10・7 寓話
「ここは風が強いな」
びゅうびゅうと吹き込んでくる風が、屋上の塗装や埃をまき散らす。
いきなり国立先生は私に背中を向けたと思ったら、金網へと進んでいった。さっきまでぺらぺらとおしゃべりしていたのが嘘のように。
「先生のくせに逃げるんですか」
私は塗装を蹴散らしながら、国立先生に追いつく。
「月島は、アリとキリギリスの話を知っているよな?」
すると国立先生はわけの分からないことを口走った。
アリとキリギリスって、あの絵本のことでしょ。こつこつ頑張ったアリの努力が報われるけれど、毎日遊んで暮らしていたキリギリスが冬を越せずに死んじゃうっていう。だから真面目に働く人間が偉いんだって。
「働きアリは寒い冬に備えて、こつこつ頑張って、また春が来たら働いている。アリが賢いことに異論はないが、果たして幸せな人生と言えるんだろうか。あ、アリだから人生というのは変だな」
先生は金網に指を引っかけ、そこに付いた赤さびを眺めている。
意味が分からない。どうしてそんな質問をしてくるのか。「月島はどう思う?」なんて、横顔で笑いながら聞いてくる。
「不幸に決まっているじゃないですか」
でも私は、質問に答えてあげることにした。
答えなんか考えるまでもない。
「アリは生きるために退屈して、退屈するために生きている。滑稽ですよ。キリギリスは死ぬかもしれないけれど、刺激的で楽しい人生を謳歌したんじゃないですか」
「そうだな。私も最近までそう思っていた。だが実は、キリギリスも退屈していたんじゃないだろうかって考えが変わってきたんだ」
先生は何を言っているの。
自分だってアリを辞めたキリギリスじゃない。
私への仕返しっていう刺激を得るために、こうしてアリの巣に戻って来ているだけのくせに。
「だってあのキリギリスは独りじゃないか」
国立先生は、私を振り返った。
「アリには仲間がいる。退屈な人生について愚痴を言える別のアリが。でもキリギリスにはいない。毎日、どれだけ刺激的で楽しい人生を送っているのかを伝える相手が」
一歩、また一歩。
先生は私との距離を縮めてくる。
「キリギリスがアリを厭味ったらしく小馬鹿にする場面があるが、よく考えると変じゃないか? どうして素直に遊ぶ楽しさを伝えない? まるで隠そうとしているみたいじゃないか。刺激的な毎日なのに、話し相手がいなくて惨めな自分を。そして、もうそんな自分にすっかり飽きてしまっていることを」
「だからどうだって言うんですか?」
私は苛々しながら、話の結末を急いだ。
アリとキリギリスの話なんてどうでもいい。
「先生は絵本作家でも始めたいんです? 面白い解釈だと思いますけど、子どもに読ませる内容じゃなくないですか?」
そう、どうでもいいはずの話だ。どっちが退屈かなんて。先生の話すことなんて。
なのに私は、納得のできる説明を待っていた。
「頭のいい月島なら、私の言いたいことくらい分かるだろう」
「いいえ、分かりません、さっぱり」
「……そうか」
いつの間にか先生は目の前にいて、その顔は少しも笑っていなかった。
「屋上で月島に会ったときから、ずっと不可解だったんだ。どうして私に関わろうとするのか」
「それは退屈しのぎをしたかったから――」
「というのは、理由として弱くないか?」
先生は私の反応をうかがうように、顔を覗きこんできた。
私は足元にぶつかってくる埃に視線を落とす。
「あの援助交際の話や、大雨の日の行動、自宅への訪問。どれも私相手じゃなくたっていい。『校舎の空白』みたいに教員のほうがよかったというのならそれまでだが、ここの生徒でも十分刺激的だったはずだ」
「…………」
「千早先生のいる古見に出かけたあとな、月島のいた中学校に行ってきたんだ」
「中学って……」
今になって、どうしてそんなところに行くの。
用事なんてないじゃない。
「月島の担任だった先生とお話することができた。あちらもお前のことを心配していたぞ。高校でも悟りきったような顔で、過ごしているんじゃないかって」
「……だとしたら、どうなんですか」
「月島は昔っから、退屈しのぎの読書をして、誰にも馴染まず一人っきり――というわけでもなかったんだな。今のようになったのは、月島のご両親が離婚されてから」
「なんっ……!?」
内心、歯噛みした。
昔の担任の顔が思い浮かぶ。あいつ、余計なことを教えて。
「何でも一生懸命だった月島が、急に醒めた表情をするようになったと教えてもらった。これは私の想像でしかないが、そうやって努力することでご両親を繋ぎとめようとしていたんじゃないか。そしてそれが叶わぬと知って、頑張ることの意味を失ったんじゃないのか」
頭のなかは言いたいことで張り裂けそうだった。
何、いきなり、そんな話をするの。どうして、分かるわけ……。
「私が退屈し始めたのも、思えば、教師という仕事に疑問を抱くようになってからだ。この授業が果たして役に立っているのか。部活指導は、みんなの幸せのためなのだろうかって」
先生は、私の両腕を握って、力を込めてきた。
「月島は、私に自分の影を見たんじゃないか。意味を失って、退屈に苦しめられている姿を」
先生のその言葉に、私の頭は真っ白になった。
さっきまで頭のなかで行ったり来たりして出口を求めていた言葉が、嘘のように消えていく。
その様子を見つめていた先生は、「もしそうなら」と、細くて鋭い一重の瞳で私を射抜く。
「月島、私と一緒にアリにならないか?」
そして先生らしからぬ台詞を言った。




