父親――無灯仁
紫丈邸から帰宅した有機は、玄関を抜けてリビングへと続く扉を開いた。
「やあ、ゆう君おかえり。久しぶりだね。元気だったかい?」
「……」
久方ぶりに見る父親は特に変わった様子もなく、いつものように柔和な微笑みをたたえて有機に話しかけた。しかし、有機はそれを無視して学生鞄をソファーへ放り投げる。まるで仁の存在自体が見えていないかのようにリビングを素通りしてキッチンの冷蔵庫へ向かった。
有機の投げた鞄がソファーに着地すると、そこに並べられたファンシーなぬいぐるみたちがその振動に揺られて小躍りした。テーブルでお茶をすする仁はその光景を眺めながら、再度、口を開く。
「また背が伸びたんじゃないか? いやはや、僕のように小さくならずにすんで良かったよ」
「……」
バタン! 冷蔵庫を閉める音。有機は麦茶の入ったグラスを持ってリビングへ戻ると、ソファーの鞄は放置したまま自室へ向かうために扉へ手をかけた。
「ゆう君の所為でお友達が大怪我をしたそうだね」
三度発せられた仁の言葉に有機の手が止まる。その顔に露骨な苛立ちが見て取れる。
「母さんから聞いたのか……。父さんからも言っておいてくれ。町内会だかなんだか知らないけど、勝手に息子の身辺を調べるのはやめてくれって」
「それはゆう君がゆりりんと、ちゃんと話をしてないからじゃないかな。ゆりりんはゆう君のことが心配なだけだよ」
「そんなの……。いいから、ほっといてくれよ」
「嫌だね」仁は即答した。
「はぁ!?」
有機はテーブルで湯呑を持ったままこちらを見ている仁を、刺すように睨みつけた。だが、そんなことでは仁の口を塞ぐことはできない。
「ほっといたほうが良い時は僕やゆりりんだってそうする。でも、それじゃダメなときは僕だって黙っていることは出来ない」
「なんだよ偉そうに。俺のことは俺が一番知ってる」
「そうでもないよ。ゆう君は今、冷静に自分を見ることが出来ていない。僕はね、カメラを通してたくさんの人を見てきた。だからわかるんだ。ゆう君にとって今が大事な、乗り越えなくちゃいけないときだって」
「たくさん見てきた? はっ! じゃあ、そのたくさんの中に俺も入ってるのかよ! ふざけんな! ろくに帰ってこないくせに俺の何がわかるっていうんだよ! 急に帰ってきて父親づらすんじゃねえ!」
有機が急に声を荒げても、仁がそれに動じた様子はない。仁は静かに湯呑をテーブルに置くと立ち上がり、そのまま有機の目の前に立ちはだかった。仁が有機を見上げる構図は二人の身長差を露骨に強調する。
「……」
「なんだよ」
直後、有機はリビングの床に尻もちをついていた。手に持っていたグラスは音を立てて割れ、中を満たしていた麦茶はフローリングの床にガラス片とともに広がった。
有機は右頬をさする。
あるのは殴られた感触。
それはあまりにも一瞬の出来事だった。
有機は何かが来ることが分かっていたにもかかわらず、受け身をとることもままならなかった。
「さっきの言い方はなんだい? 父親に向かってそういう口のきき方はよくないよ。ゆりりんが教えたとも思えないし。口で言ってわからないのなら体に教え込むしかないのかな」
「それって完璧に家庭内暴力だろ……」
「うーん、僕としては親子喧嘩のつもりなんだけど。それとも、ゆう君は僕に一方的に殴られるくらいに弱くて臆病者なのかい?」
仁はレンズの大きな眼鏡をずりあげて笑った。露骨な仁の挑発に有機の唇が吊り上がる。
久々の笑み。青木への自責の念で閉ざしていた有機の心は少しずつだが開きかけていた。
「……いいぜ、そこまで言うならその喧嘩、買ってやるよ」
有機と仁は自宅前の道路で向かい合う。
家の中で暴れると優理に怒られるからと外へ出てきたのだ。
「さて、どこからでもかかってきなさい。僕が全て受け止めてあげよう」
一定の距離を保ったまま、仁が両手を広げて高らかに声を上げた。陽も落ちていて明らかに近所迷惑だが、周囲の家屋から誰かが出てくることはなかった。
「じゃあ、いくぞ」
有機が道を蹴って瞬時に間合いを詰める。
そこから右ストレート。
仁は半身を引いてそれを容易くかわす。
「受け止めるんじゃなかったのかよ」
「だったら避けられるようなパンチをしないことだね」仁は笑いながら言う。
「くそっ!」
左右の連打。有機はボクシングのフットワークのように軽快なステップからあらゆるバリエーションのパンチを放つ。有機の得意とする魔法はガントレットを模しているため、この手の格闘技はある程度学んでいる。だが、二人の喧嘩に魔法の発動はない。
その必要もなかった。
(ふざけんな! どうしてあたらないんだ……。ちくしょう、絶対当てる! この男をぶんなぐる!)
憤る有機はとっさに右足で上段蹴りを放った。
これは仁の右手によってガードされる。
「いいね、やっとがむしゃらになってきた感じだ。これは喧嘩だよ? 華麗なステップも技術も必要ない。必要なのは気持ち! 心意気だよ!」
仁は足を振り払うとおもいきり有機の顔面を殴りつけた。
反動で有機が道路を二転三転し、そこで受け身をとってようやく止まる。
「どうだい? 僕のパンチは痛いだろう? なんてったって僕の拳はゆう君への愛に満ちているからね」
有機は立ち膝の状態で頬をさすりながら呻くように呟く。
「表裏さんが言ってたのと全然違うじゃないか……。父さんは臆病者なんじゃないのかよ。どうしてこんなに強いんだ」
「ふふっ! そうだね……。皇君の言うとおり、たしかに僕は臆病者さ。でもね、僕はゆう君の前でだけは父親として強くあろうと決めているんだ」
有機は天才だ。それは一言でいえば応用力に優れているということ。戦闘に関しても持ち前のセンスと相まって無類の強さを誇る。だからこそ、同じ速度や力を持った相手に対して遅れをとることはまずありえない。
その有機に対して圧倒的な強さを誇る無灯仁。
――だが、彼は天才ではない。
ただの臆病者だ。
八年前、全身を泥だらけにし、泣きながら帰ってきた有機を見たとき、仁は誓ったのだ。
父親として、有機とどう向き合っていくのかを。
「ゆう君。僕はね、男には立ち上がらなきゃならないときってあると思うんだ」
「立ち上がるとき?」
「そう。僕にとっては今がその時なんだよ。こういうのはタイミングでね? 今、こうしてゆう君と向き合わないと、僕もゆう君もこのままずっと立ち上がれなくなってしまう、そんな気がしてならないんだよ」
「違う……。今なんかじゃない……。もう遅いんだ! 俺は青木を守れなかった! 俺がもっとちゃんと止めていれば青木は怪我なんかしなかったんだ。あの時、あの背中に俺がもう一度声をかけていたら、こんなことにはならなかったかもしれないんだ! 立ち上がるときがあるとしたらあのときなんだよ」
「……」
「あいつにとって俺はその他大勢の友達の一人かもしれない……。でも、俺にとっては大事な大事な友達なんだ!」
それは有機が内に溜め込んだ心の叫び。
八年前、自分を救ってくれた少女のように、強くなろうと誓った。
実際、有機は強くなった。それでも大切なものは守れなかった。
その自責の念から有機は心を閉ざした。
「ねえ、ゆう君。ドレイクの変えた価値観はね、ひどく曖昧なものなんだよ。確かに世界は天才を排斥する方向でここまで進んできた。でも、全ての人が必ずしもそういうわけじゃない。君が共に過ごす文芸部の人たちがいい例さ。誰からも好かれるような人が嫌いな人もいれば、忌み嫌われる孤独な者にも理解者はいる。この世に絶対の価値観なんてものは存在しないんだ」
「何が言いたいんだよ」
「その他大勢の一人なんて卑屈な言い方はやめるんだ。ゆう君は天才である前にゆう君という一人の人間なんだ。天才だから親友にはなりえないなんて、そんな考え方はそれこそドレイクの価値観に囚われている証拠だ」
「じゃあ、どうしろって言うんだよ……俺だってあいつと本当の友達に……なりたいよ……」
「だったら! 彼と本当の友達になりたいんだったら! 彼を止められなかったことが心の底から悔しいなら! 今のようにいつまでも塞ぎこむことが青木君への誠意なのかい?」
「そんなの……だからって……どうしろっていうんだよ!」
有機は無茶苦茶に頭を振った。今のままじゃいけない。でも、どうしていいかわからない。
整理のつかない頭の中で有機は必死に足掻く。まるで溺れているようだった。そこに陽のあたる水面が見えているのに、泳ぎ方がわからないからそこまでたどり着けない。
「目的と行動は表裏一体だよ。テストで良い点が取りたかったら勉強をする。速く走りたければ練習をする。ひきこもっていたければ、塞ぎこんでいればいい」
「俺は……」
「ゆう君は馬鹿じゃない。きっと答えはもう出ているはずなんだ。だけど不器用だからその自分の中にある答えを見つけ出せないでいるだけ」
「……」
仁は自然に有機との距離を詰める。うつむく有機の肩に仁はそっと手をのせた。
「だから喧嘩をしよう! 叫んで、吠えて、泣いて、喚いて、殴って、殴られて、自分の中のもやもやを全部吐き出すんだ! そうして見えてくることもきっとある!」
顔を上げた有機に仁はもう一度ほほ笑む。とてもこれから喧嘩をするようには見えない。
仁は有機を抱き起こすと、少し距離をとって有機と向かい合い、そしてもう一度両手を広げた。
「さあ、どこからでもかかってきなさい! 僕が全部受け止めるよ」
「「うおぉぉぉぉぉ!」」
有機はがむしゃらに拳を繰り出した。
泣きながら
叫びながら
それを仁は全身で受け、彼もまた拳を繰り出す。
泣きながら
叫びながら
そこに魔法は必要なかった。
「――さてと、私も出来ることをしなくちゃね。とりあえず救急箱を用意するところから始めようかしら。ガラスの割れた音もしたからその掃除もしなくちゃ」
二階のベランダから夫と息子を眺めながら優理もまた物思いにふける。
全力でぶつかる二人を見ていると、少しだけ仁をうらやましく感じた。
そして、二人の男の、心の対話は陽が昇るまで続けられた。




