9・2 ワルツからタップダンスへ
翌日。
昨日はそわそわしてあまり眠れなかった。先生と出かけるなんて想像もしなかったから。朝早くに先生のところへ行って、週末に神戸に行きませんかって提案してみた。
(ああ、そうしようか)
意外とあっさり賛成した。引きこもってばっかりだから嫌がるかもしれない、というのは心配のし過ぎだった。
いつもの通学路はどきどきしていた。週末は先生とデートする。今だって楽しいけれど、一緒に新しいことができるのが嬉しかった。
「月ちゃん、おはよう」
すると門田さんが挨拶しながら合流してくる。
「あの、昨日は、ごめんね……」
今度はいきなり謝ってきた。昨日絡んできた佐々岡とのことだと思う。私は別にどっちが正しくても間違っていてもいい。
「いいよ、気にしてないから」
けど、あんまり邪険しても仕方ない。腹が立ったのは門田さんじゃなくて佐々岡のほうだから。それに私は機嫌がいい。あのときのことを思い出すくらいなら、この話は流して週末のことを考えてたい。
「ありがとう。仲直りじゃね」
「うん」
私と門田さんは、一緒に苫田高校を目指した。
2年2組の教室に入ると、いつものようにみんな雑談をしていた。
週末のこととか、テレビのこととか、大きな声で説明している。何が楽しいんだろう。どこに行ったってそんなに違いはない。どこの観光地の食べものも、だいたい普通に美味しいだけ。テレビだって、煩くて偉そうな人が、些細なことを取りあげて、面白おかしく嘘つきながら説明して、周りが大袈裟にリアクションして、終わり。
その様子を横目で見ながら、私は自分の席に座った。門田さんもいつの間にか、その会話の輪に入っている。顔が広いと、こういうところで気を遣わなければいけないから。
「月ちゃんは、どっか行ったりしないの?」
門田さんが、いきなり話題をふってきた。
困った。何も考えてないし、興味の欠片もないし。
「神戸、とか? 新幹線で、買い物に」
思わず口が滑ってしまった。
「えー、いいなー! 誰と誰と?」
すぐさま歓声が沸きあがってくる。どうしよう、そっちに話が広がったら面倒くさいな。
「秘密」
そう言ってみた。
すると門田さんは、ますます元気になった。グループの話題を引っ張って、あれこれと妄想を開陳している。
私は門田さんのことを好きでも嫌いでもない。
でも一緒にいるのは門田さんのほうから接してくるから。先生が辞めた事情を知っている人は、すごい顔で私のことを遠巻きに観察していたけど、門田さんだけは態度を変えない。
「泰一ってさ、2年2組の担任になったけど溶け込んでるよね」
知らない間に話題が変わっていた。今度は泰一みたい。
国立先生に代わって2組の担任になったのは多崎泰一。教科は国語。花本先生の授業を引き受けている。授業に対するやる気はないし、私たちのことを「おい」とか呼び捨てにするから、最初は不評だった。見た目だってぼさぼさ頭だ。
それでも恋愛相談をしてくれるらしい。自分の経験談を踏まえているから的確なんだとか。元・女子高生の奥さんとの馴れ初めが切り札。だからあっという間に2組の人気者になった。元々、授業さえなければ嫌われたりしない性格だったから、当然といえば当然なんだけど。
「だるいな。朝のHRはすっ飛ばして、授業に入るぞ」
噂をすれば影。泰一本人が教室に入ってくる。やっぱりぼさぼさだ。
「泰一先生、提案があります」
バレー部の男子が、さっそく泰一に絡む。誰だっけ、たしか柴田とかいう方かな。
「一緒に授業もすっ飛ばしてしまうのは、どうでしょうか」
もう一人のバレー部員……武田、だったかな。すかさず柴田をフォローする。仲がいいこと。
みんながくすくすと笑う。泰一も慣れているから、慌てたり怒鳴ったりしない。薄ら笑いを浮かべている。
「2人には反省文でも書いてもらおうかな? 今度は授業妨害で」
泰一は神妙な顔で言い放った。柴田と武田の顔が凍りつく。
へえ怖い。あの2人がお酒を買おうとして、先生に捕まったのって、みんな知らないから。私だって昨日知ったばかり。えぐいやり方で黙らせてしまった。ぼさぼさの勝ち。
「そんじゃあ始めるぞ。教科書の24ページを開け」
こうして国語の授業が始まった。
「月島、ここの設問を解いてみろ」
授業の中盤。泰一が呼び捨ててくる。
クラスの人が声にならない声で言ってる。どうして月島を当てるんだって。分かってる。泰一はあれでも気を遣ってるんだって。余計なお世話なのに。
「何を求められているか分かるな? 設問2『完全なる存在としての神を措定する弁神論が、現代の私たちにとってなぜ冷ややかに受けとめられるのか』だ」
「はい」
私はゆっくりと立ちあがった。
「著者は2つの理由を挙げています。1つは宗教的紐帯が弱体化しているから。もう1つはアダムとイブの楽園は、現代人には変化がなくて耐えられないから。以上です」
「……正解だ」
泰一は、お手上げといった顔で教科書を丸めた。「月島には敵わんな」と、ぽんぽん肩を叩きながらこぼす。
「月島の説明を補足するぞ。さっき読んだ25ページの2段落目を見ろ」
泰一は教科書を見ないまま問題の解説に入った。みんな分かってないけれど泰一は授業がうまい。説明も誘導も自由自在に合わせてくれている。けど過保護だ。授業を聞いて教科書を読めば分かることだから。
読めば分かることなのに、読めないから分からない。そんな生徒に合わせるために先生がいて、学校があって、試験があって、世間があって。いつまで続くんだろう。
私は教室の窓から外を眺めることにした。
「月ちゃんって、ほんと頭いいよね」
授業が終わったお昼休み。今までと何も変わらない門田さんの無駄話が始まる。
「そう?」
「うん。だってあの問題、全然分からなかったし。泰一が説明して、なんとなく分かった気がしたけれど」
「そう」
私はゆっくりと立ちあがった。「え、お昼は?」と門田さんが心配してくる。
「お腹減ってないから」
「でも」
私は門田さんには答えずに、教室を出ていった。
門田さんのせいじゃない。ただこの場所にすることがないから。けどそれを説明したって彼女には分かりっこない。そうだ、屋上にでも行こうかな。誰もいないし静かだし。
「待って」
門田さんが背後から走ってきた。
「月ちゃん、やっぱり一緒にご飯食べようよ、お腹空いてないかもしれないけど……。私はお腹空いてるし、話し相手になって欲しいし……」
「話し相手が欲しいの?」
「う、うん……」
「門田さんは人気者だから。私以外にも付き合ってくれる人がいるんじゃない?」
「……でも」
分からない。どうして私に声をかけるんだろう。
じゃあ、と私は断りを入れて、屋上に向かった。
屋上の風景は、とても静かだった。
ここには何もない。ごみが隅っこに溜まっているだけで、いつも風の音しかしない。煩い人間もいないし面倒な授業もない。
懐かしい。ここで最初に先生と話をしたんだ。
ばりばり、と剥げ落ちた塗装を踏み砕いて、遊んでみる。
楽しかった。どうやったら先生と2人だけになれるか考えてばかりだったから。噂話を流しても、大雨を利用しても、先生は全然本気になってくれない。結局、先生が風邪を引いているところを襲ったんだけど。
ばりばり、今度は対角線上に歩いてみる。
先生のことじゃなくて自分の家のことを思い出した。
中学生になってから頑張った。勉強ができるようになったら、料理が作れるようになったら、お母さんのお世話できるようになったら、友だちができたら、私のせいで喧嘩しなくなる、お父さんは帰ってくるって信じてたから。でも私が頑張ったって、お父さんが帰ってくるわけがない。
頑張るのを止めたら、退屈が降ってきた。
こんなに毎日が同じだなんて考えもしなかった。
家に帰る、シャワーを浴びる、ご飯を作って食べる、宿題をする、本を読んだりネットを見たりする、寝る、朝起きる、お母さんを介抱する、お弁当作ってあげる、登校する、授業を受ける、吹奏楽部に入る、また家に帰る。週末は友だちと遊んで終わり。毎日夜になると、このまま寝ていいのかなって不安だった。不安を追い出すために本をたくさん読んだ。疲れているときはパズルを解いた。
ばりばり、でたらめに踏み荒らしながら移動してみた。
大雨の日のことが脳裏に浮かんでくる。内緒で覗いたボストンバッグに入っていた睡眠薬。強い薬だって分かって驚いた。先生は私より退屈していて、不安で夜も眠れないんじゃないかって。
どうやったら確認できるだろうって考えて、車で二人っきりになったとき、ようやく確かめることができた。先生が退屈していることを知って、いても立ってもいられなくなった。先生に抱きつきたかった。だって最初に屋上で会ったときは、本当に退屈しているかどうか分からなかったから。先生と私は、きっと運命で結ばれている。
――うちら、悪いことしたじゃろ――
そうだよ、したよ。
――どうして月ちゃんは平気なん――
平気じゃないよ。こんな退屈な毎日。
――胸を触られたとか、どうして嘘ついたんだ。先生を追い出して、何の意味がある――
意味なんてないよ最初から。意味がないから嘘をついたの。
――先生の気持ち考えたことあんのかよ――
考えたから、やったの。先生の気持ち、痛いほど分かるから。
だから今度はデートに行くんだ。二人っきりで。




