8・5 悪の華
「ただいま」
がちゃり、とアパートの扉が開く。
とんとん、と月島が部屋に入ってくる足音が聞こえる。布団から頭だけを出した瞬間「まだ寝てるんですか」と顔の上から声をかけられた。
「……夕方、か?」
寝起き特有の、むくんで重たい瞼をこじ開けながら月島の顔を見る。
「はい」
月島の元気な返事が聞こえてきた。
「先生、今日はカレーでもいいですか?」
枕元に座った彼女は、夕方のメニューを確認してくる。「ああ」と気だるい返事をして、私は瞼が閉まるのを重力に任せる。
「先生、また寝ちゃうんですか? 話を聞いてくれないんですか? 先生?」
耳元でささやく月島。
その言葉を聞きいていると、わずかな違和感が込みあげてきた。それは眠気を邪魔されるときの感覚とは違っている。
先生。
いまだに月島は私のことを「先生」と呼ぶ。
「月島、その呼び方なんだが」
もう一度、瞼を開いて、彼女を見ると、すぐさま笑顔が返ってきた。
「私は、もう先生じゃないんだ。苫田高校を辞めたし、月島のクラス担任でもない。だから――」
「でも」
彼女は口を開く。
「私にとって、国立先生は国立先生なんです」
にっこりと笑顔の返事だった。
たしかに年上の人間の呼び方は、高校生にとって判断の難しいところだろうし、かつての担任をそう呼びかけるのは自然なのだろう。
でも実際に仕事をしていなければ、教師としての模範的な振る舞いをしているわけでもない。それどころか月島に生活を頼っている始末。「先生」と呼ばれ続けることに決まりの悪い思いがする。
「そうか」
だが私は、そのまま会話を終わらせた。
呼び方を変えてもらおうと主張をする権利すら、自堕落な私にはないのだから、と。もう一度、私は瞳を閉じる。
「先生」
すると彼女は、いきなり彼女は布団に潜ってきた。もぞもぞと内部へと分け入り、私の上から抱きついてくる。
「は、離れないか……!」
「嫌です」
ひょこんと布団から顔を出して、にやりと笑った。
布団のなかで私と月島の温もりが混ざり合う。彼女から触れられても大丈夫になったとはいえ、こんなことをされては、大丈夫ではない触れ合いへと展開してしまいそうだ。
「してくれないんですか?」
「だ、だから、駄目なものは駄目だと言っただろう……!」
月島の唇に触れないよう、顔を横に向けながら否定する。すぐさま彼女は顔をスライドさせて「どうしてですか?」と顔を向き合わせてくる。
「教え子を抱くやつがあるか……!」
「でも先生は、もう先生じゃないんですよね?」
「どうしてお前はそういつもいつも……! 揚げ足をとればいいってもんじゃないぞ」
「だって……」
月島は不満そうに頬を膨らませる。「あのとき、しなかったから」と続ける。
あのとき、とは自宅で待ちぶせしていた月島に、花本先生とのことで挑発され、私が台所で押し倒したときのことだ。もうどうなってもいい。そう思って月島を抱こうとしたのに、意識を失って倒れてしまった。
「先生は、私とは嫌なのかなって……」
そのことを月島は今も気にしている。
正直な気持ちを言えば、嫌なはずがない。今だって理性の箍は限界ぎりぎりだ。でもそうならないのは、この関係がいつまでも続くはずがないと、どこかで分かっているからだ。
私ところに通い詰めて、月島の将来はどうなろうというのか。進学するのなら受験勉強を、就職するのなら就職活動を考えなければいけないのに。それに高校を卒業してしまえば、こんな生活は破綻するに決まっている。
じゃあ仮に、このまま私との関係を深めて一緒になったとしたらどうなるのか。私はその責任をとれるのか、月島をそういう対象として真剣に考えられるのか。
「そんなことはない」
私は月島の頭をなでながら答える。「そんなはずがない」と頭をぽんぽんと叩く。
「……私のこと恨んでるから、嫌なんじゃないかって……」
すると月島は、不安をごまかすように強く抱きついてきた。
そのまましばらく、私は月島を抱きながらじっとしていた。理性の箍を緩めないよう、自分の不甲斐ない態度を噛みしめながら。




