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   3話 ノケモノ(後編)


 虚を突かれた痛みに、竜の顔が跳ね上がる。


 慌てて突き刺していた剣ごと身を引いたジャックはそのまま急いでリアを担いで距離を取った。

 ジャックの腕の中で、リアの目が弱々しく開いて驚きを示す。


「混乱は後にして、逃げることを考えて」


 リアを抱えたままジャックは後ろ腰のポーチから小瓶を取り出して栓を抜いた。

 中に入っているのは水よりも少し粘度の高い液体。


「半分飲んで、残りは左足にかける。そしたら少しは動けるから、這ってでも逃げろ」


 ジャックはそう言うとリアを地面に降ろした。


「這ってでも、というか這って逃げろ。立ち上がって走りでもしたら、煙を吸って倒れる。いいね、できるだけ急いで逃げろ」


 すぐにジャックは踵を返して走りだした。

 時間がない。

 ジャックの向かう先で、真上に吠えていた竜が顔を下ろすところだった。


 ダメージなどあるはずがない。口の中を斬ったためにそれなり痛かっただろうが、それだけ。

 人間で言えば、頬の内側を思い切り噛んでしまった、といったくらいだ。


 左手が走る。

 竜は近づいてくるジャックをすでに視界に捉えていた。

 右手に握られた長めの短剣が、振られる準備をするように右下に動かされた。竜の瞳が動いた短剣を追う。


 飛来していた小さな影が竜の瞳に当たり、甲高い音を立てて弾かれた。

 左手で抜き放っていた投剣は、竜の硬質な眼球に刺さることが叶わない。


 角膜にぶつかった何かに意識を向けた竜の隙をついて、ポーチから先ほどとは別の小瓶を取り出した。


 ジャックの駆けていた足が地面を削って止まり、勢い良く小瓶を握った左手が振りぬかれた。

 竜の前肢がとっさに小瓶を払いのけて、ぶちまけられた液体が空気と反応して白い煙を吹き出す。


「【なんだお前は】」


 竜の息吹が煙と液体を吹き飛ばすと、ジャックの姿は無い。


「【嫌な気配がしたな】」


 呟く竜を、茂みに隠れたジャックが観察する。

 やはり大きい。三階建ての建物ほどの大きさはゆうにある。


 リアが食われかける瞬間まで観察していて、すでに呼吸のリズムは掴んでいた。


 どんな生物でも呼吸というのは意識して行うものではない。体の本能が自然と行うものだ。

 そのリズムを掴んでしまえば、意識の流れや切れ目も推測できる。ある程度熟達した人間なら、隙を作り出すこともできる。


 人間相手ならそれだけで大抵の者を圧倒でき、その技術を主にしてジャックは二等階級の位まで登り上げた。


 しかし、竜相手には手詰まりだった。

 

 身体能力でいえばジャックは三等冒険者の水準程度の実力しか持っていない。

 いくら竜の隙を突けたところで、刃が通らないのならなんの意味もなかった。

 策を考え、諦めて茂みから姿を現す。できるだけ堂々と歩いた。


 リアを追いかけようとしていた竜が、それを見て足を止める。


「【諦めたのか、それとも何かの囮か?】」

「さて、どうかな」


 ジャックは微笑んでみせる。できるだけ含みをもたせてみせる。


「【ひ弱な体だな。生命力がほとんど感じられない】」


 竜がジャックをそう品評した。

 このやりとりの時間がジャックの求めるもので、竜もそれを知った上での余裕だった。


「見ての通り貧弱なんでね」

「【だが、多くの戦場を知っている。戦いに疲れた魂の色だ】」

「デリカシーがないから、あんたら竜は嫌いだな」


 魂を見るとされる竜の視線に、ジャックが顔をしかめた。

 竜は気にした風もない。羽虫に文句を言われて気にする人間はいない。


「【戦いを知るお前が、なぜここで我に歯向かう。敵として足りぬことが分からぬわけではないだろう】」


 ジャックは竜の瞳をじっと見た。

 黄色い宝石のような輝きの中に、細長い爬虫類と似た瞳孔。


「それが仕事だから」


 ジャックが答えながら、右手の短剣を握り直す。


「リアを死なせるわけにはいかない。そのためには、リアの上に乗っていた客車をあんたがわざわざどけてくれたあのタイミングで、割って入るしかない」


 長々と語るのも時間稼ぎのため。


「後は、できるだけ時間を稼いで、死ぬだけだ」


 竜の瞳が微かに痙攣する。


「【お前は、喰いごたえがなさそうだ】」




 * *




 それは戦いと呼べるものではなかった。



 命の奪い合いではない。


 まとわりつく目障りな小蝿を追い払うような、そんなやり取り。



 ジャックは必死に竜に攻撃をしかける。

 放っておいても竜にとってダメージはないが、鬱陶しさにジャックを殺そうとし、それをジャックは懸命にかわす。



 しかし、それは長くは続かない。




 * *




 耐刃の加護がかけられていたはずのジャックの衣服が切り裂かれていた。

 高かったのにな、とジャックが煙に咳き込みながら愚痴る。

 耐火や防煙の加護を成していた魔術式の紋様が途切れ、ただの衣服となっていた。

 深浅はあれど全身は傷だらけで、五体が欠損していないのはジャックの経験によるものだった。


「【弱きを創意工夫により補うのはヒトの特徴であるが、それでも届かない戦力差はある】」


 竜は無傷だった。


 投剣は刺さらず、短剣は届かず、毒ガスは効かず、強酸は鱗を溶かすこともできなかった。

 霊薬を使い果たし、傷を治す術もない。

 右手はすでに動かない飾りとなっていて、短剣を握る左手もすでに力が入らない。


「もう、後はあの手しかないかあ」


 デタラメを口にしながら、ジャックはリアのことを思う。

 どれだけ逃げられただろうか。

 途中でネリアか誰かが拾ってくれていたら最高なのだけれど。


 体の向きを変えて、動かない右手を後ろに隠した。

 見えなければ警戒する。警戒すれば出足が一歩遅くなるかもしれない。それだけのためだった。


「【死を前にしてくじけない意志の強靭さは認める。だが、やはり喰いではなさそうだな】」


 ジャックはまだ動く左肩を揺らして笑った。

 この竜は自らのことを夢を喰らう竜だと言っていた。

 それなら、確かに自分は食料として魅力がないだろう。


「夢を望むには、少し現実に漬かり過ぎたかな」

「【夢を見過ぎて、現実の分からぬ者もいるようだ】」


 竜の言葉を理解できなかったジャックの背中が凍りつく。


 あってはならない気配に、胸が串刺しにされたようなストレスが生じる。


 竜への警戒も全て忘れて、ジャックが振り向く。


「お前……ふざけるな」


 涙で顔をぐしゃぐしゃに汚したリアが、ふらつきながら立っていた。

 ジャックの意識が止まりかける。状況をいち早く理解して対策を練らねばならない思考を、状況を理解したくない感情が邪魔していた。

 リアは顔を横に振った。駄々をこねる子供の動作だった。


「【お前が死ぬのが嫌なようだぞ。つくづくヒトは高望みな生物種だな】」


 竜が嗤う。

 ジャックを置いてリアを追いかけなかったのは、目障りだったからではなく、近づいてくるリアの夢の気配を知っていたからだった。


 どうあがいてもひっくり返らない状況だった。何をどうしてもジャックもリアも食われるしかない。


 竜はジャックがリアのもとに歩くのを止めない。

 リアの感情にどんな影響があって、夢の味がどう変わるかに興味があった。


 近づいてくるジャックに、リアが泣きながら微笑む。


 その頬が思い切りぶたれた。


 ジャックの荒んだ目と、向きなおったリアの赤く腫れ上がった目が合う。


「最悪だよ。くそ」


 その声は本気の苛立ちと怒りが込められていた。

 それを感じてなお、リアは強い瞳を保ってジャックを見ていた。


 ジャックがため息をつく。


「約束を一つ破らないといけない」


 剣を握ったまま、ジャックは左手の甲で額を押さえる。

 ジャックの瞳が陰に隠れる。


「正しいかは分からないけど、状況に流されよう」


 ジャックが左手を下ろすと、リアが息を飲んだ。

 灰褐色だった瞳が漂白され、瞳孔が縦に伸びている。爬虫類の瞳だった。


 リアの視界からジャックが消える。


 ガラスの割れるような破砕音。


 リアが音の方に顔を向けると、竜の顔に取り付いたジャックが瞳を短剣で貫いていた。


 竜が咆哮を上げて空へ飛ぶ。顔の前を払った前肢とジャックの短剣が衝突し、地面に落ちる。

 ジャックは落下点に魔術式を展開し、地面に落ちる直前に発動。生じた斥力がジャックを柔らかく受け止めた。


 竜は上空に滞空しながらジャックを見下ろす。砕かれた瞳はすでに修復を始めて白い煙を上げている。


「【空間跳躍の魔術など久しぶりに見たな。お前に魔力の気配など感じなかったが……それに、その瞳】」


 竜は冷静に起こった事実から、ジャックの変化を予測していた。


 ジャックは右腕を魔術で修復する。

 瞼が引きつって開かれた目は、爬虫類の瞳で周囲を探っている。

 指先が硬質化して、鱗を形成し始めていた。


「【嫌な気配を感じた気はしていたが、ツェルドーグの呪いを受けた者か】」


 竜の声色が先ほどとは違ったものになる。

 その変化の意味を声から推測することはできないが、呼吸を見れば竜が驚いていることは分かった。


 何か軽口を叩く余裕はなかった。ジャックは歯を食いしばって意識を強く保ち、心を奈落のそこへ引っ張りこむような力に抵抗する。抵抗に失敗した瞬間、ジャックにかけられた呪が成就する。


 動くようになった右手で剣を掴み、切っ先を竜へ向ける。


 紡がれた魔術式が剣を囲う幾つもの円を築く。

 剣に込められた魔力が式に充填され、変質し、圧縮され、形成される。


 射出されたのは回転する掘削の力場だった。

 高速で接近するジャックの魔術と竜の魔力障壁が衝突。


 魔力核である瞳を一つ破壊されて不充分な障壁が貫かれる。

 身を(よじ)った竜の首元をかすめ、竜の緑色の血が吹き出した。


「【我が身に傷をつけるか】」


 竜が口を開き、口内に魔術式が展開される。

 瞬時に巨大な炎弾が構築されて射出。ジャックは正面から短剣で斬りつけた。


 着弾と同時に爆発。


 炎が広がっていく中心で、薄い魔力障壁を体にまとわせたジャックが煙を上げながら立っていた。

 ジャックが盾となったように炎が届いていない空間が放射状に背後に続く。

 その空間の中心でリアは手を組んで祈っている。


 ジャックの右膝が崩れ、地に触れた。


「【負ける道理はない】」


 竜が宣言する。

 ツェルドーグの呪いは、被呪者に何らかの力を授けるものではない。少なくとも、人間の形をしている間は魔力や生命力になんの変化もない。


 突然のジャックの実力の変化は、ツェルドーグの呪いを抑えるために回していた魔力や生命力を止めて、竜を攻撃するために使用し始めたからだ。


 つまり、ジャックの戦力は人間のもの。

 竜に単身で勝てる人間など大陸でも少数しかいない。

 そしてジャックはその少数ではない。


「【だが、これ以上刺激して、ツェルドーグの呪いが成っても困るな】」


 竜の見下ろす視界の中に、竜の瞳で見上げるジャックの姿があった。

 戦意を喪失するどころか、どんどん高揚していくのが見て取れる。


 抑えていたツェルドーグの呪いが一気に進行して体を蝕む。

 指先から侵食していく竜の鱗は、肘を覆い始めていた。


「【その娘の夢は、一度預ける。最も熟した時に、また喰らいに来よう】」


 竜がジャックを睨む。


「【竜の呪いは制御できるものではない。その呪いは、世界のために成してはならん】」


 竜の瞳が黄色い魔力の光を帯びた。

 ジャックの漂白された瞳も、共鳴するように黄色く光る。


 体を壊されるような激痛が、ジャックの体中に響く。

 けれども瞳を竜から外すことはできなかった。

 押し殺した音が喉から漏れる。


 そして、緩やかに光が消えた。


「【正反する我の呪いは、ツェルドーグの呪いに反応して、互いに拮抗する。お前の体を戦場としてな】」


 ジャックは苦痛に耐えながら竜を睨みつける。

 竜はその視線を悠々と受け止めて言った。


「【残された選択肢は少ない。先ほどまでのように生命力のほとんどで呪いを抑え続けるか、二つの呪いの戦いに体を破壊されるか、どちらかの呪いが成就するか。

 選ぶ権利だけは、お前に残されている】」


 竜の眼前に人の拳ほどの大きさの魔術式が現れ、その向こうに両手を広げたほどの魔術式が連動して描かれる。


 同形のふたつの魔術式を結ぶ延長線上、山火事を続ける地面に街ほど巨大な相似形の魔術式が刻まれ、光りだした。


 竜の潤沢な魔力が洪水のように式に送り込まれ、変質、発動する。

 真っ赤だった森が、黒と茶色に変色していく。炎が鎮火され、炭や煤、燃え残った幹が姿を現していた。


「【一度だけ、我が呪いは加護となろう。そこの娘の夢を、育て、守れ】」


 竜はそう言い残して、西の空へ去っていった。



 * *



 風が吹き上がり、焦げ臭い空気を運ぶ。

 ジャックの瞳が竜のものから人のものへと戻っていき、力を失って閉じられる。


 そのまま、前に崩れ落ちた。


 静寂。


 ジャックは動かない。


 リアが立ち上がり、歩き出す。

 左足の傷は霊薬によって塞がっているが、失った血は戻っていない。

 青ざめた体はがくがくと痙攣を起こし、何度か転びながらリアが歩み、這う。


 リアの手がジャックの肩に触れて、揺する。


 抵抗のない感触は、リアが教会の手伝いで何度か触った死体のものによく似ていた。

 リアの膝に生温い液体が触れて、服に染みこんでいく。下を見ると、赤い液体が幾筋か流れていた。


 もう一度肩を揺する。繰り返し揺する。繰り返し、繰り返し。

 ジャックの顔は一切動かずに、その頬に水滴が当たった。


 水滴は二つ。熱いものと、冷たいものと。


 瞳から涙の筋を顎に結んだリアが見上げると、黒い雲が空を覆っている。

 周囲に水が落ちる。初めは少しずつ、すぐにそれは大雨となった。


 冷たい雨がリアの体を濡らす。

 ジャックの体も濡らす。雨に濡れれば体力が奪われる。リアには水滴の一つ一つが死神のように思えた。


 リアがジャックを背負おうとして、体を持ち上げる、ことはできなかった。

 血を失いすぎたリアには、男の体は重すぎる。


 剣を握ったままの右手にリアが触れて、ぞっとする。死体のように冷たい。

 雨から守るように、リアがジャックの背中を覆いかぶさった。

 意外と小さなジャックの背中には、生きているものの熱さを感じなかった。


「……っ」


 掠れた息が、かすかに高い音をともなう。それは、声の出ないリアの叫びだった。

 そして、足音が近づき、止まる。


「竜は去って、火事も止まり、中心地には死にかけ二人」


 リアが顔をあげる。


 旅慣れた靴に加護の刻まれた脚甲、腰に吊られる宝石の散らばる鞘に、収まった剣の柄が伸びる。

 黒染めの衣類の上からは白い外套。


 赤橙色の髪を後ろで縛る、若い女性が立っていた。


「さてさて、何があったのでしょうか」


 豹のように好戦的な瞳が、二人を見下ろした。


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