1話 夢は遠きが故に(後編)
最後に手甲を嵌めて、ジャックの支度が終わった。
「リア、置いてくよ」
足を鳴らしながら、リアの着替える動作がさらに慌てる。
せっかく履いた靴が反対で履き直したりと、無駄の多い動きにジャックが呆れたように息を吐く。
カーテンを開くと朝日が都市壁の上に顔を出していた。窓から大路を見下ろすと、働きに出る人々がすでに行き交っていた。
貿易商人といった姿の者が多い。中級都市であるセルクドはこの辺りの貿易中継点となっているからだろう。
近づく足音にジャックが振り向く。準備を終え、彼の方に手を伸ばしていたリアがびくりと驚いた。
「準備出来たら行くよ」
部屋を出て行くジャックをリアが追いかけた。
すでに人の声が届く廊下を歩いて、階段を下ると宿に併設された食堂が賑わっていた。
宿に泊まるような人間、商人や巡礼牧師が多い。
「ジャック様」
声をかけようとした宿の受付に先に声をかけられて、ジャックが面食らう。
「何かな」
「お客様がおられます。ネリア様と名乗られましたが」
「あ、本当? どこにいるかな」
「あちらの席の女性です」
受付がそろえた指先を向ける方、食堂の隅に金髪の女性が座っていた。
「ありがとう」
この辺の安い飯屋を聞きそびれたな、と思いながら二人はその席に向かう。
近づく足音に気づいて、女性が顔を上げる。ジャックはその顔をじっと見た。
「ネリア・フォスターさんかな?」
「そうだけど、それじゃ君がジャック・フロットアップ?」
「そう。翌朝に訪れてくれるとは思わなかったな」
ジャックはネリアという女性の対面に座り、リアがおずおずと二人の間の椅子に座った。
互いに黙ったまま観察しあう。
ネリアは魔術的装飾を凝らした衣装だった。青を基調とした生地に、黒と白の文様が刺繍された衣服は、彼女が魔術士だと言葉よりも雄弁に語る。
長い金髪の上に衣服と同じような布でできた頭巾を被るネリアは、ジャックよりも何歳か年上のような顔つきだった。
深い紺色の瞳から窺えるのは、値踏みしようとする意思。
それはジャックの灰褐色の瞳も同様だった。
「聞いてはいたけど、本当に若いのね」
ネリアが探るように話を切り出した。
「老けようとしてできるものじゃないからね」
「シズマを赤子扱いだったらしいじゃない。実力は疑っていない」
「シズマ?」
「でっかい男」
ああ、とジャックが頷いた。昨日、ギルドの前で絡まれた相手だろう。
うんざりした声でネリアが続けた。
「強いのは認めるけど、変にプライドが高くてね。何人も再起不能にしていたから誰も煙たがっていたよ」
「本題に入ろうか」
少し気のゆるんだネリアの隙をつくように、ジャックが鋭く言った。
ネリアは難しい顔をして唸る。
「いや、条件は凄く良い。三等階級の私には願ってもない報酬。
依頼期間中の生活費はそちらが持ってくれて、二等冒険者の君もいる」
そこまでなら確かに破格の好条件だった。
だからこそネリアは躊躇していた。
「これだけ条件の良い依頼の、その内容が不明なんだ。即決はできない」
「それは困るな。即決してくれることに対しての報酬額でもあるんだ」
「そんなに急ぐことなの?」
「それは言えない」
息を吐き出してネリアが背もたれに体重を預けた。
「どちらにせよ、今日は先に受けた依頼がある。返事はその後でいい?」
「それ以上は待てないけど」
「明日以降に受けた依頼はないから大丈夫」
今日の夜までには返事をしに来る。そう言い残してネリアは去っていった。
遅れて、あるいはタイミングを図っていたのか食堂の給仕が現れてジャックとリアに注文を尋ねた。
定番と思われる定食を2つ頼んだジャックを、リアは不思議そうに見ていた。
「さっきのネリアのことかい?」
ジャックの質問に、リアは大きく頷いて返した。
「彼女はね、リアの依頼を叶えるためには必要な人物なんだ。良い返事を聞けるといいね」
詳しい理由を答えないジャックに、リアがさらに首をひねった。
* *
怪しすぎる、とネリアが呟いた。
冒険者ギルドが身元を保証しているのだから、その辺りに疑いはあまりないが、それにしても怪しすぎた。
三等階級への報酬としては破格、ネリアなら一年近くは働かなければ得られない額だ。
そしてひた隠しにされた依頼内容。
「っていうか、隣の子は誰だったんだろう」
聞くタイミングがなかったな、とネリアが後悔する。
場慣れしていなさそうなあちらから情報を得ようとするのが当然の一手だったのに、意識の隙間をつかれたような本題の入り方に動揺して聞く余裕がなかった。
ネリアの足が止まる。
周囲は木々が鬱蒼と茂る。セルクドから北東の方角に位置する森だった。
軽度の魔界になるように管理されたその森は、いくらかの魔物が出る代わりに貴重な薬草も手に入る。
ネリアが感じたのは前者の気配だった。左側の茂みががさがさと音を立てて動き、そちらを陽動として反対の右側の茂みから小鬼が飛び出した。
右へ顔を向けると、今度は先ほどの左から甲高い鳴き声と共に別の小鬼が飛び出してくる物音。
左右からの挟撃に対して、ネリアは紡いでいた魔術を展開。
ネリアの足元から波紋のように青白い円が広がり、四、五歩ほどの距離で静止する。
気にせずに突進するゴブリンの体が円の上を通過しようとした瞬間、空気を引き裂くような炸裂音と共に紫電が弾けた。
重なるような炸裂音は六つ。右から来ていた小鬼が四匹と、左からの二匹が悲鳴を上げて逃げ出す。
ゴブリンの表皮の焦げた悪臭が漂った。
無謀な襲撃だ。
基本的に小鬼は臆病さと残忍さを併せ持った魔物だ。
武器を持った男の冒険者を襲うことは滅多にないが、一人の女となると見境なく襲ってくる。
魔術士は見た目に強さが現れない。小鬼にとっては格好の獲物に見える。
確実でないことに踏み込むというのは小鬼のように愚かだろう。
「話は断ろう」
報酬がいくら魅力的でも、不確かすぎる。
ネリアはそう結論した。
森を進んでいくと、比較的手前で目的の薬草に咲く青い花を見つけた。
ダキオと呼ばれる一年草で、アサキの蜜とならんで霊薬の材料によく使われる薬草だ。
群生する植物であるので、青い花を見つければ依頼は終わったようなものだ。
ダキオの群の中から、まだ花を咲かせていない物を選んで摘み取る。ちぎった断面から溜め込んだ魔力を吐き出す前に魔術で封をする。
それをしないと数十秒でただの草切れになってしまうため、ダキオ集めは魔術士にしかできない。
魔術士の少ないセルクドでは、難度のわりに報酬の良い仕事だ。
頼まれていた量を摘み終わって、麻布に包む。
「これでよし」
立ち上がって、来た道を振り返ると遠くから足音が聞こえた。
念の為に魔力を生成して構えるネリアの視界に、姿を現したの数人の冒険者だった。
少なくとも魔物ではないとネリアの緊張が少し抜ける。
「こんにちは」
冒険者のマナーとして挨拶をして横を通りすぎようとすると、ネリアの前に冒険者達が立ち止まった。
見覚えのある顔はセルクドを拠点とする冒険者達だ。ネリアも立ち止まる。
「何か用でも?」
ネリアが尋ねると、冒険者の男は愛想よく笑った。
「いやあ、ちょうど良い所にいてくれてびっくりしたよ。ちょっと魔術士のお前に聞きたいことがあってさ」
「へえ、何?」
「これなんだけど」
「トミ鉱石? また珍しいものだね、これは」
ネリアが言い終わるより先に、冒険者の手が真上に跳ねてネリアの長い金髪を払っていた。
青い頭巾が宙に舞って、茂みに落ちる。
目を見開いたネリアが髪を押さえて、逃げるように後ずさった。
数秒の静寂、冒険者の男が口角を上げていた。
「見たぞ! 人の耳じゃない! こいつは本当に亜人だ!」
その宣言に、後ろの冒険者がそれぞれ武器を抜いた。
ネリアも混乱しながら急速に魔力を生成する。
「おいおい、魔術士風情が抵抗しようというのか!? 笑わせるな」
その言葉を、その言葉の主の存在を認識してネリアの顔が青ざめる。
ネリアの三倍はあろうかという太さの四肢に見合った巨大な体躯。人体の筋構造がありありと見て取れるほど筋肉を浮き立たせ、人を見下すことになれた笑み。
昨日、ジャックとやりあったというシズマだった。
街の冒険者として、戦闘だけなら上位に入る巨漢。
他に三等階級が二人に、四等階級が三人。六人がネリアを狙っていた。
「抵抗するなとは言わない」
最初に近付いた冒険者が言った。愛想の良い、何度も組んだこともある相手だった。
「亜人が捕まった末路を考えれば、逃げようとするのは当然だ。だが、」
抜かれた剣が向けられる。
「お前らは高く売れる。冒険者として、これを逃す手はない」
ネリアの日常が崩壊した。
* *
敵国の情報を得るために拷問され、奴隷として一生を過ごすか、潔く処刑されるか。
王国における亜人や獣人の扱いはそんなものだ。
だからこそ非人同盟へと亡命する。
「糞が、手間かけさせやがって」
シズマが苛立ち気に吐き捨てた。
ネリアを狙う冒険者達はすでに数を三人に減らしていた。四等階級が二人と三等階級が一人、致命傷かそれに近い傷を追って森のどこかに倒れている。
シズマや他の冒険者も無傷ではない。体のどこかを焦がし、あるいは凍結させていた。
それらをなした亜人の魔術師は、逃げ場のないように追い込まれていた。
背後には崖の壁、左右前方には冒険者達が油断なく立ち塞がっていた。
緊急用の魔力石を使用してなお、すでに魔力は枯渇している。
荒い呼吸や力のない瞳はネリアの酷い疲労を示していた。瞼が重く、思考も回らない。今寝たら気持ちいいんだろうな、と頭の隅で現実逃避が起こる。
深い傷は右肩だけ。浅い傷は、全身に浴びている。防刃の加護を込めていたはずの服を切り裂かれ、その下の柔らかい肌に赤い線がいくつも引かれていた。
「諦めるなら、早いほうがいい。今からでもな」
顔なじみの冒険者が、穏やかな声でそう言った。
それはせめてもの優しさだったのだろうか。
捕まって拷問や、死ぬより酷い奴隷生活が待つのなら、自害した方が良い。
ネリアの中には、それ用に残していたわずかな魔力があった。
「そうね」
ネリアが目を閉じた。
全身が痛み、無理矢理に魔力を生成した体は悪い風邪を引いた時のような気だるさと鈍い苦痛。
亜人だと知られた以上、ここを切り抜けたとしてもその先の展望はない。
「死ぬのは、怖いな……」
ネリアが呟く。
斬撃の魔術を首元に発動するだけで簡単に死ぬことができる。
「あ、こら、リア! 待て!」
新しい人の声がした。
慌てて目を開くと、ネリアの前に小柄な背中があった。
後ろをかばうように広げた両腕が、かすかに震えている。
「……!」
驚いているネリアを背にしたリアは、恐怖に泣き出しそうになりながら冒険者達を睨みつけた。
「勝手な行動をするなよ。あーあ、こんな正面に立っちゃって」
冒険者達の横を悠々と歩きながら、ジャックがうんざりしたように言った。
三人の冒険者は余計な闖入者を、立ったまま見送ることしかできない。
冒険者が自らの担当と自然に決めている範囲の間を歩くことで、お互いに相手の範囲と躊躇させることでできる移動だった。
その前に、荒事とは無縁そうな修道女が駆け抜けていった混乱も一因かもしれない。
戸惑うネリアの口から疑問がこぼれた。
「なん、で?」
「あんたが必要なんだ。だから助けにきた。なんとか間に合ってよかったよ」
ネリアをかばうリア、をかばうようにジャックが先頭に立った。
「さて、見たところ三等階級が、というか昨日のアンタが一番強い、程度の連中かな。良かった良かった」
剣を抜くどころか、柄に手もやらずにジャックが微笑む。
その態度が虚勢でないことを知るのはシズマだけだった。
「お前、いきなりしゃしゃり出て」
左側、四等階級だった剣士が意識を言葉に向けた瞬間に投剣が喉に刺さっていた。
膝横に仕込んでいたジャックの投剣が、気づいた時には投擲されていた。
頷いてジャックが歩く。遅れて、血を噴き出しながら男が倒れた。
そちらに意識をとられたシズマではない方の冒険者が、いつの間にか接近していたジャックに気づく。
「うわあああ」
慌てて追い払うように剣を横薙ぐが、慌てすぎている。当たる距離ではない。
振るわれた剣を追いかけるようにジャックの短剣が男の喉を裂いた。噴き出した血を避けるように、ジャックは背後に回る。
「さて、二人、と」
一瞬だけもがいていた男が力尽きて倒れ、自らの血を跳ねさせた。
シズマは黙ったまま、ジャックの方へ剣を向ける。
「どうする、まだやるかな?」
ジャックは短剣に付着した血を振り払いながらシズマに近づく。
「いや、やらねえ。勝てない勝負に挑むのは、自殺と変わらん」
お手上げだ、と両手を軽く上げてみせたシズマにジャックが微笑む。
「良い判断だね」
驚いたシズマの顔の下で、投剣が喉に刺さっていた。
同時にジャックが駆ける。シズマの横を抜けながら、喉の投剣を掴み、横に引き裂いた。
体格に比したような大量の血が噴き出して、シズマが倒れた。
「さて、リア、そろそろ吐くのは耐えれるようになった方がいいな」
ジャックが振り向く先で、リアが口元を抑えて下を向いていた。涙目をジャックに向けて頷く。
ネリアはその後ろで、目の前の光景を呆然と見ていた。
自らを追い詰めていた三人の冒険者が、ほんのわずかな時間で無残に死んでいる。
何も特別な動きではなかった。投剣を放ち、近づいて斬っただけ。
誰でもできる動きで、簡単には成せない結果だった。
同じ冒険者を容赦なく殺す手際も恐ろしい。
「れ、礼を言ったほうがいい?」
ネリアがひきつきながら言った。
今、この男がその気になれば自分など簡単に死ぬという恐怖があった。
対してジャックが軽い口調だった。
「礼はいらないけど、ここまでして話を断られたら骨折り損だ」
取り出した端切れで短剣と、回収した投剣を拭いながらジャックは言う。
「どのみち、今あんたには亜人の疑いがかかっているみたいだから、あの街にはいられないだろう?」
「わ、私は亜人じゃ……!」
「耳、見えてるんだけど」
誤魔化すネリアを切って捨てる。
ネリアは慌てて乱れた髪を押さえて、亜人の証拠である鋭角の耳を隠した。
「大丈夫。というか、むしろ都合が良すぎてびっくりしてる」
ジャックの言葉に、ネリアが訝しむ。
「どういう意味?」
「そこのリアから受けた依頼というのは、実は、非人同盟領のある街へ行くことだからさ」
* *
都市門を出てきたジャックを、リアとネリアが迎えた。
「届けてくれた?」
「事情は怪しまれたけどね。頼まれた、で押し通した」
ネリアが受けていた依頼、ダキオ草をギルドに渡したジャックが受け取った報酬をネリアに渡す。
「別に放棄すればいいのに」
「手に入るはずのものが届かなかったら困るから」
「真面目だねえ」
結局他の選択肢もなく、リアとジャックの依頼を受けたネリアがため息をつく。
その瞳は未練がましそうにセルクドの都市壁を見ていた。
「なんで亜人だとバレたのだか」
「もう契約したから言うけど、俺たちのせいというのもあるかもね」
街道を進みながらジャックが言った。
「君たちの?」
「女性で広い魔術に長けた二等階級以下って条件を出したら、ネリアしかいなくてね。外部から来た二等冒険者がたった一人を仲介してほしいって言ったら注目をあびるからね。人の目が集まれば、秘密だってバレてしまう。まあ、ちょっとは申し訳ない」
「ちょっとって、私、街にいられなくなったんだけど」
睨むネリアの視線に堪えずに、ジャックは平然と返す。
「確証はないよ。元から疑われてたかもしれないし」
そう言われると返せる言葉はない。
ネリアは小さく息を吐いて不満を捨てた。
「まあ、今更いいわ。それよりも本気なの?」
「何が?」
「西方戦線を越えるって。下手しなくても死ぬよ?」
ネリアが振り向くと、リアが力強く頷いた。
本当に分かっているのだろうか、とネリアは内心でため息をつく。
西方戦線は王国で最も死亡率の高い激戦区だ。こんな荒事を知らなそうな少女が越えようと思うものではない。
「俺も、何度も止めたんだけどねえ」
「だってこの子、言葉も喋れないのに」
遠慮のない指摘に、リアが顔を伏せた。
返す言葉が、少女には物理的に発せられない。
「私が亜人でも、ジャックが二等冒険者でも、それでも半分以上の確率であなた死ぬけど、それでも行くの?」
今度は真っ直ぐにネリアを見据えて、ゆっくりとリアが頷いた。
人の死体を見ただけで吐きそうになる少女とは思えない、強い瞳だった。
そんな強い瞳は、ネリアには持てない。状況に流されるように生きて冒険者になったネリアには、備わっていない意思の強さだった。
「なんでそこまで?」
ネリアの疑問に、リアは懐から金属の棒を出して、地面を削った。
修道院での写本の経験が活きた綺麗な字の意味を、ネリアは思い出すのに少しの時間を必要とした。
ネリアが普段読むような魔術書やギルドの依頼書には書かれない単語。
「夢?」
ネリアの呟きに、リアは微笑んで頷いた。