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   9話 止めぬ歩みの理由(前編)


 ネリア・フォスターにとって、この数年はかつてないほどに幸せな境遇だった。


 生まれは王国の西よりに位置するとある上級都市だった。

 両親共に貴族の奴隷であり、その子供のネリアも当然奴隷として主人に仕えていた。


 主人はありきたりな貴族であった。

 思い出すのが不愉快な程度には、ありきたりな扱いを受けていた。

 過度な加虐趣味を持っていなかったことは救いだったろう。痣や傷跡はともかく、身体的な欠損があれば、冒険者として生きることも難しかったはずだ。


 非人と呼ばれながら見た目は人間に近いことと、彼らの性的嗜好からするとネリアが充分に満足できる容姿であったことが幸いと、あるいは災いとなった。

 わずかに残っていた尊厳を奪われることがネリアの仕事だった。当時の彼女は、他の奴隷よりも楽な仕事だったとしか思わなかった。そういう教育を受けていた。


 年齢が二桁になった頃、事件が起こった。

 ネリアが起こしたのだった。


 ネリアには二つ年下の妹がいた。

 彼女によく似た顔立ちで、それはつまり主人の好みの顔立ちということだった。


 そしてある日、主人がネリアの妹で楽しんでいることが、夫人に露見した。

 夫人が激怒した対象は、不貞を働いた夫ではなく、夫が不貞を働いた相手だった。


 自分がしていることの意味も分からないままに、ネリアの妹は夫人の手で殺された。

 ネリアや両親に助けを求める叫びと、夫人の冷笑、おもちゃをひとつ取り上げられたように残念そうな表情の主人。


 斧による切り口から妹の皮膚の内側を幾箇所も見せられて、ネリアの中で何かが切り替わった。


 翌日の早朝に、ネリアはまず夫人を刺し殺してから、次に主人の胸を同じナイフで貫いた。

 その家の奴隷たちは何代も奴隷だった者ばかりだったので、奴隷への警戒が薄れていたことも、主人殺しを可能とした理由だった。都市全体で大きな反逆が無かったことも、油断を招いた。


 主人夫妻と、何人かの関係者を殺した後、ネリアはその屋敷を燃やして9人の奴隷と逃げ出した。

 都市を抜け出す際にひとりが裏切り、六人が捕まった。六人の奴隷の中には、ネリアの両親も含まれていた。

 残りの2人と同盟領に亡命できたことに、幸運が無かったとは言えない。腕の良い亡命屋に出会えたことや、大規模な亡命計画に参加できたことも、逃亡する非人が一割もかなわない幸運だった。


 妹を失い、両親も失ったネリアは同盟に亡命した後、軍部に徴兵された。

 身寄りもないネリアに残された道は少なく、軍部からすれば王国にいたことがある非人は諜報員として戦力になる。

 同じような境遇の子供たちが大勢いた。


 同盟のため、あるいは打倒王国のため、と掲げられた言葉を真に受ける者もいた。

 しかし、ネリアはくだらないと思っていた。


 どちらにせよ、ネリアは奴隷のようなものだった。

 生き方を縛られる境遇という点で違いはない。


 七年余りの訓練の後に、敵拠点への大規模攻勢に紛れて密入国が行われた。

 ネリアは任務を放棄して地方の中級都市であるセルクドに逃げた。


 王国は生きづらいが、同盟に忠誠心も無い。


「そうか。実は私も、同盟は好きではない」


 拠点指揮官の執務室に備えられたソファに、狼犬人の指揮官が座っていた。

 その対面のソファにネリアは背筋を伸ばして座っている。

 ふたりの間のテーブルにはカプニ茶の注がれたカップが置かれて、慎ましい香りの湯気をたてていた。


 嗅覚に優れない人間には人気が無いが、亜人や獣人の多くが好む茶葉だった。


 自らの境遇のほとんどを正直に話したネリアは、じっと指揮官を睨む。

 その視線を受けて、指揮官は肩を揺らす。目じりの皺が少しだけ深くなった。


「同盟軍部の質は、私から言わせればあまり良くない。

 君も名前を変えれば、諜報員だった事実には気づかれないだろう。

 もちろん、私も話を合わせよう。正直に話してくれた誠意に応えるためにも」

「ありがとうございます」

「さて、それで君は、そのセルクドという街でジャックに会ったのだね」

「はい。そこから、いくつかの都市を経由してラクアレキ、そしてゴイド山脈を越えてここに」

「そう、事情は最初にいくらか聞いた。夜分にこうして呼び出したのは、ジャック個人について聞きたいことがあるからだ」


 指揮官の眉が訝しげに寄せられる。

 ジャックという名の冒険者は、いかにも世に擦れたような人物に見える。

 出会ったことのある帝国の冒険者や、前線でもその先鋒部隊に所属するような人間に多い、刹那的で半ば自棄的な人物。


 ジャックはその典型に見えるが、見えすぎることが問題だった。

 狼犬人の指揮官は人を見る目に自信がない。その自分でも分かるような特徴は、分かるように見せている結果なのではないかと疑っている。


 尋問の際、部下に密かに使わせていた虚偽判別魔術に疑わしい反応は無かった。しかし、理想的なまでの鼓動や体温の揺らぎは、多少怪しい揺らぎよりもさらに怪しく思える。

 虚偽判別魔術は、専門の訓練を受けた者なら難なくすり抜ける。


 ネリア・フォスターという名の女性が、元同盟の諜報員ということは知っていた。

 立地上亡命者を受け入れることの多いこの基地には、軍部からそういった者達の名簿を渡されている。

 この数年で所属の鞍替えを行っていないのであれば、彼女の言葉はある程度信用できる。


「そうだね、単刀直入に聞くとして、彼は信用できるかどうか」

「できません」


 返答は早かった。

 指揮官は少し面食らったように瞬きを数回繰り返して、問い返す。


「何故?」

「私は……」


 言葉を切って、ネリアは視線を右下へと向けた。

 数秒間、机の角のあたりを睨みつけてから息を吸うと言葉を繋げる。


「ラクアレキである情報屋と取引をしました。

 内容は、ジャックとリアの越境に強力することです。その対価としていくつかの真実を」

「真実?」

「ジャックは始めから、同盟の元諜報員である私を仲間に組み込むために、セルクドに来て、私の正体を露見させたのです。

 それは確かにモニテリを目指す上で効率的な手段ですが、犠牲にされた私からすれば、彼を信用することなどできません」

「ひとつ疑問が生じるな。何故ジャックは君の正体を知っていた? 当然セルクドに向かう前から知っていたはずだ」

「気味が悪いほど腕の良い情報屋だったのです。彼女は、私の幼少期の頃に仕えていた家の名すら知っていました。その情報屋が、自分がその情報をジャックに売ったのだとも言っていました。

 情報屋がどうやってそれを知ったのかは、私には知るよしもありません」

「その情報屋の名前は聞いていないか?」

「いえ。ただ、賢しき鼠というギルドに所属しているようですが」


 賢しき鼠という名称を聞いて、指揮官は動揺を見せないようにカップで口元を隠した。

 これでジャックから聞いて内容の信憑性が補強された。全てが仕組まれていたということも考えられるが、指揮官自身が集めていた情報とも一致する。


 指揮官の考えは大きく傾く。

 軍上層部からの指令書を携えてきた黒い髪の女性こそが、この戦争を引き延ばす者であり、ジャックの言葉を借りるならば契約の魔女であるのだと。


 黙っている指揮官を見て、ネリアは気になっていた事項に話を変えた。


「リアをモニテリへ連れて行くことは、許可していただけるのでしょうか」

「悪いが、それは難しいな」


 カップを机に置いて、指揮官は低い声で言った。


「王国民を見逃すことは、大きすぎる責任になる。そこまでの義理も、優しさも、残念ながら持ち合わせてはいない」

「あの子を、私の妹のような存在だと言ってもですか? 同じ奴隷の身分であったと」

「そのような例はいくらかあるが、厳しい検査を受けることになる。そうなれば、いくら同盟軍部と言えど、君が諜報員であったことは知れるだろう。

 そもそも、だ」


 指揮官がネリアを睨む。

 その関係者が誰も口にしない、しかし何より重要な情報が欠けている。


「何故、リアという少女はモニテリに行きたいんだ。

 君も、亡命屋も、ジャックも、全員がその疑問の答えを知らない。

 王都の修道女がモニテリを訪れなければいけない理由など、何ひとつ存在しないだろう」


 モニテリへ行きたいというリアの希望から全てが始まっている。

 それなのに、誰もその理由を知らないというのは異常なことだった。


 ネリアはその理由を少しだけ知っている。

 セルクドの街を出る出る際に、地面に文字を書いてリアが伝えたのだ。


 夢、とリアは記した。


 命をかけるのに値する夢など、ネリアには想像できない。


「分かりません、けれど」


 ネリアが指揮官を睨み返した。


「私に出来る限りのことは、してあげたいんです」


 強い言い切りに、指揮官はゆっくりと息を吐いた。

 ネリアの生い立ちを聞いた今では、それは妹を失ったことへの代償行為としか見えなかった。



  * *



 ネリアは指揮官と話しているのとほぼ同時にジャックは亡命屋の私室に招かれていた。

 広めの部屋にはベッドやクローゼットの他に、丸い一脚のテーブルと、椅子が二つ置かれていた。


 勧められるままに椅子に座ったジャックはテーブルに置かれた酒瓶を見て、小さく息を吐いた。

 意識を失っている間に没収されたジャックの私物である、ラベルのない酒瓶だった。


「わざわざどうも」



「いえ、そろそろ辛い頃でしょう?」


 対面で微笑む亡命屋は普段の修道衣ではなく、寝間着にショールをかけただけで堅苦しい印象が消えていた。

 フードに隠れていた黄みがかった茶髪が、少年のように短く切り揃えられていたことは意外だった。


 亡命屋がグラスに酒を注いだ。

 グラスはジャックの前にだけ置いてあり、亡命屋の前には何もなかった。

 天神教の戒律などではなく、まずい酒を飲みたくないだけである。


 注がれた薄緑の液体からは、酔いも醒ますようなきつい薬草の臭いが漂っていた。

 ジャックはその酒に口をつけ、そのまま嚥下するが美味いと思っているわけではない。酒精は濃いが、とても酔えた味でもない。


 ただ、ジャックの体の内部の痛みをやわらげる効能があった。


 苦味やえぐ味に耐えるジャックを見て、亡命屋が問う。


「その酒は、自分でお作りに?」

「幸い、毒も薬もある程度は知識があるからね」

「ずいぶん危険な薬草も多いみたいですね。そこまで症状は出ていましたか」


 亡命屋の言葉にジャックは内心で苦笑する。

 酒に漬け込んだ薬草は魔術の触媒に使うような類ではなく、毒殺や解毒に使うようなものばかりだ。青の三角の塔は薬学も教えるのだろうか。


「せっかくだから色々盛り込んだけど、基本的には滋養強壮が目的だよ。呪を抑えこむ最低限には生命力が必要だからね」

「滋養強壮というよりも、前借りみたいなものでしょう。何十年分の寿命を犠牲にして、その一割にも満たない生命力を無理矢理絞りだすような」

「どうせ踏み倒すことが決まってるからね、盛大に無茶ができるんだ」


 元々、呪を押さえ込める期間は十年にも満たなかっただろうとジャックは予測している。

 それは王都を立つ前の時点のもので、今はもはや予測もできない。十年どころか、一年ももつ気はしなかった。


「もう、半年が限界です」


 その予測は、目の前の魔術士が行ってくれた。

 悲しそうな亡命屋の視線を受けて、ジャックは微笑む。酒に酔ったわけではないが、何故かとても落ち着いた気分だった。

 漠然と不安だった要素に決着をつけてくれたから、なのかもしれない。


 ゆっくりと、残りの寿命の使い方を考えるために思考が回り出す。


「もう少し欲しかったけれど、贅沢は言えないな」

「この言い方は失礼だと思いますが、自分を処理するなら早い方がいいです」

「そうだね。流石に人類に迷惑は、できるだけかけたくない」


 ジャックの言葉に亡命屋は目を伏せた。

 どうあがいても一年を待たずに消滅する人間を見ることが、嫌になったのだろう。ラビアルにいた頃には想像もしなかったが、王国に来てからはそういう人間がいることを知った。


 死ぬことはそれほど悲観することなのか、とジャックは思う。

 少し鋭利な刃で首元の血管を切れば簡単に失われる命に、それほどの価値があるのか。


「それで、本題は?」


 ジャックが話を進めた。

 真夜中に虜囚を呼び出すのは、あまり普通のことではない。

 緊急の要件か、あるいは人目に晒したくないのか。


 亡命屋は柔らかく微笑んだ。


「挨拶、と言いますか。

 戦闘に巻き込まれる前に、私はラクアレキに戻ります」

「賢明だね」

「私は、あなたやリアさんの目的を知りません。しかし、私は人より少し同情しすぎるきらいがあります」


 亡命屋がじっとジャックの瞳を見つめた。


「あなた達二人を、ラクアレキに戻すことくらいなら可能です。

 虜囚として生きるよりは、ましな未来だと思いますが」

「ありがとう」


 ジャックが素早く返答した。

 本心からの感謝だった。


「けれど、それはできない。モニテリへ連れて行くと、そういう契約をしたんだ」

「そうですか」


 亡命屋は目を伏せてそう言った。

 しばらくの静寂。


 酒を飲み干して、ジャックはグラスを置いた。


「ありがとう。あんたがいなかったら、この状況にもなれなかった。

 奇跡みたいに恵まれた結果なんだ。何とかしてみるよ」

「深く関われませんが、あなたとリアさんが幸せな方へ歩ければいいと思います」


 それが、ジャックと亡命屋の最後の会話だった。



  * *



 不意にリアが目を覚ました。

 真夜中と言って差支えのない時間帯。こんな時間に目が覚めることは珍しい。


 部屋の中は暗い。

 灯りは消されているため、ドアの隙間からわずかに漏れてくる光だけが光源だ。

 わずかに鉄格子に反射する光以外には何も見えないようなもの。


 違和感に気づいて、リアはベッドの上を飛びのいて、鉄格子から離れる。

 見慣れない人影がそこにあった。


「驚かせてしまってごめんなさい。今、灯りをつけるから」


 言葉の直後、壁にかけられた燭台の上で蝋燭に炎がともる。

 炎の光に照らされたのは、黒いローブに身を包んだ、黒髪の綺麗な女性だった。


 鉄格子の向こうにジャックの姿が無いことにも気づく。


「こんばんは。私はネア。あなたの名前を聞かせて?」


 ネアと名乗る女性が言った。


 リアが答えようとして口を開き、かすかな嗚咽を漏らす。

 ネアはそれを見て眉をひそめる。


「貴女、喋れないの。面倒ね。

 いいわ、頭のなかで思って見て」


 ネアの言葉通りに、リアは頭のなかで自分の名前を読み上げる。

 当たり前のようにネアはその言葉を聴きとった。


「そう、リアというの」


 驚きながらリアが頷く。


「きっと、貴女が、語り部の用意した存在なのね。

 知ってる? 青いローブに、白髪の先だけ黒い女性」


 もう一度リアが頷く。

 それを見てネアはゆっくりと、音を聞かせるような呼吸をした。


「魔女を、継ぎに来たのね?」


 リアは一度瞬きをして、真剣な顔で頷いた。 


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