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   3話 ノケモノ(前編)


 赤い色。炎の色。

 一帯の森は燃えて、空に昇っていく風が笛のように低いかすれた音を鳴らしていた。


 リアの意識は霞んでいる。


 乗客たちに置いていかれ、煙を吸い込み、何より左足の傷が彼女の体力を奪っていた。

 体が瓦礫に挟まれて見えないが、木片の突き刺さった足からは赤い血が流れ続けている。


 失血で白くなった頬が、炎の赤に染められる。

 虚ろな瞳に、その赤い光源を揺らしていた。


 ぐちゅぐちゅと、柔らかな果実を潰すような水音。

 リアの背後で、竜が咀嚼する音だった。


 やがて音が止まる。


 竜の重い足音が、リアのうつ伏せた腹部を震わした。


「【捨て置かれたか、憐れな娘よ】」


 人とは違う言語なのに、言っている意味だけははっきりと分かった。

 音の高低の違う複数の笛を奏でるような、いくつもの音が混ざった不思議な声だった。


「【当然の理屈だな。弱きモノは食われ、より強きモノの糧となる】」


 竜が前肢を振るった。


 リアが、背中を押していた客車の残骸ごと吹き飛ばされた。

 力の入らない体が地面に叩き付けられ、無残に転がる。

 喰うに邪魔なゴミをどかした竜が、わらう。


「【良質の夢に惹かれて降りたが、分不相応に無力なモノの抱くものだったな】」


 朦朧とした意識のリアの視界に、ぼやけた竜の黒い影が、炎を背景に映った。

 逃げ出す気力も湧かない。血を失いすぎた体は、意識を保っていることが奇跡といえるほどに生命力が希薄だ。

 体が動かないまま、ただ何となく音のする方に目を向けているだけ。


 熱く、赤い。


 赤い背景に、黒い影がリアを見下ろしている。


 リアの体に力は入らず、ただそれを見ているだけ。

 またか、とリアが声に出さずに呟いた。


 それは彼女がよく見ていた光景に、とても似ているものだった。




 * *




 幼いリアが殴り飛ばされる。


 王都の整備された石の道が、リアの体を強く打った。

 肺の空気が物理的に抜かれて、その苦しさに咳き込む。

 胸を押さえる右手は、垢と泥と血で鱗のような層を作っていた。


「汚ねえガキが、よりによってうちの店から盗みやがって!」


 苛立ち気に吐き捨てた男が、勢いをつけてリアを蹴りつける。


 浅い路地裏は王都の大通りを行く人からよく見えるが、リアを助けようとする者は誰もいない。

 蔑む瞳を向けるか、初めから興味がないか。


 男は駄々をこねる子供のように、体を丸めるリアを何度も踏みつける。

 踏まれた顔が地面に押し付けられ、砂の入った口でさらに地面を舐めさせる。

 切れた口の端と鼻からは血が流れ、唾液や胃液と混ざって少女の顔に醜い化粧をした。


「お前みたいなゴミのために! わざわざ運んできた品じゃ! ねえんだよ!」


 男の怒りと理屈は、正当ではあった。

 王都で成り上がりを目指す商人は多く、その多くは夢破れて去っていく。

 リアのような孤児に品物を盗まれる余裕もなく、また近くをうろつかれるだけでも彼には大損害だった。


「いいか、二度と俺の前に顔を見せるんじゃねえぞ」


 髪の毛を掴まれて顔を上げさせられたリアの瞳は、すでに目を打ったせいで焦点が合わない。

 王都の燃えるように赤い夕焼け空と、それを逆光にした男の黒い影が、ぼんやりと輪郭を作る。


 リアの赤毛を掴んでいた男が、そのまま最後にリアの腹部を蹴りつけた。


 投げ捨てられたリアが、胃に入っていたわずかな内容物を吐き出す。

 男から盗んだ、一房のラカ葡萄だった。

 吐き出した胃液を滴らせる果肉を慌てて拾い、飲み込むリア。

 男はその様子を侮蔑の瞳で睨み、やがて去って行った。


 リアもふらつく足で立ち上がり、すぐに路地裏の奥へと歩き出す。

 そのままでいたら、社会的な弱者を虐待することが趣味の連中に見つかってしまうからだった。


 殴られた瞳はぼやけたまま。体は動かさなくても痛み、動かすともっと痛んだ。

 血の味は慣れすぎてほとんど分からない。胃液の酸味を味わうことで、なんとか気絶せずに済んでいた。


 見上げると、路地に縁どられた細長い空が、夕と夜の間の紫色をしている。

 夜は闇にまぎれて悪さをする連中が出歩く時間だ。リアには襲われる価値もないが、暇を潰すように暴力を振るわれることがあるので遭遇は避けなければいけない。


 路地裏を這うように進んで、下水道の近くにたどり着いた時にはすでに空に星が輝いていた。


 下水の方からは思わず吐き出しそうな悪臭がするが、リアはもう慣れている。

 もうずいぶん長い間、そこをねぐらにしていたからだ。


 孤児や浮浪者にも力による上下関係があり、幼く声も出せないリアに条件の良い寝床など得られるはずもなかった。

 身を守る術を持たないがために、誰も近寄ろうとしない下水近くに隠れるように暮らすのが、精一杯の生きる方法だった。


 いつか手に入れた宝物の毛布にくるまる。横になると息の漏れるような咳が出た。

 不衛生の極みといったところに居座っているために、慢性的に肺が悪い。常に熱っぽく、それゆえに体にあまり力も入らなかった。


 それでも、リアが今日を安全に生きるためにはそこに隠れるしかなかった。


 うとうとと睡魔に襲われたリアに、甲高い鳴き声が聞こえた。

 慌ててリアは立ち上がり、毛布を周囲に振るう。


 月夜の明かりから逃げるように、何匹もの鼠の影と声が下水道へ帰っていった。


 リアが餌になる日が待ちきれないと、鼠達はリアを噛もうと寄ってくる。噛まれるた場所は腫れて痛み、高い確率で高熱がでるために、リアは寝ずに警戒をしなければいけない。


 リアが罵声の代わりに舌打ちする。


 一度捕まえて鼠を食べたときは、下痢と嘔吐が止まらず、意識も混濁して死にかけた。

 何の役にも立たない小さな生物は、どんな柵や罠をしかけてもすり抜けてリアを襲ってくる。悪魔のような小動物だった。


 リアは痛む体を動かして、空を見上げた。

 少し雲のかかる空は、それでも星々の光を輝かせていた。

 その星を眺めることでリアは正気を保っていた。


 それはリアの古い古い記憶。


 一緒に星を見てくれた、父の面影を思い出す。

 王都を目指す旅の途中、頼もしい父の腕に包まれて見上げた空と、同じ空だ。


 リアは父親のことをはっきりと覚えていない。

 仕事を探して王都に来た父は、志願兵となり一年もたたずに遠くの戦争で死んだ。


 戦死による弔慰金は、喋れないリアの知らぬ間に手続き料として全てどこかに消え、借りていたアパートも払っていた家賃を消化する前に追い出された。

 身寄りのなくなったリアは、しゃべれないことを利用され、父親の残した全てを奪われた。


 孤児となってからも、話すことができず手際の悪いリアは路地裏から排斥されたのけ者だった。

 仕事のできないリアは、盗みも下手でよく見つかる。残飯を勝ち取る腕力もなく、路地裏の住民でも食べないような虫や草で飢えをしのぐしかなかった。


 いつも通りの日々。いつも通りの惨めさ。いつも通りの絶望。


 いつも通りでなかったのは、誰も寄り付かないはずの場所に響く靴音。


「こんにちは」


 毛先だけが黒い、白髪の女性がリアに微笑んでいた。




 * *




 青いローブが闇に溶かし、白い髪を夜に浮かばせる女性の姿は、どこか人間離れしていた。

 幽霊みたいだ、とリアが思う。


「いやあ、探したんだよ。こんなところにいたんだね」


 優しげで愛想の良い声だった。

 その愛想の良さに反するように、月夜を背に立つ女性は顔立ちまでもが幻想的。


 リアはただ呆然とその女性を見ていた。

 他人から怒声以外の声をかけられることがずいぶん久しぶりだ。


「私のこと覚えているかな」


 女性が言った。

 一目見れば忘れないその特徴的な風貌に、リアは見覚えがあった。

 頷くリアに、女性は嬉しそうに微笑んだ。


「良かった。昨日は語りを聞いてくれてありがとうね」


 女性は旅の語り部であった。

 昨日、王都の路上で語りを行っていた時に、路地裏からそれを眺めていたら目が合ったことをリアが思い出す。

 リアからすれば、それだけの話。何故、この語り部が今目の前にいるかは謎だった。


「あの後、すぐに話しかけようとしたんだけど思いのほか賑わってしまってね。気づいたら君は消えているんだからずいぶん探しまわったよ」


 語り部が笑うが、リアは少し警戒するような視線を向けていた。

 もしかしたら、奴隷商人と繋がりがあるのかもしれない。


「ああ、そうだ、用件を言わないとね。とりあえずこれをあげよう」


 語り部はリアの前にしゃがみこんだ。青色の上等なローブが汚水に触れるが、気にした様子もない。

 語り部が鞄から取り出したのは、水筒とリンミン林檎だった。

 リアが戸惑った顔を向ける。


「前金みたいなものさ」 語り部は肩をすくめてみせた。「君の話を聞かせてくれないか?」


 リアは悲しそうに顔を伏せた。

 彼女には声が出せない。話を聞かせようがない。

 語り部はリアを不思議そうに尋ねた。


「嫌なの?」


 リアは首を振る。

 それから顔を上げて、口を開いた。

 息が漏れて、嗚咽のような汚い音が小さく喉から漏れた。


「ああ、なるほど。喋れないのか」


 ようやく合点がいった語り部が、頷いた。

 リアは申し訳無さそうな表情をして、水筒と果実を掴む手を語り部に差し出す。

 その手を無視して、語り部はリアに尋ねた。


「君は今の生活が好きか?」


 愚問だった。


 リアは質問の意味を理解するのに少しだけ時間がかかり、それから泣き出しそうになりながら首を横に振った。


 それを聞いて語り部は微笑み、差し出された手を掴んでリアの方に押し戻した。

 リアは自分の汚れた手を掴む語り部に驚き、それから何年ぶりに人の掌の感覚を思い出す。


「水、飲んで」


 語り部が命令した。


「こぼしちゃうから」


 意味はよく分からなかったが、喉が乾いていたリアが水筒に口をつけて、一気に飲み干した。

 人間らしい飲み物は久しぶりで、美味しさに涙が滲んだ。


「何か大事なものはある?」


 語り部が端的に尋ねた。

 質問の意味を考えて、リアが羽織っていた毛布を握り、少し躊躇ってから語り部に差し出した。


「いや、いらないよ。その毛布が大事なのね。他にはある?」


 再び問われて、リアが首を振って否定した。


「よし、じゃあ行くよ」


 首を傾けたリアの手を取って、語り部が強引にリアを背負った。


「こら、暴れるな。というか、力弱いね。ああ、もうちゃんと首に手を回してよ」


 語り部が力強くリアの腿を保持するので、リアが抵抗してもただ姿勢が不安定になるだけだった。


「とって食べはしないし、奴隷商に売ったりもしないから。ほら、ちゃんと手を回して」


 リアが気にするのはそこではなく、語り部の綺麗なローブが自分のせいで汚れてしまうことだったが、それを伝える術はなかった。

 何度も急かされるので、諦めて語り部の背中に体を預ける。


「そうそう。ちゃんと毛布は握ってなね。しかし軽いな、君」


 リアを背負った語り部が歩きだす。

 人の温もりが、リアにはくすぐったくて落ち着かない。


 強引にリアを連れ去る語り部は、夜の王都をずいぶん歩いた。

 緊張していたリアも、やがてうとうとと瞼を重くさせた頃に、ようやく語り部が立ち止まる。


 そこは、教会だった。

 ひし形に内接する楕円を掲げる、有輪派の天神教会。


 立派な建物に気後れするリアを気にせずに、語り部がドアを遠慮無く叩いた。


「おーい、強欲神父! いるんだろ!」


 聖職者に向けるとは思えない乱暴な言葉がその後もしばらく叫ばれて、やがてドアの向こうで物音がした。

 扉が小さく開き、寝間着姿の男が、迷惑だと言わんばかりに不機嫌そうな顔を覗かせた。


「こんな夜更けになんだ」

「お風呂あったよね、沸かして。それと服と寝床も」


 ぐい、と扉を強引に開けた語り部が男の横を抜けて中に入る。


「あれは浸礼用で、しかも何だその臭いガキは」

「いいから。使い込みバラされたいの?」


 言葉に詰まり、ため息を吐きながら男が奥に戻っていく。何人かの人間を起こして、湯や着替えを準備させる声が礼拝堂にも聞こえた。

 状況が分からないリアが語り部の襟を掴む。


「ああ、語り部をやってると色々弱みを握ることも多くてね」


 礼拝堂の長椅子にリアを下ろして語り部が笑う。


「後でいくらか金も渡すから、邪険には扱われないはず。下水横よりはまともに生活できると思うよ」


 リアは首をひねってしばらく考えてから、おずおずと指を下に向けた。

 語り部は明るく頷く。


「そう。ここでお世話になるの。あれで金以外には悪い神父ではないから、安心して」


 急過ぎる話だった。

 リアの混乱した表情を無視して、語り部は条件を告げる。


「ここでは写本の仕事があるからね。働きながら文字を覚えるんだ。文字を覚えたら、文字を知っている人には自分の意志を伝えられる。それができるようになって、また私と会う日が来たら、その時に今日聞きそびれたことを教えてもらうよ」


 そうしてリアは教会に受け入れられ、修道女となった。


 青いローブの語り部とは、それ以来会っていない。




 * *




 懐かしいな、とリアは力の入らない体で薄く微笑んだ。


 霞む目に映る竜の姿はおぼろげだけれど、その威圧感はリアの体に本能的な恐怖を与える。

 それでもリアの心が穏やかなのは、諦めと、昔の記憶があったからだった。


 孤児となり、誰からも蔑まれていたあの頃。

 本当ならばあの時に死んでいてもおかしくはなかった。青いローブの語り部に会わなければ、事実死んでいただろう。


 無愛想で金に汚いけれど、自分を受け入れてくれた神父のもとで修道女になって、三年近く。

 それは神様にもらったプレゼントのようなものだった。


 だから死ぬことを受け入れられる。


「【竜は人の肉を喰らうのではない】」


 たくさんの音の交じる不思議な声が、竜の言葉を紡いだ。


「【それぞれの■■■■を喰らうのだ】」


 自然と人の言葉として理解できる竜の言語が、単語として理解できない言葉を紡ぐ。


 リアは、どうして自分を食べないのかと竜の方に顔を向ける。

 竜はその疑念に応えるように更に言葉を紡いだ。


「【我は夢を喰らう竜。お前の消えかけている精神は、お前の抱いた夢を忘れている。それを思い出せ】」


 【思い出せ】と竜が繰り返す。

 人の上位種による恫喝に、リアは抵抗できずに過去を想起する。


 それは教会での生活。


 それはぶっきらぼうな神父と、彼に影響された明け透けな子供達なかま。それは文字を根気よく教えてくれた修道女。それは教会の仕事の手伝い。


 それは礼拝する人の観察。


 それは信仰。それは戦争から帰ってくることを願う祈り。それは逝ってしまった大切な人を弔う祈り。


 その日々は、教会の家族の暖かさと、たくさんの悲しみに触れる日々だった。


 大陸で一番戦争から遠い王都のはずなのに、教会は戦争にとても近かった。

 貴族も市民も関係なく沢山の人が気を病ませ、たくさんの人が悲しんだ。

 遺族の嗚咽が聞こえない日など無かった。


 リアの父親も、教会に引き取られていた子供達の親も、そのほとんどが戦争に殺されていた。


「【そうだ。お前はそこで、一つの現実を知ったはずだ】」


 学のないリアには戦争がなぜ起こるのかなんて分からない。

 分かるのは、戦争に傷つく人が多くいて、戦争に喜んでいた人は誰もいなかったということだ。


 あってはいけないものだ。



 なら、無い方がいい。



 リアの消えかけていた意識が、はっきりと思い出した。

 教会で暮らす日々の中で、何を願ったのかを。

 何を夢見たのかを。


「【戦争の根絶】」


 竜が呟いた。


「【それがお前の夢か。いい夢だ】」


 竜が口を開き、リアに近づける。

 すでに食していた何人かの血で赤く濡れ、衣服の切れ端が牙に引っかかっていた。


 ここで死ぬのか、とリアが微笑む、ことができなかった。

 思い出してしまった夢は、まだ少しも叶えられていない。

 死にたくない、と心が叫んでいた。


 竜の吐息が、風となってリアを撫でる。

 先に食べた人間の臓腑の臭いがして、まるで死の臭いだとリアは目を閉じる。


「さて、どこまでやれるかな」


 竜の口内に剣を突き刺したジャックが、疲れた声でそう言った。


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