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先生が退屈な人でよかった  作者: じんたね
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8・1 死に至る病

「夕方、か」


 目が醒めると、夕焼けの光が、窓から注ぎ込まれていた。時計を見ると時刻は16:00。

 私はゆっくりと上体を起こし、しばし現実と非現実の境界線を漂っていた。

 あの日から、私は私であることを捨てた。

 苫田高校を退職し自宅に引きこもるようになっていた。目的もなく布団に包まるだけの毎日。曜日感覚は失われ、朝昼晩のけじめは消え、社会とのつながりが断ち切られていた。


 校舎の面影。

 生徒たちの名前や顔。

 職員室の先生方の忙しそうな様子。


 あれほどの密度で過ごしてきた日々だったはずなのに、そのすべてが記憶からかすんでいた。もうその面影すらも思い出せなくなっていた。

 それでも、おぼろげに多崎校長の悲しそうな顔は憶えている。月島はきっかけに過ぎなくて、退屈に耐えきれなくなって辞めるのだと説明したら、目を白黒させていた。

 たるのなかの脳みそではないが、すべてここで見た夢だったのではないか。有能な教師への憧憬どうけいをかたちにした。そんな気すらしている。


 ――だが夢ではない。


 夢だと信じ込むことを許さない理由があるからだ。


「ただいま国立先生」

 夢の住人がいる。それが理由だった。

 彼女は、買い物袋を片手に、ばたばたと部屋に入ってくる。もうインターホンもノックもしなくなっていた。


「今日の夕食はどうします? 食べたいものはありますか?」

「……任せる」


 月島は「分かりました」とあどけなく笑った。

 自堕落な生活を支え、夢と現実の区別を与えているのは、月島霧子の訪問のおかげだった。身の回りのこと一切を引き受けてくれている。早朝、学校に行く前に顔を出し、夕方、放課後に立ち寄っていく。


「すぐ作ります」

 月島はエプロンを着けながら台所へと向かう。


「昨日は、お母さんが酔っ払って大変でした」

 そして、鼻歌と調理器具の音をBGMに、月島は内容のないことをおしゃべりする。おかげで社会から切り離されているにもかかわらず、何が起きているのかを細大漏らさず把握していた。


 たとえば、花本先生が寿退社したこと。

 学校では盛大な送別会が行われたらしい。この話を聞いたとき、私は何の感慨も抱かなかった。

(私も色紙に書いちゃったんですけど、どんな気持ちで読むんでしょうか)

 無邪気にしゃべっている月島のほうが、よほど印象的だった。

 あと、男子バレー部の初戦敗退。

 急遽きゅうきょ、香川先生が顧問になったそうだが、結果は火を見るより明らかだ。佐々岡の奮闘虚しく、インターハイは惨憺さんたんたる内容だったらしい。


「先生?」

 ふと視線を感じた。すぐ横には制服にエプロン姿の月島が座っている。


「楽しいですね、こうしていると」

「……悪い冗談だ」

「悪い夢よりはいいです。やりがいのある仕事なんて嘘よりは、よっぽど」

「…………」


 月島の言葉には、否定できないものがあった。

 解放感、とでも言えばいいのか。

 学校を辞めてからというもの、不思議な満足感に満たされている。とり憑かれたように身を粉にしていたのは、退屈であることを認めたくなかったからなのだと思う。


 あの夢も見なくなっていた。

 あらゆる刺激のない空間に放り出され、ペンチで絞めあげられるような悪夢。大森心療内科にも行っていないし睡眠薬も呑んでいない。体調も落ち着いている。


「先生」

 月島はその手で触れてくる。


「私のこと、抱かなくていいんですか。もう我慢しなくてもいいんですよ」

「生徒を抱けるわけがないだろう」


 だがその手を振り払うことはない。触れた手を否定されていないことが分かると、月島はにやぁと笑った。

 これもまた大きな変化の1つ。

 あれほど頭を悩ませ、ときに苛立ち、しまいには恐怖すらした月島を、私は受け入れていた。勝手に部屋に入り込んできても、料理を作っても、こうして触られても、何ともない。

 きっと自分に都合よく接してくれる月島に甘えているだけなのだろう。甲斐甲斐かいがいしくしてくれる彼女に離れて欲しくないだけ。何とも身勝手な話だ、我ながら。


「そろそろ火が通ったかな」

 彼女はすくりと立ちあがり、台所へと戻っていった。

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