9・6 通い妻から別居婚へ
翌日。
津島新道のアパート。『国立』の表札前。
私は体育座りをしながら、先生が帰ってくるのを待っていた。仕方なく学校で授業を受けて、放課後になったらすぐにここに来ていた。気がかりだったあの弁護士さんはいない。よかった。これで先生を待つことができる。
『すまない。朝一番の急用ができた。夕方には帰ってくる』
手持ち無沙汰になった私は、朝に届いていた先生のメールを読み返す。
この文面からだと、昨日、弁護士さんと話をしたのかどうかは分からない。登校前に寄っても先生がいないことだけは伝わってくる。だから朝は諦めて、放課後すぐにここに来た。画面を閉じて、携帯をポケットに入れた。
ときおり、近所の人がアパートの前を通りすぎる。待つしかすることがない。
どうしても考えてしまう、先生がどうしようとしているのかって。もしあの弁護士と話をつけたら私を訴えるのだろうか。
私、そんなつもりじゃない。
嘘はついたし、先生を貶めることだってした。でもそれは先生が退屈してることを認めようとしないから。こうでもしないと先生の特別になれないから。
私は学校を追い出されたって、訴えられたって気にしない。でも、先生に嫌われるのだけは……。
「どうした? えらい塞ぎ込んでいるな」
いきなり、ぽん、と頭に衝撃が伝わってくる。驚いて顔を上げると、手を置いている先生がいた。
ねえ、なんで。そんなに余裕なの。
私、すごい不安だったんだよ。ずっと会えないし、話もできなかったし、それに恨まれているんじゃないかって怖かったんだよ。変な弁護士さんとは話をするし。
聞いてよ。大変だったの、私。
「お、お帰りなさい……」
先生は「ただいま」と、私の頭をぐりぐりなでてくる。
「多崎校長のことは悪かった。不意を突かれて、どうにもならなくてな」
「……いいですよ。気にしていませんから」
私は、とっさに嘘をついた。
本当は言いたいことがたくさんあるのに、どうしても言えない。
「先生こそどうしたんですか? スーツなんか着て」
本音をごまかすために話を変えた。
すぐに立ちあがっって横腹のシャツのたわんだ部分を引っ張る。こうすれば先生はいつも動揺する。私に触れられて逃げなくなった今でも。これで私のペースになれるはず。
「うーん」
けれど違った。
先生は腕を組みながら返事を考える。シャツを引っ張られているのに、少しも気にしない。
「なぜ私だったんだ?」
しかも質問に質問で返してくる。私の質問は無視したまま。
「先生、スーツってことは就職活動ですか――」
「私が退屈そうにしていたから、だったな?」
今度は、質問の途中で遮ってくる。
おかしい。今日の先生はいつもと違う。
「欠伸ばっかりしていたらしいな、眉間に皺を寄せて」
「そうです、けど……」
意味が分からない。どうしてそんな話を始めるの。さっきから先生が会話をリードしてるし。私は返事を言わされているだけ。
「私は月島がいなければ、退屈している自分に気づけなかった。だが月島はどうなんだ? 私を退屈から解放して、どうしたかったんだ?」
「それは……」
言葉に詰まる。先生の特別になりたい。そう思ってる。
だけど、それだけじゃない気もする。何だろう。うまく言葉にならない。
「退屈しのぎです、当然じゃないですか」
やっぱり私の口は嘘をついてしまう。「刺激があるほうが面白いですよね」と勝手に口が動いた。
「しかし、ここまでして大丈夫だったのか? 学校に居場所はあるのか? 門田とは仲良くしているか? 先生方や2組の連中は、お前のことをどう見ているんだ? 月島のことを偏見の目で見ていたりしないか?」
次から次へと質問が溢れてくる。
こんなに饒舌な先生は見たことがない。
「先生、今日はおしゃべりなんですね」
「おしゃべりな私は嫌いか?」
先生はシャツを握ったままだった私の手を握ってきた。
「そ、そういう意味じゃありません」
「なら好きか?」
「からかうのは、止めてください!」
私は思いっきり手を振りほどいた。
「すまん。そういうつもりではなかったのだが」
先生は、小さく万歳をして降参のポーズをとった。
「今日は帰りながらずっと考えてたんだ。月島は今も退屈しているんじゃないかって」
「……どうして、そう思うんですか」
「月島の顔は退屈そうにしているからな、ちゃんと見れば」
先生は万歳していた手をおろして私を見てきた。力まずまっすぐに。学校にいるときとも、自宅に引きこもっているときとも、お買い物に出かけたときとも違う。
私は視線に負けて、先生から目を逸らした。そのまま靴の先を見つめる。
「月島を助けたいと思っているんだ。月島がそうしてくれたように」
先生は腰を落として視線に合わせてきた。
声に出そうになったけれど我慢した。私は口を閉じて、見つめ返す。
「自分が何をすべきなのか。ようやく見えてきたんだ。月島からもらったものを、月島にちゃんと返したい」
先生はゆっくり立ちあがると『国立』前に移動した。ポケットから鍵を出して、部屋の入口を開ける。
――月島からもらったものを、月島にちゃんと返したい――
これって、私から受けた仕打ちを、そのまま仕返しするってこと……?
あの弁護士さんと協力して、そろそろ復讐を始める、の……?
朝一番に出かけたのって、そのための打ち合わせ……?
それとも昨日の夜に話がまとまったの……?
「ここで話をしていてもあれだろう。なかに入ってお茶くらい――――お、おい月島?」
私はその場から駆け出していた。
先生に恨まれている。仕返しされる。その事実に耐えられなかった。
もちろん分かっていた、それだけのことをしたって。でも、先生なら分かってくれるって信じていた、一方的に。
私は湿った視界のままバス停へと走っていた。すぐに先生から携帯に連絡があったけれど、それに応じることはなかった。




