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9 情けない神さま

 誰かが呼ぶ声がして、おれは瞼を開いた。


 辺りは闇に閉ざされていたが、戸の隙間から月明かりがこぼれていた。次第に目が慣れると、おれを挟むようにして横たわる幼子ふたりの寝顔が浮かびあがる。夕べ、一緒に寝ると言って、散々駄々をこねていたことを思い出す。結局、どちらも譲らず、ふたりしておれの寝床にもぐり込んできたというわけだ。


 ふたりとも思い思いの、不思議な格好をしたまま眠っていた。眠る前は、きれいに並んでいたはずなのに。そう思うと、何だかおかしくて、口元がゆるんでしまった。


 おれはそっと寝床から抜け出すと、寒い思いをしないように、ふたりに布団を掛け直した。隣に並んだ寝床には、さつきが静かな寝息を立てて眠っていた。さつきの無防備な寝顔はあどけなく、普段より幼く見えた。こうして見ると、やはりなえとさつきはよく似ている。


 子供達が目を覚まさないように立ち上がった。そして、物音を立てないように、ゆっくりと戸を開く。


 この部屋は庭に面していた。わずかに開いた戸の隙間。そこから見える小さな庭には、白く明るい月の光が、静かに降り注いでいた。庭と言ってもとても狭く、母親が集めた草花や、花や実をつける木々が所狭しと植えられていた。葉を落とした枝は、地面に青い影を作っていた。唯一、生き生きとした葉をつけた枝に、赤い実がなっているのを見つけた。南天だ。その鮮やかな色を、おれは懐かしい気持ちで眺めた。春になればこの庭は、色とりどりの草花に包まれるのだろう。


 一瞬、庭中が緑で輝くのを見たような気がした。ふわり、とその光景に吸い込まれそうになる。柱にしがみついて、目眩に似たその感覚が通り過ぎるのを待った。どれくらい経っただろう。少しずつ、体の感覚が戻ってきた。おれは大きく息をつくと、もう一度庭を見た。さっきと同じ、寂しい光景だった。


 おれは縁側を越えて、裸足のまま庭に降り立った。すると、どこからともなく、耳慣れた声がした。


(そろそろ、その姿でいるのは辛いだろう……潮時だな)


 鴉はひっそりと囁いた。奴の姿を探したが、どこにも見当たらなかった。いや、姿形はないとしても、やつはちゃんとここにいる。鴉、という姿は仮の姿に過ぎない。この夜の闇自体が、奴という存在なのだ。むしろ、ヨル、という名の方が奴にふさわしい。姉妹は上手い名をつけたものだと、感心してしまう。


(心配するな。別れを告げる暇くらいはやる)

「……そうか」


 さっきのおかしな感覚はそのせいだったのだろう。


「そうだな」

 おれは、あきらめたように頷いた。

「お前には、感謝している」

(……どうした? やぶからぼうに)

 薄気味悪そうに、奴は声をひそめる。

「おれは何ひとつできなかった」


(当然だ、おれたちにできることなど、何ひとつない)


 いつものような軽口だったはずなのに、奴の言葉は少し悲しげに響いた。


(いくら求められても、それに応えることができないというのに。人は何故か、おれたちを神と呼ぶ)

「鴉……?」


 いつもの奴らしくない。おれは戸惑いながら、どこかで闇が動く気配を感じていた。


(いくら永い時が経とうと、神になどなれるわけがない。いくら人に焦がれても、時を共にすることなどできやしない。お前は、彼奴らに少し入れ込み過ぎた)

 鴉の言葉は正しかった。


「……ああ」 

(あの娘たちも、いずれは先にいってしまう。情を掛けても、お前が辛いだけだぞ)

「そうかもしれない……だけど」

(だけど?)

 鴉が怪訝そうに声をひそめる。おれは言った。

「だけど、叶えてやりたかったんだ」


 兄さまが元気でいますように。今度のお盆に帰ってきますように。


 陣之介の死によって、その願いは決して叶えられないものになった。だけど、それを知らずにやってくる姉妹を、おれはどんな思いで見ていだろう。どんなに叶えてやれたらと、強く願う思いがあったはずだ。


(青いことを言うな)

「まったくだ」


 嫌味ったらしく鴉は言うが、おれは笑って受け流した。それが面白くなかったのか、鴉は急に口を閉ざしてしまった。何か言うのを待っていたが、いつまで経っても無言のままだ。


「………鴉?」

 暗い空へ視線をさまよわせながら、奴の名を呼ぶ。すると、背後でかたりと音がした。振り返ると、縁側にひっそりとたたずむ娘の姿があった。


「さつき」

 名を呼ぶと、娘は、小さく微笑んだ。

「話声がしたものだから」

「ああ……」


 そう言えば、さつきのことを苦手だと言っていた覚えがある。いつも偉そうな鴉の苦手なものが、こんな小さな娘だと思うと、何だかおかしかった。


「起こしてしまったか……すまない」

 するとさつきは、小さな息をついた。

「謝るのがくせみたいですね」 


 さつきは庭に降りようとしたが、何かに気づいたように動きを止めた。困ったように地面を見つめていたが、あきらめたように首をすくめる。恐る恐る土の上に足を降ろすと、ゆっくりと歩き出した。おれの隣に並ぶと、さつきは言った。


「裸足で歩くなんて久しぶり」

 さつきは、土の感触を楽しんでいるようだ。小さな円を描くように歩く。

「こんなことしたら、お行儀が悪いって叱られてしまいます」

「そうなのか、すまない」

「ほら、また謝っています」

「あ………、いや」


 すまない、とまた言いそうになって、慌てて口をつぐんだ。きまりが悪くて、頭をかきむしる。


「………わかった、気をつける」

 おれが神妙に頷く。すると打って変わったように、さつきはくすくすと笑い出した。

「なぜ笑う?」

「だって……」


 今度は微かな笑い声をたてる。普段滅多に笑うことのない娘が、こんな風に笑うなんて知らなかった。ほのかな光に映し出されたさつきの笑顔を、戸惑いながらも見つめていた。


「あなたとこんな風に話せる日がくるなんて、思ってもみなかったから」

「……え?」

 思わず息をのんだ。さつきは、いつの間にか笑うのをやめていた。


「……あなたは、お社の神さまなのでしょう?」


 とっさに言葉が出なかった。混乱して、言葉が見つからない。


「いつもヨルと話ているのは、あなたなのでしょう?」


 目の前にいる娘が、まるで月の化身のように思えた。時に暖かく、時に冷たい光を放つ月のようだ。深く暗い闇の色をした瞳には、何が見えるのだろう。その両の耳は何を聞くのだろう。


「いつも、すまないと。そう言っていたのは、あなたなのでしょう?」


 極まれに、人ならぬものたちの声を聞き、姿を見ることができる者がいるという。鴉が、この娘を苦手だと言っていた意味が、やっとわかった。


 おれは重い息を吐き出すと、振絞るように答えた。

「……そうだ」

「やっぱり」

 さつきは小さく笑った。こうして笑うと、そんな力があるとは思えない、ごく普通の娘でしかなかった。

「いつから気づいていた?」

「最初は、なんとなくです」

 ふと、さつきは視線を足元に落とした。


「ヨルの言っていたことは全部嘘で、本当は兄さまは生きていて。……だから、兄さまが帰ってきたんだと、そう思いたかった。だけど……」


 さつきは微かに震える声を噛みしめると、ゆっくりと顔を上げた。そして、ぎこちない笑顔を浮かべる。


「やっぱり、あなたは………私の兄さまじゃない」


 兄さまじゃない。


 さつきの言葉が、刃のように鋭く胸に突き刺さる。その通りだ。おれは陣之介ではない。まして、人でもない。さつきがおれのしたことを責めても、仕方のないことだ。わかっていた。わかっていることなのに、どうして、この娘の言葉が、こんなにも痛いのだろう。


「そうだ。おれは、お前の兄じゃない。おれは……神さまでもないんだ」


 笑ってみたが、上手く笑えたか自分ではわからない。ふいに、さつきの顔が見えなくなった。


「私の兄さまは優しかったけど、とっても怒りんぼうだったんです。泣いていることなんか、なかった」


 さつきの声が、悲しく響いた。そっと目の縁に指をあててみると、指先が濡れていた。この体は、感情が高ぶるとすぐに涙が出るようだ。手のひらで乱暴にぬぐうと、今度は瞼が腫れぼったくなった。


「私……兄さまに、いってらっしゃい、とも、お気をつけて、とも言えなかったんです。私たちが絶対に泣くから、黙って行ってしまったんです。きっと……兄さまは、私たちが泣くのをとても嫌がっていたから」


 おれは、陣之介が家を出た日のことを憶えていた。あれは、まだ肌寒い朝だった。

 その姿は、社から見ることができた。まだ星も消えない空の下を歩いて行く姿が、とても頼りなく、小さく見えたことを思い出す。いくら大人びていたとしても、陣之介は、まだ年端のいかない少年だったのだ。


「おそらく、家族に別れを告げるのがつらかったのだろう」

 何気なく、そんな言葉が口からこぼれた。すると、さつきは驚いたように目を見開いた。

「………兄さま、が?」


 自分の兄が、そんなことを思うとは知らなかった。そんな驚き方だった。

 家で待つ母と幼い妹弟が元気でいますように。

 前日の夕暮れ時、それが、社へやってきた陣之介の、最後の願いだった。そのことを告げると、突然、さつきは声を上げて泣き出した。

 おれは驚いた。この気丈な娘が、幼子のように声を上げて泣くとは、夢にも思っていなかったからだ。一体どうすればいいのだろう。しばらく右往左往していたが、さつきは一向に泣き止もうとしなかった。


「さつき、何故泣く?」


 膝をついて、さつきの顔を覗き込んだ。両手を強く顔に押しあてて、激しくしゃくりあげている。押し殺した声は少し擦れてきたが、涙は一向に止まる様子はなかった。


「おれは………何か気にさわることを言ったか?」


 さつきは激しく首を振った。違う、という意味だろうか。だったら、どうして泣くのだろう。すっかり困り果てていると、頭の上から呆れ果てた声がした。


(莫迦か、お前は)

 鴉だった。この時ばかりは、奴の莫迦にした口ぶりを気にしている余裕はなかった。

「頼む、教えてくれ。おれは、どうしたらいい………?」

 鴉は「仕方がないな」と、大げさなため息をついた。

(この娘が言っていた「仲直り」の方法だ。わかるな?)

「仲直り?」


 にたり、と鴉が笑う気配がした。さつきが教えてくれた仲直りの仕方。田圃に挟まれた道を歩きながら、さつきが教えてくれた言葉を思い出す。

 一歩にじり寄って、さつきの震える細い肩に手を伸ばした。


「そんな風に、泣かないでくれ」


 陣之介が妹弟が泣くのを嫌がった理由がわかる気がする。引き寄せようとすると、さつきは少し抗った。もう少しだけ腕に力を込める。すると、今度はさつきの方から崩れるように飛び込んできた。


「さつき……すまない」


 おれの肩に顔を埋め、むせび泣く娘を抱きしめた。そして、さつきが教えてくれた通り、思うことを言葉にした。


「多分……おれにもできることが、ひつとだけある」


 さつきの泣き声が小さくなった。しゃくりあげながら、埋めていた顔をゆっくりと上げる。泣き腫らした目は赤く、顔は涙でぐしゃぐしゃだった。さつきの腫れぼったい頬に触れると、また新しい涙がほろほろとこぼれた。


「お前たち家族が、いつまでも元気で、幸せであるようにと。お前の兄の最後の願いを、おれが引き継ぐ。陣之介の代わりにおれが願うから……」


 思うことを言葉にするのは、想像以上に難しかった。さっきの仲直りの時はすぐに言葉になったのに、さつきには同じようにはいかなかった。

 だけど、これでは言葉が足りない、きっと伝わらない。

 おれは懸命に己の思いを、拙いながら言葉にのせた。


「陣之介の代わりじゃなくても、お前たちのことを思ってる。もうすぐ言葉を交わすことができなくても。お前が泣いている時、抱きしめてやることができなくても……見守ることしかできないけれど」


 言っていて、段々情けない気持ちになっていった。そんな時、いつの間にか泣き止んでいたさつきが、ぼそりと呟いた。


「情けない神さまだわ」

 さつきらしい、率直な感想だった。おれはただ、頷くことしかできなかった。

「情けないが、今おれにできるのは、それだけだ……」

「はい………」


 さつきは、泣き出しそうな笑顔を浮かべると、おれの肩に、そっと熱い額を落とした。

「もう少し…………借りてもいいですか?」


 蚊の鳴くような声だった。黙って頷くと、さつきはふたたび肩に顔を埋め、声も出さずに静かに泣いた。

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