8・9 読書について
『古見セミナー学習塾』
5階建ての雑居ビルの3階。バス停から見上げる看板は、思っていたよりも真新しいものだった。
飲み会の直後、多崎校長から電話があり「明日なら大丈夫」という連絡がきた。
私は朝一番、月島が顔を出してくる前に、家を出た。彼女にはメールをしておいたから捜索願が出されるようなことはないだろう。
――月島霧子には気をつけてください――
すでに千早先生には出会っていた。夢の中で。
かつて月島がお見舞いに訪れたときの夢。月島が卒業するまで近づくな、と。科学的に考えれば、これは偶然の一致に過ぎない。だが不思議な符合を偶然で片づけられるほど、私は冷静に考えられなかった。
雑居ビルに入り、エレベーターの3階で降りると、目の前に『古見セミナー学習塾』という手書きの看板がぶら下がっていた。
「失礼します」
ノックして扉を開ける。
室内は思っていたよりも明るく、大きなパーティションの隙間から、学習机と椅子の並んでいる様子が見えてくる。
「どちら様でしょうか?」
部屋を観察していると、パーティションのさらに奥から、40代くらいの女性が出てきた。ぽっちゃりとした体型を包むベージュのスーツに控え目の化粧。なぜかほっとしてしまう。
「突然すみません。国立一弥という者なのですが――」
「ああ、はいはい。お話ならうかがってますよ」
女性は奥へと戻っていった。
ぼそぼそと話し声が聞こえてくる。
すると今度は、女性ではなく男性が姿を見せてきた。
「お久しぶりです、国立先生」
猫背気味で小柄、夢で見たよりも細面でいささか頭も薄いが、間違いなかった。
「千早先生、こちらこそご無沙汰しております」
「びっくりしましたよ。多崎校長から夜中に電話がかかってきたんですから」
先生は穏やかな表情で笑う。
「ここで話すのもなんですから、よかった近場のファミレスにでも」
「はい、よろしくお願いします」
私と千早先生は、塾の近くにあるファミリーレストランに入っていた。
塾関係者の馴染みのお店らしいが、放課後が来ていないためか客は少なく、家族連れがまばらに座っているだけだった。
「ここは適度に静かなので、内緒の話もできます」
そう千早先生は説明してくれた。
テーブルにつき、ドリンクバーを2つ注文する。個別に珈琲2杯を注いでくると、千早先生のほうから水を向けてきた。
「多崎校長から聞いています。私が苫田高校を辞めた理由をお聞きになりたいとか」
「不躾なことで失礼なのは承知しているのですが」
「聞けば、先生も辞められたばかりという話。あんなに熱心にされていたのにと驚きました」
「……はい、諸事情がありまして」
「そうですか。さぞ大変な決断だったでしょう」
ほんのりと浮かぶ千早先生の豊齢線に安心する。柔和な雰囲気は今も変わらない。
「あまり面白い話ではありませんが、お役に立つのであれば」
千早先生はテーブルに置いた珈琲をじっくりと味わい、カップを戻す。
「仕事にやり甲斐を感じられなかったのが理由です」
それから千早先生は、どれほど教員生活に倦んでいたのかを話始めた。
採用された当初は、面白く感じていた仕事も、次第に色褪せていったという。授業も部活も同じ作業の繰り返し。入学して卒業しては、また入学してくる生徒たち。忙しいだけの時間に我慢ならなかった、と。
「辞める直前は、吐き気まで覚えていました。手帳に書き込まれた予定、PCのデスクトップに張られたやることリストに。ストレスを減らすために置いたはずの観葉植物が花を咲かせるだけで、腹が立つようになっていました。なんでお前は幸せそうなんだって」
私と同じではないか。
千早先生の口から紡がれる言葉は、まるで自分のことのようだった。
だから多崎校長は、辞職の理由が退屈だということを知っていたから、千早先生を私に紹介したんだ。
「国立先生のおかげで、でも辞職は先延ばしになったんですよ」
「え、なぜですか?」
「新任教員を育てるのは、なかなかに骨が折れますけれど退屈しのぎになります。何かに打ち込んでいれば気が紛れますから」
「そ、そうでしたか……」
すみませんでした、と頭を下げてくる千早先生。
忙しさに避難する。こんなところまで私と一緒だった。
「国立先生も立派になられ、また飽き飽きしてくるようになった頃です。きっかけとなる出来事がありました」
「体調を崩された、とか……?」
「いえいえ。こう見えて体力はあるほうなんです」
ないのは髪の毛だけですね、と額に手を当てた。反応の薄い私に、咳ばらいを挟む。
「月島霧子という生徒が入学してきたんです」
驚きのあまり声になる前の何かが咳となって出てきた。今度は私がむせ返る番だった。私が落ち着くのを待ってから、千早先生は再開する。
「新入生なのに落ち着いていて、何をさせてもそつなくこなす。つまらなさそうに授業を聞いて、テストで淡々と100点をとるんです。真面目なのにいつも気怠そうにしていました」
「それで千早先生は、どう」
「親近感を覚えなかったといえば嘘になりますが、だからといって何かするわけではありません。自分のことで精一杯でしたし」
「でも、辞職されるきっかけになったと……」
あの月島が、千早先生にも同じことをしたのではないか。私はそう考えていた。
「家庭訪問のとき、たまたま彼女のいる一人部屋に入ったんです」
滑らかな曲線を描いていた口角が、徐々に下がっていく。
「夥しい数の本がうず高く積もっていました。100や200じゃないんです。漫画や小説ひいては高度な専門書、一番多かったのはクロスワードや数独の本です。まるで図書館のようでした」
ぞっとした寒気が込みあげてくる。
月島の隠されていた恐ろしい一面を垣間見てしまったような、そんな感覚。
年頃の女子が、そんな読書家でも読み切れないほどの量の本を、どうして自室に抱えているのか。
「今でも覚えています、彼女の言葉。何を読んでも退屈なんです、どうやったら抜け出せるんですかって。高校生の発言とは思えませんでした」
「…………」
言葉がなかった。
これまで見えてこなかった景色が、急にはっきりとしてくる。なぜ私に絡んできたのか。どうして退屈していることを易々と見抜けたのか。そして今も訪問してくる目的は何なのか。
月島もまた飽いていたのだ。
欠伸ばかり繰り返し、そつなく教員をこなし、援助交際のような刺激的な噂話を喜々として調査する私の様子。彼女の目には、私もまたきっと同種の人間に見えていたのではないか。
「……で、先生は月島に、何と」
「高校生のうちはそう感じるかもしれないけれど、大人になれば変わるよ、と。ずいぶんと不用意な発言をしたものです」
それで月島との会話は終わったという。
「その日からもう駄目でした。月島さんへの嘘が白々しくて」
「嘘? 何が、ですか?」
「大人になったって何も変わりません。誰かが刺激的な事件を起こしたり、美しい世界へと案内してくれたり、仕事に生き甲斐を与えてくれたりなんて、あり得ません。動かなければ退屈はずっとそのままです」
すぐに教員生活が馬鹿馬鹿しくなり、辞表を提出したという。
もちろん理由は一身上の都合。しつこく食い下がる多崎校長にだけ、退屈で続けられないと説明したそうだ。
「これで全部ですが、こんな話でよかったでしょうか」
すっかり冷め切った珈琲を飲みながら、千早先生は笑っていた。




