2話 愚者の位置(後編)
「……!」
リアが大きく伸びをして起き上がった。
すでに青く明るい空が眩しく、一気に目が覚める。
「よく寝れた?」
その横でジャックが言った。
すでに装備を身につけて、焚き木の方を向いて座り体を温めていた。
リアは微笑み、リスのように小刻みな動きで三度頷く。
「おはようリアちゃん」
木椀を二つ持ったネリアが、リアの後ろで声をかけた。
「よく寝れた?」
二度目の質問にも、リアが笑顔で頷く。
「もうご飯配ってるから取っておいで」
ネリアの言葉にリアがお腹を押さえた。
昨夜は食事中に気づいたら寝ていて、ずいぶん空腹だった。
嬉しそうにリアは立ち上がると、自分の椀を持って配給所にとことこと走りだした。
朝支度をしている、あるいは終えているグループの横を通って、大きな鍋を熱している焚き火に向かう。
配給所には先客が何人かいて、その一番後ろにリアは並んだ。
待ちながら息を吸い込むと、芋や野菜の煮える匂いがして期待にリアの顔が綻ぶ。
「はーい、お兄さんありがとう」
リアの前で黄色いケープの可愛い少女が明るい声で礼を言った。
少女は後ろを向くとにっこり笑ってリアに場所を譲った。
リアも頭を下げて、それから配給をする男に椀を差し出した。
「あいよ。お嬢ちゃんは好きな具材はあるかい?」
男の質問に、リアは困った顔で固まる。
声の出ないリアには答えようがなかった。
配給係の男は言葉に詰まる修道服の少女を不思議そうに見つめる。
「お? どうかしたのかい?」
「お兄さん、質問が悪いよ」
男の戸惑った顔に、黄色いケープをした少女が声をかけた。
驚いた顔を向けるリアに少女が語りかける。
「ねえ、君はミコヤ芋、サイエ人参、ロヒ葱、ノーユの燻製肉、の中でどれが好きかな」
少女は右手の指を一本ずつ立てながらリアに質問する。
リアは嬉しそうに少女の中指を指さした。
「サイエ人参が好きなの?」
頷くリアに、少女はへえと声をもらした。
「変わってるねえ、こんな癖のある野菜。あ、お兄さん、この子サイエ人参が好きだってさ」
「あいよ。そうか、嬢ちゃん喋れないのか、悪いことしたな。ちょっと大盛りにしてあげよう」
男は普通よりも多めにスープをついで、それからサイエ人参を見繕って追加した。
「ほら、熱いから気をつけな」
真剣な顔でリアが頷き、ジャック達の下に戻ろうとすると少女が呼び止めた。
「ぼくのもあげるよ、実は苦手なんだ」
少女はそう言うと、匙でサイエ人参をリアの椀へと移した。
人参の赤橙色でスープが満たされる。
リアが頭を下げると少女が笑った。
「ぼくもありがたいから良いよ。それじゃ気をつけてね」
手を振って少女が去り、リアもジャック達のもとへ戻った。
多めに入った椀をこぼさないように慎重に座ると、椀を一度置いて、お祈りを始める。
先に食べていたジャックと、リアを待っていたネリアがその様子をみて同時に呟く。
「ずいぶんサイエ人参が多いね」
お祈りを終えたリアは、嬉しそうにサイエ人参を口に運んだ。
* *
山を越える道中、最初に気づいたのはネリアだった。
がたがたと揺れる地竜車の音に隠れて、亜人の耳でも微かにしか聞こえない低い音がする。
客車に座っている護衛の冒険者は気づいていないようだ。
「ネリア、どうかした?」
先ほどまで目を瞑っていたはずのジャックが、ネリアを見ていた。
ネリアの貸し与えた本を読んでいたリアも顔を上げる。
「何か……音がする」
ジャックが即座に立ち上がり、窓から顔を出した。地竜車の走る速度で視界が流れていく。
山道は峠を超えていて、下り道となっている。
音は特に感じられないと思っていると、ようやく低い音がジャックの耳に拾われる。
不気味な音源を探していると、地竜車に陰が落ちた。
「上だわ!」
ネリアが叫び、ジャックが言われた通りに見上げた。
地竜車と同じく、すでに下り道を行く太陽。それを背に黒い影が飛んでいるのをジャックは視認した。
「これは、洒落にならないんじゃないか?」
ジャックが苦笑いして呟く。
黒い影はだんだん姿を大きくして、地鳴りのような音もすでにはっきりと耳に届いている。
ジャックの背後で、聞きなれぬ音に乗客がざわつき出す。
「護衛、上だ! ネリア、魔力石を使って対魔障壁!」
ジャックの叫びに、御者の横と客車の上に控えていた護衛の冒険者が空を見上げ、ようやく気づく。
ネリアも魔力を生成しつつ窓から見を乗り出した。
太陽を背にした影はついにはっきりと輪郭を露わにして太陽を完全に隠す。それを見たものが絶望を抱く。
「竜……?」
ネリアの呟きに応えるように、竜の影の前で太陽とは別の光が星のように輝いた。
「全員伏せろ! ネリア!」
ジャックの言葉に、ネリアが溜め込んだ魔力と魔力石の魔力を使って、上空に魔術を紡ぐ。幾何模様に描かれた魔術式がネリアの魔力を変換していく。
輝く光が大きさを増して、赤黒い炎の塊という正体をネリアが認識した。
ほぼ同時に障壁に着弾。
太陽に比する光が先んじて、
衝撃が地竜車を襲った。
安い客車が壁を崩壊させながら横転。
音の波濤に悲鳴が掻き消えて、障壁によって逃された熱が周囲の木々を燃やした。
地竜は身を縮こまらせて伏せる。
地面に振り落とされた護衛の冒険者は姿勢を整えて上を見上げる。
ネリアを抱えていたジャックが、耳元で叫ぶ。
「次、来るぞ! 防げ!」
「やるけど、魔力が足りない!」
ネリアが悲痛に叫び、急な魔力生成と経絡過流の激痛に耐える。
貴重な魔力石は先ほど消費し尽くしてただの石になっている。炎弾は、生命力から生成する分の魔力ではとても防げる威力ではなかった。
「ジャック!」
轟音による耳鳴りでほとんど機能しないジャックの耳に、その甲高い声がぎりぎり届いた。
振り向いて、顔の前を払う。硬い感触に右手を見ると、紫色の魔力石が握られていた。
声のした方では黄色いケープの少女が、トビ鼠と呼ばれていた男に支えられて右手を前に伸ばしている。
不敵な表情を保とうとしているが、焦りを隠せてはいなかった。
「ネリア、使え!」
差し出された紫の魔力石を奪うように取ると、ネリアが足りなかった魔力を障壁に注ぎ込む。
初弾に数秒遅れて、次弾が障壁に着弾した。
* *
「安全なルートじゃなかったのか!?」
「竜なんて想定外だ! ちくちょう、なんでこんなところに!」
様々な口が、惨状を呪う。
森の燃えるごうごうという音と、肌を焼く熱が混乱をさらに誘発した。
リアはようやく目を覚ます。
熱さと、酷い喧騒と、背中を圧す重さ、そして左足に痛みを感じた。
「護衛はどうした! 三人もいたはずだ!」
「あんな中級が役に立つか! いいから逃げろ」
叫ぶ声だけが聞こえる。
うつ伏せに近い姿勢のリアに見えるのは、燃える枝葉を散らす森と、地面に転がった客車の残骸。
起き上がろうとするが、背中にかかる力がそれを許さない。力を入れた拍子に、左足が激しく痛む。
かすれた息が悲鳴のように吐き出された。
首を回すと、背中に材木がのしかかっているのが見えた。客車の一部だろう、とてもリアの体力で持ち上げられる重さではない。
左足は見えないけれど、鼓動に合わせて激痛がしてきた。
試しに思い切り腕に力をいれても体は持ち上がらない。
飛び交う声だけがずっと聞こえていた。
「おい、どうするんだよ!?」
「逃げろって! ここにいたら絶対に助からないぞ!」
「怪我人もできるだけ拾ってやれよ!」
リアの前に靴が止まる。
見上げると、一人の男がリアを見下ろしていた。
今朝、サイエ人参を多くついだ配給係の男だった。
リアが声もなく口を動かして助けを求めると、男は微笑んで頷いた。
それから、人声の集まっている方を向いて叫ぶ。
「大丈夫だ! ここには誰も居ない!」
本当に誰もいないかのように、男の瞳は冷静だった。
罪悪感も何もない。
置いていくのが当たり前のように。
立ち去ろうとした男の裾をリアが慌てて掴んだ。
男がリアの存在に初めて気づいたかのように振り向く。
そして、リアの手を葉巻の吸い殻のように踏みつけた。
「おしなんぞをな! 助ける余裕はねえんだよ!」
汚物を見るような嫌悪感に満ちた表情で、男が吐き捨てる。その顔に重なるように、笑顔でスープをよそっていた男の顔をリアが幻視する。
リアの手を虫を踏み殺すように地面に擦りつけてから、男が走って行く。
踏み潰された右手は、痛いという以外の感覚がなくなって、満足に動かない。
滲んだ涙が、炎の熱で蒸発していく。
煙を吸い込んだ喉が、嗚咽を吐き出した。
* *
ネリアが目を覚ます。
初めに感じたのは、全身の魔力経絡の発する痛みだった。
限界を超えた魔術は身を傷つける。まして、魔力石を使って魔力を水増ししたのだ。
特に、ジャックから渡された紫の魔力石に保有された魔力は桁外れに多く、お椀に水を注ぐのに鍋をぶち撒けたような負担が魔力経絡にかかった。
「無理だな、これは」
声に右を向くと、ジャックの顔が下からの視点で見えた。
ネリアは自分が仰向けになっていたことに気づく。
「無理?」
「気づいたか」
掠れたネリアの声に、ジャックが荒んだ目のまま応じた。
「無理って、何が?」
「この状況、無事で済ませるのがさ」
ジャックの視線の先には、一頭の竜が何かを咀嚼していた。
口からもれるのは誰かの足。生きているのか、生理的な反応なのか、一度大きく痙攣をした。
ネリアはその様子を見て、全身に寒気が走った。
竜を爬虫類に例える者がいるが、現実を知らないのだと文句を言いたかった。
鱗に覆われた体表や、細長い瞳孔の瞳、蜥蜴に似た頭部は確かに爬虫類に見えるかもしれない。
けれど、これを見間違えるものがいるか。
数階建ての建物のような体の大きさ、ではない。もちろん翼でもない。人の上位種だということを雰囲気の圧力だけで知らせる生物が、竜の他にいるのかと問いただしたかった。
見ただけで身がすくみ、心臓が早鐘のように暴走する。
「これはもう、命を守れたら上出来だ」
ジャックはそう言うと、燃える森の中へと走り出していった。
突然のことにネリアはそれを黙って見送ることしかできない。
「あいつ、ぼく達を囮にする気だな」
反対側からの聞きなれぬ少女の声の方を向くと、黄色いケープを焦がした少女が立っていた。
地竜車に乗っていた少女だ、とネリアが思い出す。
「魔術士さん、立てるかい?」
少女に言われてネリアが起き上がろうとするが、力が入らない。魔力生成のために生命力を使いすぎた弊害だった。
その様子をみて、少女がため息を吐く。
「トビ鼠、魔術士さんをかかえて」
少女が言うと、後ろに控えていた男がネリアを持ち上げて背負った。
細い体だが見た目以上に力が強い。
「逃げるよ」
少女が駆け出し、男が並走した。
燃える森の熱が肌を焼いて、ネリアが煙を吸って呼吸が苦しくなる。
少女と男は何故か平気そうだった。煙の方が二人を避けている。防煙の加護付きの装備をしているのだろう。
「魔術士さん、呼吸は抑えたほうがいいよ」
咳き込むネリアに少女が忠告した。
ネリアは手で口を覆いながら少女にたずねる。
「それより囮って?」
「生き残った人間の大半はこの山道を下っているからね。竜が次の獲物を追うのならこっちに来るのが当然だ。森の中に逃げれば、炎に巻かれることはあっても、竜に食われることはない。
もっとも……」
走る少女の視界の隅に、倒れた人間の姿がいくつか見えた。
煙を吸いすぎて意識を失った者達だった。
「こっちはこっちで、囮が転がっててくれるけどね」
助けられないのか、という言葉をネリアは飲み込んだ。
少女と男は、本来助ける必要のない自分を助けている。魔力が尽き、体も動かない者がそんなことを言うのは分不相応だろう。
けれど、不相応と分かっていても言わなければいけないことがあった。
「ねえ!」 煙を吸い込むのを覚悟して、ネリアが叫ぶ。「赤毛で修道服の女の子を見ていない!?」
少女は答えずにしばらく走った。
何か気分を害すことを言ってしまったか、とネリアが心配するが、杞憂だった。
新たに地面に倒れていた男を避けたところで、少女が口を開いたからだ。
ただし、それは悪い知らせのためだった。
「今の男が、一番最初に逃げ出した奴だ。地面に倒れていた人間は全員確認しているけど、あの少女はいなかった」
「それって……!」
逃げおおせた、と考えられるようなおめでたい思考をすることはできない。
すでに食われたか、まだあの場所に残されているのか。
生きては戻れない。その結論がネリアの頭に浮かぶ。
「見つけたら拾ってあげるつもりだったけど、今更どうしようもない」
少女が前を見つめたまま言った。
「あの子は、諦めた方がいい」
現実を知る者の、冷たく乾いた声だった。