1・1 舞台役者のように踊りさえずる
「そろそろ中間試験の問題を完成させないとな」
大きく伸びをしたら、欠伸が出てきた。
私は、体育館での部活指導を終えて、職員室に向かっていた。お決まりの慣れきった道のり。『苫田高校』とエンブレムの入ったボストンバッグが肩に食い込む。そのなかでは、男子バレー部のユニフォーム、タオル、練習メニューノートなどが、のんびりと歩くリズムに合わせて踊っている。
「国立先生、さようなら」
すると背後から、男子部員の声が聞こえてきた。バレー部の部長をしている佐々岡信二だ。彼は早歩きに私を追い抜いていく。
「さよなら」「さよならさーん」
今度は別の男子2人が、体育館から駆けてきた。佐々岡の友人・柴田麻生と武田邦明。佐々岡に飛びつくように追いついた。3人は減速することなく下駄箱へと雪崩込み、シューズを運動靴に履きかえると正門から出ていった。
彼らの駆けた廊下をなぞりながら下駄箱に到着すると、私は回れ右をする。前方に見える職員室に向かおうとすると、
「国立せんせ、もう帰っちゃうの?」
またもや背後から呼びかけられた。その声は男子ではなく女子のもの。「男同士の交わりは?」ともったいぶった態度で続けてくる。
「男同士の交わりなら、もう十分してきたぞ」
「やあん、いやらしいわあ」
後ろを振り向くと、視線を泳がせながら口元を緩ませる女子生徒が、後ろ手を組みながら立っていた。
「熱き血潮のたぎる私立苫田高等学校の体育館。男子だけに許された饗宴の園。高校一の堅物先生・国立一弥が、激しく優しくいやらしく部員たちの肉体をいじめ抜いていたのであった」
「その話は長いのか」
私のがっかりした様子に、彼女は、にぃ、と口角をあげる。
「『佐々岡っ!』『や、やめてください先生!』『うるさい! お前たちが……! 誘惑するお前たちが悪いんだぞ……!』『せっ、先生!?』――国立一弥の犠牲者がまた1人、歴史に刻まれるのであった」
そして彼女は、身振り手振りを交えて一人二役を演じきった。
「門田の想像力こそ、多くの犠牲者を生み出しているぞ」
この女子生徒は門田杏。男子バレー部3人衆のいる2年2組の生徒であり、残念ながら私が受け持っているクラスの子でもある。所属する吹奏楽部の終了時間が、男子バレー部と重なっているため、体育館‐下駄箱‐職員室への道が交差するここで、よく捕まってしまう。
飾らない性格で人懐っこい。多くの教員がムードメーカーとして彼女を重宝している。ときおり、男子生徒同士のやりとりを眺めては頬を緩ませるのだが、詳細は不明、ということにしたい。
「その豊かな想像力が、どうして校則に至らないのか」
何を指摘されたのか分からない。
そんな表情の門田が穿いているスカートを、私は指さして見せる。
「ここの規則は膝下だ。どうして短くする必要がある?」
「せんせが喜ぶかなって」
「門田が真面目になれば嬉しいぞ」
「私に視線奪われてるから? どきどきしちゃう?」
「奪われるのは門田の平常点だ。留年でもしたら、どきどきではすまないぞ」
「もう1年かけて、どきどきしてる先生の気持ちを奪っちゃおうかな」
「そうなったら、お前のせいで溜まった心労ごとくれてやる」
「あはは、約束だよ」
けらけらと門田は声をあげて笑う。「月ちゃんと半分こだね」と背後に視線を向けた。
門田の背中に隠れるように、もう1人の女子生徒が佇んでいる。彼女は、まばたきで門田に返事をした。
彼女の名前は月島霧子と言う。
2年2組で吹奏楽部。大人しい性格で、自分からしゃべることはほとんどない。成績優秀。問題行動皆無。教員からは手のかからない生徒として認識されている。おしゃべりで騒々しい門田とは対称的だ。
「ところで先生は結婚しないんですか?」
にやにやと笑いながら、上目遣いで見てくる門田。
またこの質問か。私は心のなかでため息をつく。30歳独身という私の肩書きは、門田だけではなく生徒たちのネタになっていた。「相手がいればな」と適当に返事をする。
「せんせ! ここには女子高生がよりどりみどり! 可愛い子もきれいな子も選び放題!」
「どうして私生活を犠牲にしてまで、子どものお守りをしなければならんのだ」
「あら不思議、せんせの目の前には、なんと苫田高校を代表する美少女が2人も」
「何も見えないな」
「いいの? 放っておいたら誰かにとられちゃいますよ? お買い得なのに?」
「安物買いの銭失い、って言葉を知っているか?」
「ほらほら、月ちゃんを見て? こんな美人の女子高生がいるのかって思わない?」
門田はわずかに横に移動し、背後の月島をアピールする。
月島は迷惑そうに横目で見つめている。この話題に巻き込むなと言っているようだ。私も同感だ。
私たちの気持ちを知ってか知らずか。にぃーっと笑顔のまま月島の背中に回り、「どーん」と彼女を突き飛ばした。おろおろとバランスを崩した月島は、私にもたれかかってくる。
「月島、大丈夫か?」
身体を預けたまま動けない彼女に声をかける。月島は無言のまま首を縦に振った。
両肩に手を乗せて、ゆっくりと押し戻し、元の位置へと戻す。
「あんまり月島をいじめてやるな」
「あれ? どきどきしなかった? もしかして月ちゃんのこと嫌い?」
「お前の聞きたい意味でなら、好きも嫌いもない」
とにかく完全下校の時間までには帰るんだぞ、と私は踵を返した。職員室に向かって歩き出すと、「国立せんせが逃げたぞ! 本当はどきどきしたんだ!」と騒がしく挑発するの声が聞こえてきた。
「やれやれ、しつこいな」
職員室の入口に到着しても、門田はまだ叫んでいた。遠くに見える2つの人影のうち、一方が忙しなく動いている。
「もう帰れ」
私が大声で言うと、人影の片方は下駄箱へと消えた。もう片方は、動かないままこちらを見ていたが、しばらくすると下駄箱のほうへと姿を隠した。