最終話 遠きが故に夢は(後編)
竜の咆哮を、リアは聞いた。
ゆっくりと立ち上がる。ネアの血が手や服の端から雫となって落ちた。
濡れた布が重い。
ネアの死に顔は疲れきったものだった。
やっと休むことのできる安らかさを感じたのは、リアの錯覚か。
「リア、終わったの?」
ネリアが尋ねた。
部屋の中央から、玉座の前にいるリアを見上げている。
状況はよく分からないが、リアは魔女を殺した。
なら、これで終わりなのだろうか。
あるいはここから始まるのか。
いつかリアが地面に彫り刻んだ、《夢》という文字を思い出す。
「リア?」
返事をしないリアにネリアが近づき、立ち止まった。
リアは、何か、先程までとは違う雰囲気をまとっていた。
考え込んでいるような表情のまま、自分の手のひらに目を向ける。
血で輪郭を描く鏡の破片が、リアの顔を映していた。
「どんな気分かな?」
突然の声にネリアが驚く。
柱の影から現れたのは、青いローブの女性。
幻想的な白髪の毛先だけが黒い。語り部と呼ばれる存在だった。
リアも驚いた表情で語り部の方を見ていた。
しかし語り部は気にした様子もなく、ゆっくりとリアの方に歩む。
「王都からモニテリへと、険しい険しい道のりだったね。
その困難を超えて、今、君は魔女を継承した。どんな気分?」
語り部は言葉を紡ぐ。
全てを見ていた観察者の言葉だった。
「達成感かな。それとも、不安? 罪悪感かもしれないね、君は、間接的にたくさん殺してきた。
あるいは期待かな。君が得た魔法の力は、使い方次第では色々なことができる」
リアは黙ったまま語り部の方を見つめた。
それから、ネリアの方を見て、また語り部の方を見直す。
その瞳には怯えが浮かんでいた。
契約の魔女は、相手の価値観を無意識に読み取ってしまう。
かつて、ネアがキヨナの歪んだ精神に恐怖したように。
人間という枠から外れている語り部の価値観は、リアには理解できない。
「あまり見ない方がいいだろうね。君には、まだ早い」
語り部が微笑む。
その人の良さそうな微笑みすらも、今のリアには気持ち悪い。
語り部は何の感情も抱いていない。
微笑みも、優しそうな声音も、全て計算された道具。
ただひとつの価値以外に、人にも、それ以外にも、一切の感情を抱いていない。
人間ではない。それを超えた、神か、悪魔のような存在。
空っぽな笑顔。空っぽな声。
空っぽな優しさ。
それは、リアが幼い頃の行為も同じだったのだろう。
虐げられていたリアに向けられた、初めての優しい行為。
その全ても、計算。
リアの心の、基盤とも言える場所が崩れ始め、揺らいだ。
全て仕組まれていたと悟ったからだ。
あの教会に預けられ、その夢を持ったことも。
ジャックに出会い、この旅路に協力してくれたことも。
魔女を殺し、受け継がせるための。
停滞した物語を、次に進ませるための。
リアは深く呼吸をした。
それから、語り部に頭を下げて、お辞儀をする。
語り部はそれを見て意外そうに笑った。
その表情すら作りものであることを、リアは知っている。
「へえ、怒らないんだね」
怒りのような感情が無いといえば嘘になる。
しかし、全て仕組まれていたから、何だというのだろうかとリアは思う。
願った夢はリアのもの。
そのための意志と行動も、リアだけのものだ。
「いい感情だね。できたら、自分の口で話して欲しいけれど」
リアは首を振る。
契約の魔女であるなら、喋れるように魔法を使うことくらい容易だったが、それでも断った。
語り部に語ることは、何もない。
どうせ、リアの思考など把握しているのだから。
せめてもの抵抗だった。
「ああ、リア。まだ終わりじゃ無いよ」
語り部が言った。
薄気味悪い微笑みがリアに向けられる。
その瞳は興味の色を浮かべていた。
「最後の試練と、選択が待っている」
そう予言を残して、語り部は消えた。
リアの目にも、ネリアの目にもその後は追えない。
いつか見た亡命屋の繊細な透明化の魔術ようで、しかし、魔力の気配はわずかにも無い。
人を超越した存在であることを感じた。
リアは語り部の消えた辺りをじっと睨みつけていると、かすかに建物が揺れた。
* *
一体何が起こっているんだ、と愚痴を吐き捨てながらネリアはリアの手を引いて移動させる。
三等階級であっても冒険者だった経験が、警鐘を鳴らしている。
建物を揺らす震源。
玉座に向かって左の壁の向こう。
圧倒的な存在感。それは強大な魔力によるものでもあったし、生物としての本能かもしれない。
最初に、飾られた鏡が罅割れるのをネリアは見た。
直後、壁ごと爆裂したように吹き飛ぶ。
飛散する鏡や壁の破片から守るためにネリアはリアを庇った。
「【夢の匂いがする】」
高音と低音の混ざる独特の声は、竜に特有の音。
ネリアが顔を強張らせて振り向くと、破壊した壁の向こうから、赤い鱗の竜人が姿を現した。
その色に、ネリアもリアも見覚えがある。
ラクアレキへ向かう途中に襲われた、夢喰らう竜。
同じ竜鱗を身にまとった人型が、重い足取りで近づく。
その姿がジャックの結末だった。
恨みの多いネリアでさえ、そのことには複雑な感情を抱く。
そして、リアはどうなのだろうかとネリアは心配した。
一度、リアはジャックを殺した。
ジャック自身が死を選んでいたとは言え、リアが最後に短剣を突き刺した。
そのことだけでも、心が受ける衝撃は計り知れない。
それが、結局は殺しきれずに竜になった。
しかしそのおかげで二人は魔女の下に辿りつけた。
その竜が、今目の前に現れた。
事情が分からずにネリアは混乱している。
しかしその混乱が思考を深い沼に沈めずに、浅い、現実的な次元へと走らせる。
火力の高い魔術符を取り出して、ネリアは竜人の様子を伺った。
先程までと違い、赤と黒の斑ではない。夢喰らう竜と同種だということが分かる赤い鱗だけが身体を覆い、そこに黒い鱗は一枚も見当たらない。
重い足取りは竜の疲弊によるものだろうか。
しかし、ネリアの魔術で対抗できるとも思えない。
「【ああ、とても美味そうな匂いだ】」
竜人が近づく。
ネリアは横に伸ばした手でリアを押しながら、竜の歩みと同じ速度で後退する。
横目で、そっとリアを窺う。
泣いていた。
声はなく、顔を歪めて。
「逃げると言っても、戦うと言っても、私は全力で従うよ?」
その泣き顔に向けて、ネリアは強がるように微笑んだ。
勝てる見込みは無い。逃げ出せるかも怪しい。
それでも、リアに付き合うと決めてここに立っている。
「【空腹だ。空腹だ。早く喰わせろ】」
竜人は歩みを止めない。
ネリアは焦りを隠せずにリアを見る。
「どうするの、リア!」
リアは焦燥するネリアの顔を見た。
今のリアには、ネリアの価値観が分かる。自分のことを大事に思ってくれることが、心から嬉しい。
そして、現在の苦境がどれくらいかということも。
リアには戦いのことは分からないが、ネリアを見ればもうどうしようもないことが分かる。
勝てるはずはなく、逃げられるはずもない。手傷をひとつ負わせられたら奇跡。ネリアのその計算が感覚として分かる。
リアの右手にはずっと握っていた鏡がある。
二人の血で汚れながらも、リアの顔を鏡面の向こうに映す。
その泣き顔に、少しづつ決意の色が見えてくる。
「リア?」
リアはネリアを見た。
まず彼女に下がって貰わなければならない。
説明している時間は無く、契約の魔女の魔法を使うしか無い。
だというのに、ネリアの価値観がそれを許さない。
自分の命よりも、リアの命を重く置いている。ひとりだけ逃げ出すことをさせるための対価が、リアには思いつかない。
「リア!」
ネリアがリアの手を強く引く。
その瞬間にリアの頭に閃きが走る。
気づけば単純なことで、何故思いつかなかったのだろうか。今から同じことをしようというのに。
リアは握った鏡を自らの首筋に当てた。
それを見たネリアの顔が青ざめる。
「リア! やめて!」
ネリアの叫びとともに、リアはにこりと笑って鏡を離す。
呆然とした顔のネリアが驚く。
「え? なに、これ」
身体は自然とリアを離し、部屋の隅へと歩いて行く。そうしなければならないと、不自然な意思がネリアを支配する。
契約の魔法が、ネリアの意思を強引にねじ曲げていた。
「リア! リア!」
リアは、自分の名前を叫ぶネリアの姿に、頭を下げた。
謝罪と、感謝。そのどちらの意味が強いのかはリアにも分からない。
そして、リアは竜人へと向き直る。
奇妙な構図だった。
細く、血に汚れた少女は玉座の前に悠然と立ち。
生物の王者と評される竜が、その少女に謁見するように一段下から見上げる。
竜人の動きは鈍い。
基となったジャックの身体がほとんど壊れ、絶望喰らう竜を二頭も喰らわなければならなかった。
その消耗は空腹となり、竜人の黄色い瞳にはリアの姿しか映らない。
ゆっくりと近づいていくる竜に向かって、リアは先程の動作を繰り返した。
鋭利な鏡の欠片が、リアの細い首筋に当てられる。小さく切られた皮膚を突き破り、赤い血が細い線になって鎖骨へと流れた。
驚いた竜人が足を止めると、リアの手も鏡を押しこむことを止めた。
それは、自分の命を人質にした行為だった。
「【何だ、お前は。それで脅しているつもりか】」
竜人が踏み出す。
同時に、鏡がさらに喉へと押し込まれた。
歩みを止めた竜人が、爬虫類の瞳でリアの顔を見る。
リアは静かな表情で竜人を見下ろしていた。
竜人は計算する。
全力で駆ければ、目の前の少女が首を跳ねた所で夢を喰らうのには間に合う。
けれど、味は落ちるだろう。死にゆく際に、夢を夢のまま保つことができるとも思えない。
しかし、では喰らえないのか。
そうするくらいなら、味が悪くなろうと喰らえばいいのではないか。
かつて、同じ命題をツェルドーグは抱えた。
契約の魔女ネアは、恋人を失う絶望を抱き、恋人の成れの果てであるツェルドーグに喰い殺されそうになっていた。
その時、ネアはリアと同じように自らを人質にしてみせた。
ネアは、その命題に立ち止まった竜に、契約を持ちかけた。
ネアの差し出した対価は、自分以外の者に絶望を抱かせるということ。
魔女の契約は、人の意志を簡単に捻じ曲げる。それは竜にはできないことで、だからこそ契約が成り立った。
同じことが、リアにもできる。
鈍いと言われる頭でも、そのことは思いついていた。
他人に夢を抱かせることは、魔女の力を使えば簡単なことで。
それは、目の前の夢喰らう竜には大きな価値を持つ。
無言のまま、リアは契約の魔法を行使する。
竜人が喉を鳴らした。
リアの契約の魔法が、竜人と、リア自身を縛り付けていく。
そして、契約が成った。
リアは喉に当てていた鏡を捨てる。
そのまま両手を広げて、竜人に微笑む。
我が子を慈しむ母親のように。父親に甘える娘のように。
竜人はゆっくりとリアに近づいていく。
段を上り、玉座の前のリアに向かって頭を下げた。
竜人はリアよりも背が高い。
下げられた頭部はそれでもリアの眼前の高さで、その爬虫類の頬に、リアは愛しく触れた。
リアが微笑む。
細められた瞳の端から涙が零れ、
頬を伝い、
顎から喉まで流れていく。
その涙の旅路の先端、
リアの喉を竜は噛みちぎった。
悲痛な叫び。
ネリアのものだった。
竜人の飢えは、極上の夢で満たされていく。
喰らいきれなかった首に、さらに喰いついた。
首から上を失って倒れていくリアの身体。
少し離れた位置に頭部が落ちた。
安らかな表情で、瞼は閉じられている。
水気のある音をたてて咀嚼をした竜人が、その肉を嚥下する。
「なんで……?」
ネリアが掠れた声で呟いた。
何故、リアが死んでいる?
魔女の力とやらを得たのではなかったのか?
竜人はネリアの方に視線をやったが、何も言わずに別の方を見た。
鏡の間の入り口、大きな扉が開かれて兵士達が隊列を組んでいる。
兵士達の誰もがその状況を理解できない。
今日の混乱は一体何が原因で、何が目的なのか少しもわからない。
それでも彼らはその職務に務める他に無い。
ホウプ宮殿だけでなく、周辺の軍施設からの増援も合わせた兵士達が次々に鏡の間に入り、竜人を包囲していく。
亜人であるネリアは保護されてその包囲の外へと運ばれた。呆然とした様子は、恐怖によるものだろうと誤解された。
大量の兵士達を見て、竜人は真上に吼えた。
その咆哮は周囲のものを竦ませる。同時に放たれた竜魔術の火球は、何層もの天井を抜いて青空へ消えていく。
人間にはあり得ない、桁違いの魔力。
それを見た兵士達は、次々と膝をつき、頭を垂れた。
全ての顔には困惑。何故、自分は頭を下げているのか。その代償に、竜が魔術を向けないことなど彼らは知るよしもない。
竜人は玉座の前から兵士達を見下ろした。
破壊された天井から光が差し込み、竜人と、その足元のネアとリアの死体を照らす。
砂埃に浮かぶ光のカーテンに包まれるのは、契約の魔女が二代継承された残骸だった。
そして、天に轟かせるように竜人が朗々と告げた。
「【我が名はダブラークォン。先の契約に基づき、この戦争を終わりに向かわせる】」
それが、リアの夢を喰らうための対価。
ネアは他者の絶望を捧げる契約を結んだように。
リアは自らの夢を捧げる契約を結んだ。
ダブラークォンの食らった夢は、極上の味だった。
契約の魔女の根幹は、等価の交換。
しかし、リアは多くの価値を持たない。貧弱で、頭も悪い出来損ない。
価値のないリアには、契約の魔法はあまりに弱い。
強きものほど、賢きものほど。
価値を多く持つものが契約の魔法を持てば、どれほどのことができるだろう。
だから、リアは自らの命をダブラークォンに捧げた。
竜が、膨大な価値を持った存在が、自らの夢を叶えてくれる。
それはどんなに素敵な夢だろう。
それはどんなに素敵な希望だろう。
その希望を喰らうためなら、竜は自らが縛られる契約を喜んで受ける。
「【戦争は終わるのだ。どちらの勝利ではなく、我の基準によって】」
ダブラークォンは、兵士達を従えて歩き出す。
誰も彼もが混乱していたが、それでも、戦争が終わるのだという確信を抱かされた。
それは彼らに歓喜の表情を浮かばせるのに充分だった。
事情を理解してもいない誰かが、その喜びを叫ぶ。
それは同じ感情を持つ兵士達に共鳴して、あちこちで同じ叫びが上がる。
契約の魔法による洗脳だとは誰も自覚しない。
その歓声にうるさい空間。
兵士の拘束から抜けだしたネリアはふらふらと玉座の前にまで進み、転がったリアの頭部の前に崩れ落ちる。
そっと持ち上げたその顔は、赤子の寝顔のように安らかだった。
「どうして?」
ネリアの呟きは歓声にかき消される。
抱く顔は、もう二度と微笑むことはない。
「どうして!」
頭を抱きかかえたネリアが、悲しみを叫ぶ。
喉が裂きながら鳴る悲痛な声は、熱狂する誰の耳にも届かない。
これが。
この日が。
王都からモニテリへと大陸を横断した、リアの旅路の果てとなった。