8・3 幸福論
「辞めただと!?」
苫田高校の校長室。
接客用ソファに座りながら、机をばちんと叩きつける人物がいた。
「はい」
驚くことなくのんびりと茶をすする多崎泰一。2客出されていた緑茶を、来客よりも先に口にしている。
「どうしてそういう危険なことをさせたんだ!? それでも教育者かっ!!」
「教育者と言えども、自由意志は尊重すべきですから」
ばん、と机の湯飲みが宙を舞う。
「ゆっくりさせるというのは、何もしないという意味じゃない! まずは仕事量を減らすなり、他の生き甲斐を見つけ始めるなりするってことだ! いきなりそんなことしたら、かえって暇人になって病むぞ!」
「おっしゃることはご尤も」
慌てず騒がず。彼はお茶の水面を観察してから飲み干した。
経緯はこうだ。
国立一弥の個人情報から、彼の職場を割りだしていた子守心愛は、すぐさま学校にアポイントメントをとった。もちろんプロのカウンセラー失格の言動だ。
(国立一弥を出せ)
まるで誘拐犯や暴力団まがいの口ぶりで迫ってきたため、多崎泰一がさっそく対応に当たることになる。
(子守が会いたがっていると伝えろ。事態は一刻を争う)
個人情報の漏洩などまるでお構いなし。新手のクレーマーは質が悪いらしい。
(出せと言われても、いないものは出せません)
(そんなはずがない。そこは職場だろ)
(ご事情は察しかねますが、これ以上のことを部外者にお話しする――)
(今から行く。茶でも用意しておけ)
警察を呼ばなかったのは、多崎泰一のいたずら心――もとい、広い心のおかげだったのかもしれない。
それから嵐のようになだれ込んできた彼女を校長室に通し、国立一弥の辞職を伝えたところだった。
「なんで辞めさせた!? あのワーカーホリックに自由意志などあるはずがない!」
この妙齢の美女は、大声でないとしゃべれないのだろうか。
多崎は空になった湯飲みを置きながら、好き勝手な感想を抱いていた。ひとしきり発散していただいてお引き取り願おうと考えていたが、まだ帰りそうにない。
「理由をお知りになって、どうされるのですか?」
「国立先生を助ける。仕事は誠心誠意するからな」
このとき初めて、まともなしゃべりかたをしたことに、多崎は気づいた。
クレーマーも真っ青のことをしておきながら、今さら誠心誠意とはどういう了見か。仕事にしては過激すぎるではないか。そもそも国立一弥が心療内科にかかっていたということからして初耳だ。こちらから尋ねるまで一方的にしゃべるものだから、てっきり家族か誰かと勘違いしてしまった。しかも事情を聞いても「治療中の病人については教えられん」とけんもほろろ。こちらだって教えてやる義理はない。そんな引っかかることが、次から次へと心に浮かんでくる。さっさと追い返したって構わない。
だがしかし、と多崎泰一はしばし踏みとどまる。
子守なる医者にとって、ここまでする意味はない。コストに収入が見合わないのだから。下手したら訴えられるかもしれないのに。
だが、この著しく社会性を欠いた行動が、彼のことを考えての結果だとすれば。なるほど、たしかに分かりやすい行動原理であり、筋も通っている。
「これからお話すること、一生涯、口外しないと約束していただけますか?」
多崎泰一はソファから身体を起こした。すぐに「こう見えてもプロだ」とくる。
こうして彼は、国立一弥の身に起きた出来事を、詳らかにした。教員の守秘義務があるにもかかわらず、月島霧子について知り得ることを。月島霧子による狂言の可能性があることも併せて。そして国立一弥当人は退屈を理由に退職したのだと。
「なるほど。開放骨折を避けて、閉鎖骨折を増やしたようなもんだな」
子守心愛は、机にあったお茶を飲み干した。「どっちにせよ放ってはおけん」と続ける。
「それはどういう意味で――」
「お茶が美味かったぞ。愛がこもっていた」
すぐさまソファから立ちあがり、「世話になった」と校長室を出ていってしまった。
「愛ねえ、愛」
一人、誰もいない部屋でつぶやく。
名刺交換のさいに机に置いた紙片には『大森心療内科・子守心愛』の文字。名前にも愛があふれているな、と多崎は苦笑した。
彼はおもむろに携帯に手を伸ばし、とある相手にメッセージを入力し始めた。送信を終えると、ソファに身体を預ける。
――こん、こん――
しばらくすると入口を誰かがノックした。「いいぞ」と多崎は返事をする。
「私に用事ですか?」
女子高生が1名、おずおずと部屋に入ってくる。彼女はソファに腰を降ろすと、所在ない様子で周囲を見回していた。心なしか顔色が冴えない。
「どうした、元気がないな?」
「……さっきまで月ちゃんと一緒にいて、信二と喧嘩になって」
「それは大変だったな。だが私にとってはタイムリーなんだ、実は」
えっ、と彼女はびっくりした。
「お前にしか頼めない用事があるんだ、門田」




