8・8 不機嫌の時代
「先生は酒に強くなったな」
「実は、もらっているお薬を飲むと酔いやすかっただけなんです」
岡山駅周辺に群居する居酒屋の一角。
赤い屋根と木造の外壁が、疲れた客を誘い込む。店内は顔を赤くしたスーツ姿の人々が、大いに叫び、大いに杯を渇かす。
私と多崎校長は、夜の色と労働者の涙が染み込んだテーブルに案内された。すでに焼酎のロックと水割りのグラスが1杯ずつ、いくつかのおつまみが並んでいる。
最初は、簡単な近況報告から始まった。花本先生の結婚に男子バレー部のインターハイ敗北のこと。結果を残せなかったから、今後の私学経営は厳しくなると嘆いていた。反対に私は、今も無職であることや不眠治療のため心療内科に通っていたことを告白していた。
「心愛ちゃん、学校まで怒鳴り込んできたぞ。惚れられてるのか?」
つい先日、子守先生が苫田高校に来たそうだ。
「そういうことはまったく。ただ彼女はカウンセラーらしくないというか、単刀直入を絵に描いたような性格でして。ご迷惑をおかけしました」
大森心療内科にしばらく足を運んでいない。何度も電話があったのに無視しっぱなしだ。
「面白かったぞ。あれはあれで」
多崎校長は、テーブルの隅にあった灰皿を引き寄せながら、胸元の煙草を取りだし、とんとんと机を叩く。そしてそれを口に咥えると火を灯した。一口、煙を含む。
「で、だ」
ふわっ、と質問を吐く。そして「月島霧子とは今はどうなっている?」と切り出した。
「月島が面白半分でやった、という事件ではないはずだ。彼女にとっても気持ちのいい話ではない。だとすれば、それなりの出来事があったと考えるしかない。違うか?」
多崎校長は煙草を灰皿に置いた。
月島との関係を疑われている。校長室で諭されたときの態度は、あくまでも学校責任者としての顔だったということか。
「……特には、ありません」
私は嘘をついた。
月島が家に来ていると言えば、間違いなく彼女が悪者になってしまう。セクハラを受けた被害者が、加害者のアパートに通い詰めだなんてあり得ない。
それに手段はどうであれ、私は月島によって助けられた。あのまま学校にいては、いずれ身体を持ち崩していただろう。今回の辞職は、あくまでも私個人の問題、つまり退屈に耐えられなかったことにある。だから、ここはどうしても譲りたくなかった。
「本当か?」
「……はい」
多崎校長は、かなりの部分が燃え尽きた煙草を、灰皿の縁でノックし、灰を落とす。新しい一本を出さない。ほぼフィルターだけになった煙草を、人差し指で転がしている。
「分かった」
ぴん、と指先でフィルターを弾き、灰皿に落とした。
「国立先生は、腐っても先生だな」
「……私は、もう先生ではありません」
「そう思っているのは自分だけかもしれないぞ」
多崎校長は、テーブルに1枚の名刺を置いた。「新しい職場だ」と言葉を添える。
「多崎校長、新しい職場っていうのは……」
「千早黒樹先生の、だ。憶えているだろう」
その名前を聞くや否や、食い入るように名刺を見た。『古見セミナー学習塾・講師』という肩書きと住所、それに『千早黒樹』の名が刻まれている。
花本先生の前任者。教師としてのいろはを私に教えてくれた恩人。
去年、いきなり職場を辞められてから一切の交流がない。
「どうして、これを……」
「会ってこい。そうすればきっと分かる」
「分かるって、何が、ですか……?」
「それも含めて、全部だ。話ならつけておく」
私は、返事をする代わりに、名刺をポケットに収めた。




