8・11 魔の山
「とはいえ、学校を辞めても変わりませんでした」
千早先生は席に座りながら、そう語りかけてくる。
その手には、ドリンクバーから持ってきた新しいコーヒーが握られていた。
「もちろん辞職直後は清々しい気持ちになりましたし、自由を謳歌していました。でも、それにも耐えられなくなってきたんです」
「ど、どうしてですか!?」
「だって退屈でしょう? 何もしないのって」
「…………」
私は空になっている珈琲カップを両手で握る。
「結局、することもなかったので就職活動を始めました。いろんな仕事を転々としましたが、どれもやっぱり退屈で。一生このままだろうと諦めていたのですが、運のいいことに退屈しない今の職場にたどり着きました」
どうしてそんなに幸運なのですか、と言えなかった。
何もかも、千早先生は先回りしている。仕事に退屈することも、辞職することも、そして退屈しない職場を見つけることも。
羨望と嫉妬が一緒になって、私の首を絞めているみたいだった。
「人を教えるということが、苫田高校にいるときは拷問でしかありませんでした。けれど、単調に見える仕事も、細部を見れば違うことがあるんです。同じことの繰り返しのように見えても、実は、毎日が新しい」
毎日が新しい。
その言葉が全身を痺れるように走る。
「古見で気づきました。ここではいろんなことが起こりますから。親の暴力から逃げてきた子どもを児童相談所に連れていったり、学校に行けない子どもに勉強を教えたり。家族も含めた子どもの細部が見えてくると、ただ勉強を教えるだけだと思っていた仕事が激変しました。人間を見ていると退屈しない、とでも言えばいいのでしょうか」
千早先生は、わずかに胸を張り、猫背を伸ばした。
「国立先生、苫田高校を辞める必要はない。あそこでも細部を見ることはできる。毎日を新しく生きることができる。まだ間に合いますから」
柔和な態度でありながら、その声には力がこめられていた。
「すみません、出しゃばった真似をして」
「……いえ」
そろそろ出ましょうか、と千早先生は伝票を手に、席を立った。
その背中を追いかけながら、私は不思議な気持ちに包まれていた。千早先生の言うことに、必ずしも賛同しているわけじゃない。学校に戻ってもまた退屈に襲われる気がする。ただ、私と同じように苦しんできた人間がいるという事実が、心を軽くしていた。
「今日はありがとうございました」
「滅相もない。私も話ができてよかったです」
私たちはファミリーレストランを出ると、その場で別れの挨拶を交わした。「多崎校長にもよろしくお伝えください」と言葉を残し、千早先生は塾へ戻ろうとする。
「あの」
私は先生を呼び止めた。
「最後に1つだけ。変なことを聞くかもしれないのですが、どうか笑わないでください」
「え、ええ」
先生は足を止めて、こちらを向いた。
「もしかして千早先生は警告してくれませんでしたか? 月島に近づかないようにと」
「警告……」
顎に手を添えて、首を傾げる。
「私が国立先生に、ですか?」
千早先生の猫背がますます丸くなる。
「その、先生の夢を見たんです。職員室の前の廊下で、月島には気をつけろって。とにかく月島の話を聞かないように。卒業までの辛抱だからと」
「……なるほど、それは不思議ですね」
千早先生は顎から手を離すと、腰に当てた。
「でも、それは私じゃないと断言できます」
「ど、どうしてですか?」
「国立先生を退屈しのぎに使うのは、もう御免ですから」
千早先生はやっぱり嬉しそうに笑っていた。




