじゃないっスよ!殺人的はこの暑さがいけないんですよ!…まぁ、この殺人的な暑さの原因は俺達人間にあるんですけどね…」
珍しく、舛本はしんみりと語り出した。
「このままじゃ、この地球には住めなくなるかもしれないってテレビで言ってましたよ!俺や瀬戸さんはいいとして、ほら!奈菜ちゃん達が大人になった時がヤバいっスよね!」
正直、奈菜が大人になった時の事なんか考えていなかった。そんな事より、1年後、2年後の俺達夫婦の存在の方がリアルに危険だった。
「何か…瀬戸さん、疲れたまってるみたいですね?どうです?今日パッと飲みに行きませんか?」
「え?…あぁ、今日もダメなんだ。悪いな…」
「そうか…奈菜ちゃんですか…仕方無いっスね!奥さん忙しいんですよね!また今度行きましょう!」
舛本は額の汗をタオルで拭いながら大声で笑った。
俺と佐和子は見合い結婚だった。
そろそろ結婚を考えてもいい歳になろうとしていた(正確には互いの親が当人達より焦っていた)。当時、俺は別に付き合っている女がいたワケでもなく、と言って早く結婚したかったワケでもなかったが…親達がセッティングした見合いを断る理由も無かった。
佐和子の第一印象は…悪くはなかった。いや、結構良かったうちだ。
細身の色白美人で、料理の腕はプロ並み。茶道に華道にと…絵に描いたような大和撫子だった。
当然、俺の親は佐和子を気に入り、佐和子との結婚を強く望んだ。
俺は…納得いかなかった。何で佐和子みたいな女が結婚もせず、1人でいるのか強い疑問を持った。そして俺は2人だけになった時、その疑問を佐和子にぶつけてみた。
『―――今までお付き合いしていた方と縁が無かっただけですよ』
そう言いながら佐和子は穏やかに微笑んだ。
『…今まで俺は5人の女と付き合ってきたんだ。正直、結婚を考えた女もいたんだけど…俺の方も縁が無かったのか?』
俺の言葉に、佐和子は微笑み続けていた。
俺はそんな佐和子を見つめながら―――佐和子と結婚するのだろうな…と確信した。
「―――パパ!」
俺の顔を見るなり、奈菜が部屋から飛び出して来た。
「おぉ!奈菜、遅くなったね!」
俺は奈菜を抱きかかえ、頬にキスをした。
「奈菜ちゃん、忘れ物はない?」
「なぁ〜い!!」
保育園の先生の言葉に、奈菜は元気に返事をした。
「…あのぉ…奈菜ちゃんのパパさん…」
「はい?」
まだ若い保育園の先生はもじもじしながら言った。
「奥様に伝えて下さい。この間出版された本読みました!すっごく勉強になりますって!!」
またか…
「はい、伝えておきますよ。これからも応援してやって下さい」
「はい!もちろんです!」
その先生は興奮した様子で頬を赤めていた。
そう、佐和子は今日本中の主婦達のカリスマ的存在になっていた。
事の発端は佐和子が通っていた料理学校の先生だった。その先生はとても有名な先生で、レギュラーで料理番組を担当したり料理本を書いたりと、日本中の女性のお手本のような人物だった。その先生が新しく始まる料理番組の収録目前に体調を崩し、入院せざるを得ない状態になった。そこでその先生は教え子の中でも群を抜いていた佐和子に代理を頼んだのだ。佐和子は最初断っていたが、病身を押して家まで頼みに来た恩師に根負けし、渋々代理を引き受けた。そしてその番組が当たり、佐和子は一躍時の人となった。
それから2年……佐和子の収入はあっという間に俺の収入を上回り、結婚当初から計画を立て、やっとの思いで建てた夢のマイホーム(ローンは俺が払っている)は“佐和子御殿”と呼ばれるようになっていた。
「パパぁ〜ママはいつ帰って来るの?」
奈菜は口一杯にご飯を頬張りながら訊いてきた。俺は壁の時計に目をやり、時刻が7時15分になろうとしているのを確認した。
「もう少し遅くなるかな…パパと風呂に入るか?」
「うん!」
確かに、佐和子は良くやっていた。昼過ぎまで料理番組の収録や恩師の助手をし、そして夕方には一旦帰って来て夕飯の支度をしてからまた仕事に出掛ける。休みの日は掃除洗濯と動き回り、そんなハードな日々の疲れなんか微塵も感じさせない穏やかな笑顔で俺や奈菜を見つめている。
佐和子は完璧な妻だ。
完璧過ぎる……
佐和子はサイボーグだ。血なんか通っていない…サイボーグだ。
「―――いやぁ〜この間の○○商事との契約、順調らしいね〜さすが瀬戸君!君のような有能な社員がいるから我が社は安泰だよ!ガハハハハ!!」
「いえ…そんな…」
滅多に入る事の出来ない社長室で、滅多にお目にかかれない社長の前で俺はカチコチに固まっていた。
「…ところで…」
社長はゆっくりと椅子から腰を上げ、俺に近寄った。そして俺に社長室の中央に置かれた革張りのソファに座るように言った。
「奥さんは元気かい?」
「…はい?」
「いやいや、奥さん随分忙しそうだね〜…うちの家内が佐和子さんの大ファンでね〜」
社長は丸い顔をテカテカさせながら笑った。
「はぁ…」
力無く答える俺の前に、社長は佐和子の最新刊の料理本を5冊も並べた。
「奥さんに頼んでくれないかい?」
俺はしばらくその5冊の料理本を見つめた。
「…妻のサイン…ですか?」
「そうそう!家内の友達の分もいいかい?家内が約束してきてるんだよ!本当に悪いね!」
俺は佐和子の料理本5冊を紙袋に入れて社長室を後にした。
「瀬戸さん!社長直々に何のお話だったんですか!?」
舛本が目をキラキラさせながら駆け寄って来た。
「?何かもらったんスか?」
「あ?…あぁ、なっ何でもないよ」
俺は慌てて紙袋をデスクの下に置いた。
「どうしたんスか?顔色悪いですよ?」
「あ?…あぁ…」
胃がキリキリと痛み出した。
『しかし、瀬戸君は幸せ者だねぇ〜』
「…舛本…俺、具合悪いから早退する…」
「え?そっ早退っスか!?大丈夫っスか!?」
『あんな完璧な奥さん、どこ探してもいないよぉ!』
何なんだよ…
俺だってこんなに頑張ってるじゃないか…こんなに頑張ってるじゃないか?
会社を出た途端、また猛烈な熱気が襲ってきた。キリキリと痛む胃を指で押さえながら俺は駅まで歩いた。
あまりの暑さに、意識が朦朧としてきた。額から、こめかみから、背中から止めどなく汗が流れ落ちた。
上着の内ポケットから震動が伝わってきた。
俺は木陰に入り、携帯の着信に出た。
[ ―――あなた?私だけど…ごめんなさい…夜に急に仕事が入ったの。なるべく早く帰るから…夕飯の準備はもうしてあるから…奈菜のお迎え…]
「…いい加減にしろよ…」
[ ……え?]
「いい加減にしろ!!何なんだお前は!!何様だ!!」
[ …あっあなた…]
「何だ!仕事仕事…お前は家庭より仕事が大事なのか!?俺はお前が働かないと食べていけないような生活をさせているか!?」
[ …わっ分かったわ、今日の仕事はキャンセルするから…]
「お前は何も分かっていない!!俺がどんな思いでいるか…」
どんな惨めな思いでいるか……お前みたいな完璧な女に分かるはずがない。
[ …あなた?]
「もう…いい…」
佐和子の声を遠く感じながら、俺は携帯の電源を切った。
その日の夜、佐和子は本当に仕事をキャンセルして家にいた。俺は強烈な胃の痛みに苦しんでいた。
コンコン―――
「…あなた?具合はどう?」
佐和子の細い声が頭に響いた。
「…お粥…食べれる?何か食べないとお薬飲めないでしょ?」
「…そこ…置いといてくれ…」
佐和子がベッドの横にあるテーブルの上にお粥をのせた盆を置く音がした。
「…あなた…」
「…少し眠りたいんだ。お粥は後で食べるから…今日は奈菜の部屋で寝てくれ」
佐和子が小さく頷く気配を感じた。
佐和子は…きっとこう言おうとしたんだ。
<あなたが嫌なら仕事は辞めるわ>
そう言って仕事を辞めるに違いなかった。あいつはそう言う女だ。何でも完璧に出来るくせに、夫の望みならそのすべてを捨てれるんだ。
それから1週間もしない内にこの間の健康診断の結果が出た。俺の結果の入った封筒は、明らかに他の社員より厚みがあった。
「…何か…瀬戸さんの厚くないっスか?」
舛本が余計な一言を言った。
「どこか異常が見つかったんじゃないのか?」
部長がにやにやしながら言った。
「怖い事言わないで下さいよ!」
俺は笑いながら部長に言い返したが…心臓はバクバクしていた。
家に帰り、慌てて封筒の封を切った。
ゆっくり…震える手で結果表を取り出した。結果票以外に長封筒が入っていた。その長封筒の中には―――……
胃癌検診の結果票と…大学病院の紹介状が入っていた。
「―――すいませんね、瀬戸さ〜ん。お待たせしましたぁ〜…えぇっと…○○病院の紹介状、拝見しましたよぉ〜」
ガリガリに痩せたその医者の喋り方は独特だった。
「まぁ、そんなに心配されなくていいですよぉ〜。ほとんどの方は二次検査では何の問題も無い場合がほとんどですからねぇ〜…今日は何も食べてきてないですよね?」
「はい…」
この医者の独特の喋り方にイライラしながら、俺は小さく頷いた。
「はい、瀬戸さん、それではまず最初にこの薬を飲んですぐにこの薬で流し込んで下さい。それから…」
俺はゲップを堪えながらバリウムを飲み干した。
二次検査を終え、俺は家に帰り何度もトイレに駆け込んだ。
「結果はいつ分かるの?」
佐和子は不安げに聞いてきた。
「…来週には分かるそうだ…」
「そう…」
そう言いながら佐和子は俺の前にアイスコーヒーを置いた。
あの日以来、俺達夫婦の会話は一段と減った。
佐和子は前よりは早く帰って来るようになったが…それでも相変わらず日本中の主婦のカリスマ的存在だった。
次の週の水曜日に佐和子と2人で病院へ検査結果を聞きに行った。
1週間前はあんなにくねくねした喋り方をしていた医者の様子が明らかに変だった。妙に、モゴモゴと喋っていた。
「せっ…先生…で、結局どうなんですか?」
俺は堪らず聞き返した。
「えぇっと…ですねぇ〜…つまりですねぇ…小さな腫瘍が見つかりましてぇ…」
俺は頭が真っ白になった。
「え?しゅ…腫瘍ですか!?」
佐和子が慌てて聞き返した。
医者はやはりモゴモゴ喋っていた。何を言っているかよく分からなかった。そして佐和子が妙に落ち着いた声で医者に訊き返していた。
俺は、何も考えられなくなっていた。
「何で洋介なの!?何で洋介が胃癌なのよ!!」
佐和子から連絡を受け、慌てて家に来た俺の母親の声がリビングに響いていた。2階の寝室までよく通る声で泣き崩れているようだった。
随分時間が経ち、親達の声も聞こえなくなった。
寝室のドアがゆっくり開き、佐和子が入って来たのが分かった。
「…お袋達…もう帰った?」
「…えぇ…さっき…」
佐和子はそう言うと、俺が横になっていたベッドに腰を下ろした。
「あなた…少し、何か食べないと…」
「…クク…こんな時にも食わせようってするんだな…お前は…」
俺はゆっくり身体を起こし、佐和子を見た。佐和子は笑顔ではなかったが…やはり落ち着いた表情をしていた。
「…佐和子…仕事、続けろよ…」
「え?…」
「俺はもうそんなに長くない…だから仕事は辞めるな…」
佐和子の表情が一瞬曇った。でもすぐにいつものように落ち着いた表情に戻った。
「何言ってるのよ、あなた。手術すれば大丈夫だって…先生もおっしゃってたじゃないの。少し長めの入院になるかもしれないけど、心配いらないわ」
確かに…あの医者はおどおどしながらそう言っていた。正確には佐和子に言わせられていたような感じだった。
「…今は食べる気がしないんだ。少し1人にしといてくれないか?」
俺の言葉に佐和子は小さく頷いて、寝室から出て行った。
俺はしばらくの間、何も考えられなかった。置時計のカチカチという音だけが妙に頭に響いた。
そして、自分が泣いている事に気が付いた。
俺の人生って何だったのか?これで良かったのか?…そんな事を考えながら、佐和子に気付かれないように声を殺して泣き続けた。
長い時間泣き続けて、少しだけ気持ちがすっきりしてきた。
そしてまた考えた。
俺がいなくても、佐和子は大丈夫だ。佐和子なら立派に奈菜を育てられる。佐和子はそういう女だ。佐和子は強い女だ。佐和子は完璧過ぎる女だ。
数日後、部長にだけ事情を説明した。
「…そうか…それでいつから入院なんだ?」
「はい、担当している仕事をある程度片付けてからと考えているので…1カ月以内には…」
「そんなに間を置いて大丈夫なのか?…まぁ、瀬戸君の仕事は特別だからな…君がそうしてくれると会社としても助かるんだが…本当に大丈夫か?」
部長は心配げな表情で俺を見ていた。
「大丈夫ですよ。医者にも許可はもらってますから…」
「そうか…分かった。ただ無理だけはするなよ。それから有休の申請書とか色々手続きがあるだろうから…山田君にはすぐ準備するように私から伝えておくからな」
「はい、有難うございます…」
「それから…」
部長の言葉に俺は顔を上げた。
「私の親戚で君と同じ病気になったのがいるんだ。その時担当した医者がとても腕の良い医者で、その親戚は今も元気に働いてるよ。もし良かったらその先生に相談してみないか?」
部長は真剣な眼差しでそう言ってくれた。
「…はい…考えておきます。ありがとうございます…」
俺は込み上げる涙を堪えながら、部長に頭を下げた。
そして俺は、佐和子に部長の話はしなかった。佐和子は俺の入院に備えて、自分の仕事を調整しようとしていた。
「パパぁ〜どこか行くの?」
奈菜が瞳を潤ませながら訊いてきた。
「…そうだよ。病院に入院するんだよ」
「…にゅういん?」
「パパは悪い病気を治すために病院に行くのよ。治ったらすぐ帰ってくるわよ、奈菜」
リビングで洗濯物を畳みながら、佐和子は言った。
「ホントにすぐ帰ってくる?」
「…あぁ…」
俺の言葉に奈菜はにこっと笑った。
明日から入院という日の夜中、俺は喉が渇き、キッチンへ向かった。
階段を下りてすぐ、リビングから小さい明りが洩れているのに気が付いた。俺は静かにリビングを覗いた。
佐和子がリビングの中央に置かれたテーブルの椅子に座っていた。
こんな時間に何をしているんだ?
「…さわ…」
俺はハッとした。
佐和子の細い身体が小さく、小さく震えていた。
「…ッうッう…ううッッ…」
佐和子の嗚咽は、真夜中のシンとした空気を震わせていた。
佐和子が―――あの佐和子が泣いていた。1人で泣いていた。
あの強い女が…
あの何でも完璧にこなす女が…
あの佐和子が泣き崩れていた。
俺はそんな佐和子を黙って見つめていた。身体が動かなかった。声を詰まらせて泣いている佐和子に声を掛ける事が出来なかった。
しばらくして、佐和子は大きく深呼吸して天井を見つめた。その横顔は……信じられないくらい凛として美しかった。
もう、泣かない。
佐和子の強い意志を感じた。
佐和子は今までそうやって色々な事を乗り越えてきたんだ。そうやって強く美しく生きてきたんだ。
それなのに……俺は何だ?
まだ何も始っていないのに、もう生きる事を諦めていた。まだやるべき事はたくさんあるのに、何もかも放り出そうとしていた。
俺は佐和子に気付かれないように静かに2階へ上がった。ベッドに潜り込み、ざわざわと込み上げる情熱を感じていた。
大丈夫、まだ間に合う。まだ間に合う。
次の日、俺は病院へ行く前に会社へ立ち寄り、部長にこの間部長が言っていた名医を紹介してくれるよう頼んだ。部長は快く引き受けてくれた。
部長の話を聞いて、佐和子は嬉しそうに微笑んだ。
それから2人で病院へ行った。
病院の待合室で、名前を呼ばれるのを待っているとあの妙な喋り方の医者が近寄って来た。
「…やっ…やゃ!瀬戸さ〜ん!お待たせしましたぁ〜…さっ!こちらへ!」
今度は妙なテンションでくねくねと喋る医者に、俺も佐和子も顔をしかめながら付いて行った。
「っ申し訳ありませんでしたぁ!!!」
病院の応接室に入るなり、その医者と看護婦長が俺達に深々と頭を下げながら大声で叫んだ。俺達はワケが分からず、ポカンとしてしまった。
「…あの…」
「本当に申し訳ありませんでしたぁ!!」
「…いや、だから何が?…」
「…私のちょっとしたミスでですねぇ〜…あの…瀬戸さんの胃には何の異常もですねぇ〜…無かったと言いますか…ですねぇ…」
俺は目が点になった。
「先生!ハッキリおっしゃって下さい!」
今まで聞いた事のないくらい大きな声で、佐和子が叫んだ。
「瀬戸さんの胃には腫瘍なんて出来ていませんでした!」
婦長の言葉に、俺も佐和子も固まった。
「本当に申し訳ありませんでした!今後このような事のないよう最善を尽くしますので!検査費用もいりませんので!どうかこの事はここだけの話に…」
婦長はテキパキと、でかい菓子折りと白い長封筒を俺の前に差し出した。
その菓子折りの包装紙は白地に黄色のストライプ柄だった。
佐和子や奈菜の好物の、<ルゥーシェ>の高級洋菓子セット。
「…な…何て事を…」
震え出した佐和子を、俺は止めた。
「そしたら…俺は大丈夫なんですね?胃癌なんかじゃないんですね?まだまだ生きられるんですね?」
「もっもちろんですぅ〜!50年でも60年でも生きられますよぉ!!」
へらへらと笑いながら言う医者にムッとしながらも、俺はその菓子折りだけを受け取った。
「ここだけの話には出来ませんよ。会社には報告しないと、こっちも色々と手続きしてきたんですから…」
俺の言葉にその医者と婦長ががっくりとうなだれた。
「でも、俺は別に怒ってませんから。もうこんな事のないようにして下さい」
「え?…」
その医者と婦長と、そして佐和子が俺を見つめた。
「佐和子、行くぞ」
「はっ…はい!」
俺と佐和子はそのまま病院を出た。
秋の予感を感じる風が頬を撫でた。俺と佐和子は2人並んで駐車場まで歩いた。
ふと、佐和子の顔を見ると、佐和子が涙ぐんでいた。
「何泣いてるんだよ」
「だって…こんなバカな話無いじゃない!こんな……あなた、念のために別の病院でもう一度調べてもらった方がいいんじゃないかしら?」
「あぁ…そうだな…」
佐和子の言葉に俺は頷いた。そして佐和子の肩に手を置いた。
「どちらにしても、俺はまだまだ死ねないって事だな。お前もいるし、奈菜もいるし、家のローンもまだまだ先が長いし…」
佐和子がくすくすと笑い出した。俺も笑った。2人でこんなに笑ったのは久し振りだった。しばらく笑い続けたら、今度は腹が減ってきた。
「何かウマいもんでも食って帰るか!」
「えぇ…そうしましょう!」
俺と佐和子は車の所まで急ぎ足で行った。
「――――少し胃の表面が荒れてはいますが、大丈夫。この程度ならお薬で治りますよ」
翌日、再検査に訪れた病院の若い医者からそう言われた。
「はい。ありがとうございました」
俺はホッと安心した。
「僕達ぐらいの世代でも、ストレスとかで慢性的な胃炎になる傾向が多いんですよね。瀬戸さん、僕達は日本を背負って立つ大事な身体です。お互い頑張って行きましょう!」
その若い医者は白い歯ちらっと見せ、爽やかに笑った。
俺も爽やかな気持ちで笑い返した。
<3>余命60年 ★END★