3・4 秘めたる思慕の情
それからしばらく、学校は大変な騒ぎだった。
気象庁でも予測できなかった豪雨のせいで、学校の安全管理体制についてマニュアルの見直しが行われたからだ。緊急連絡網、避難経路、避難訓練の実施回数について、仔細に検討が加えられる。会議につぐ会議で、教員の誰もが疲労の色を見せていた。
学校施設の清掃作業もそれに輪をかけて大変だった。全校生徒・教員の手で、泥だらけになった校舎の掃除に取り組んだのだ。おかげで平常運転に戻るまで一週間をかけなければならなかった。それでも、体育館内部までの浸水はなかったため、板張り部分もそのまま使用できていた。
「さすがに腰にくるな……」
のんびり訪れてきた筋肉痛を労りながら体育館の天井を見あげる。男子バレー部の練習が終わり、部員たちは片づけ作業に入っていた。
「佐々岡」
部員の群れに向かって、その名を叫ぶ。すぐに「はい」と返事があった。佐々岡が隊列を離れて、小走りに近寄ってくる。
「体調は大丈夫なのか?」
「問題ありません」
佐々岡は後ろ手を組んで胸を張る。彼は、大雨の翌日から学校に来るようになっていた。反対に、その日から月島は休み出した。風邪だとお母さんから連絡があった。
「今週末は、他校との練習試合がある。よろしく頼むぞ」
「はい」
私は周囲を見回し、他の部員たちが片づけに集中していることを確認する。「バレーとは別のことで、確認したいのだが」と続けた。
「あのとき佐々岡は屋上で何をしていたんだ?」
「それは……、気分転換です」
「屋上には月島がいただろう。月島と話をしていたんじゃないのか?」
「…………」
佐々岡は直立不動のまま口を閉ざした。すっかり警戒されてしまっている。
失敗したと思った。聞き方があまりにも直接的過ぎる。出所も真偽も曖昧な援助交際の話と、それを知りながら否定しない月島。私は、おそらく事情を知っている佐々岡の口から、明快な説明を聞きたいという欲求に突き動かされてしまっていた。
「誰にも言わないって、約束してくれるっすか」
佐々岡は床を見つめながら小さくつぶやく。向こうから口を開いてくれたため、思いがけず助けられるかたちになった。
私は「約束する」と即答した。すると佐々岡は「インハイが終わるまでって決めてたんすけど」と、ぼそぼそと口を動かす。
「自分、昔から月島のことが好きだったんです。1年の頃から」
「う、ん?」
予想外の発言だった。たしか佐々岡は門田のことを好きだったのでは。すぐに「門田じゃないっすよ」と補足が入る。
「恥ずかしいっすけど、自分は月島のことずっと見てて。あの日、いきなりあいつは教室を出ていって3階に行ったんです。追いかけていったら屋上に進んでいって」
――あの日、いきなり、か。
やはり援助交際などしていない。そのことを確信する。だとすれば、なぜ月島がそれを否定しようとしないのか。
「それで屋上に着いたら、追いかけたのがばれて、まじで恥ずかしくなって、もうしゃべるしかないから、なんでここにいるのかって聞きました。そしたらあいつ」
私はポケットに入れていた体育館の鍵を握りしめた。掌にその凹凸が食い込んでくる。
「なんで自分が来るんだって、待っているのは佐々岡くんじゃないって」
「待っているのは、佐々岡くんじゃ、ない?」
「せっかくの苦労を台なしにしないでって」
「せっかくの苦労、台なし……」
私は佐々岡の言葉を反復するしかなかった。
つまり、月島は佐々岡以外の誰かを待っていて、それは苦労して用意された機会だということになる。
「それで帰りに国立先生に会いました。だから自分、月島が待っていたのは先生なんだって思って。多分、月島は先生のことが好きなんだろうって考えたら、もう学校に行けなくて……」
――先生に買ってもらいたくて屋上で待ってましたって――
あの月島の台詞。冗談ではなく本気だったのか。
私の掌からは、すっかり鍵の感触が消えていた。血の気が引き、まるで金属が融解してしまったかのような錯覚を覚える。
だとすれば、どういうことだ。
それでも私は状況整理をしようとしていた。私が屋上に向かった理由はあの噂話があったからだ。噂話がなければ屋上に足を運んだりしない。もしあれが私を呼び出す手段だったとすれば、月島が否定しないのも頷ける。嘘だと言ってしまえば、私は二度と屋上には来なくなるからだ。
――屋上でなくてもいいんです。2人だけになれるのなら――
そもそも引っかかっていた。どうして大人しく目立たない真面目な月島が、噂話の対象になったのか。そして噂の痕跡が、なぜどのクラスにもなかったのか。つまり月島の目的は、最初から私にあったということになる。
「先生はどうなんっすか」
佐々岡の問いかけが思考を中断させる。
「月島をどう思うんっすか。生徒でも女子っすよ。泰一先生だって教え子と結婚しましたし」
大柄な身体を揺らして迫ってくる。
「馬鹿馬鹿しい。月島をそんな風に――」
見たことがない、と言いたいのに。喉が発言することに抵抗する。
フラッシュバックする大雨の日。月島の着替え。校長室でのやりとり。そして――
「い、いや、あり得ない」
喉のこわばりをごまかすように口を動かした。
「佐々岡の考えすぎだ。私は、そういうことは、ない」
「でも、自分は……何でもないっす」
片づけに戻ります、と佐々岡はその場を去っていった。
額に走る汗を拭おうと、ポケットから手を引っこ抜くと、ちゃりん、と金属音がした。掌を見ると、鍵の形状のままに真っ赤に染まっていた。
「佐々岡に逃げられるわけだな」
自分がどれだけ身を堅くしていたのかが分かった。
体育館の天井を見あげると、照明がやたら眩しく感じられた。




