8 あなたを待っている。だから
何度か人の声がした。それが自分を呼んでいることに気づくまでに、かなりの時間が必要だった。
また、声がした。誰だろう?
その声は今にも、かき消えてしまいそうに思えた。首をもたげ、ゆっくりと振り返った。
「……さつき?」
そこにいたのは、姉のさつきだった。にこりともせず、さつきは頷いた。
ふと空を仰ぐと星が瞬き始めていた。落ちかけた陽は、空の端をほんのりと染めているだけ。周囲を囲む木々が、地面に暗く長い影をつくっていた。辺りはすぐに闇に包まれるだろう。空の低いところに、黄味がかった丸い月が、すでに浮かんでいた。
「家に戻りましょう……みんな、心配しています」
さつきの声をぼんやりと聞きながら、強ばった手で頬に触れる。頬が冷たいのか、指が冷たいのか。それとも、元から冷たさなど感じていなかったのか。おれには、もうわからなかった。
「……先に、戻れ」
「いいえ。そんなことをしたら、なえがまた泣きます」
ずきり、と胸が痛んだ。おれはさつきから目を逸らし、ゆっくりと立ち上がった。
「頼むから、先に戻ってくれ」
「だけど……」
さつきが近づく気配がした。途端、粟立つような、ぞっとする気配が全身をかけ抜けた。考えるよりも先に、おれは叫んでいた。
「近寄るな!」
叫んだ途端、我に返った。目の前の娘は、大地に縫い止められたように立ち尽くしていた。その顔には、戸惑いと恐れが浮かんでいる。
「…………すまない」
さつきは小さく首を振った。その顔からは表情が消えていた。
「どこか、お怪我でもしたのですか……?」
息を飲むさつきの言葉に、ようやく頭が働き始めた。おれは思い出したように、手のひらを凝視する。鴉の乾いた赤黒い血が、手のひらや爪先に、こびりついていた。着物の胸元までも汚れている。
「これは………」
ふと、乾いた血の匂いがした。鴉の体から流れた血だった。指先に、冷たい血の感触がよみがえる。
「……何でもない」
ぎゅっと、汚れた手のひらを握りしめた。この体にも、同じような冷たいものが流れているのだろうか。
「でも……」
「何でもない、と言っている」
強い口調で、おれは言った。
「………はい」
何かを言いかけたが、さつきはそのまま口を閉ざしたが、やがて、ぽつりと呟いた。
「……帰りましょう」
おれは頷くことも、首を振ることもできなかった。さつきは同じ言葉をくり返した。
「帰りましょう」
「おれは………」
どうしたらいいのか、わからなかった。考えようとすればするほど、わからなくなる。黙りこくっていると、さつきは小さな子供のように、手を差し伸べた。
「一緒に帰りましょう」
悲しげな懇願の声。一瞬、手を伸ばしかけたが、すぐに思いとどまった。手のひらに爪が食い込むほど、きつく手を握りしめる。
「おれは」
おれは一歩後ずさる。怖かった。ただ、怖かった。
「兄さま?」
戸惑うような、さつきの声。
違う。おれは、お前の兄ではない。お前たちの兄ではない。
「すまない」
「どうして謝るのですか?」
さつきは尋ねた。だがおれは、莫迦のひとつ覚えのように、同じ言葉をくり返していた。
「……すまない」
ふいに、視界に映る月が歪んだ。一瞬、月が溶けてしまったのかと思った。
「……、………ない」
今度は言葉にならなかった。咽が、唇が震え、うまく言葉にならない。
このままここにいれたら、この娘たちの兄としていられたら、どんなにいいだろう。
そんな思いが、この心にくすぶっていた。おれの心は、どんどん欲深くなっていくようだ。本性を知られるよりも、人として止まれることを望んでいる。だが、おれは決して人にはなれない。神さまにだってなれない。死んでしまった陣之介が、生き返ることがないように。結局、おれには何もできないのだ。
だけど、姉妹の願いを叶えてやりたい、そう思う気持ちは本当だった。
例え、その裏に己の浅ましい欲望を隠していたとしても。その思いが本当だったと、そう信じたかった。
「一緒に、帰ると……言って下さい」
突然、さつきの冷たい手が腕に触れた。触れられたくなかった。その手を振り払おうとあらがった。
「離せ」
「いやです!」
さつきの手は力強かった。絶対に離すまいと、必死に握りしめる。ひやりと冷たかった手が、次第に熱を帯びて来るのがわかった。人の熱が、温もりが心を締めつける。
「離せ……!」
無我夢中で振り払った。その途端、さつきの細い体は枯れた草むらに投げ出された。小さな悲鳴が上がる。おれはその声で我に返った。
「あ………」
なえの泣き顔が鮮明によみがえる。えぐるような痛みが胸を襲う。おれは、震える唇を噛み締めると、ゆっくりと近づいた。
「すまない」
ひざまずいて、暗い地面にうずくまる娘を見つめる。娘をそのままにして、逃げ出すこともできた。だけど、おれにはできなかった。もし、そんなことをしたら、ずっと後悔するに違いないなかった。
おれの気配に気づいたのだろう。さつきは、ゆっくりと顔を上げた。表情の消えたその顔が、ゆるゆると驚きに変わっていった。さつきは恐る恐る手を伸ばし、おれの着物の端をつかんだ。今にも逃げ出したいという衝動が、体中をかけ抜ける。
「……にいさま」
さつきの声は、なえとよく似ていると、初めて気がついた。
その手を、もう払うことなどできなかった。傷ついた顔など、二度と見たくない。これ以上、おれがここに留ることで、姉妹をもっと傷つけてしまうかもしれない。だけど、今のおれには、それしかできなかった。
「……頼むから、離してくれ」
できれば、突き放して欲しかった。卑怯だと思いながらも、おれは懇願した。
「いやです」
頼りない声だったが、さつきははっきりと言い放った。
「だって、手を離したら、あなたはどこかへ行ってしまう。……そうでしょう?」
ゆっくりとさつきは顔を上げた。大きな黒い瞳は、まっすぐにおれを見つめている。
「帰りましょう。なえも、平太も母さまも……待っているんです」
着物を握りしめた手は、微かに震えていた。強ばった表情は、泣くまいと堪えているようにも、怒っているようにも見えた。
「お願いです……行かないで」
一瞬、泣いているのかと思ったが、この気丈な娘は、涙ひとつ見せようとしなかった。
「もう、黙っていなくならないで……」
さつきはもう片方の手を、真直ぐに差し出した。
「おれは………」
お前の手を取っていいのか、わからない。
「あなたを待っている人がいる。それだけじゃ、理由にはなりませんか?」
声は震え、さつきは今にも泣き出しそうだった。辺りはすっかり闇に閉ざされようとしていた。夜目が利かないはずなのに、その様子が手に取るようにわかった。
「一緒に帰りましょう」
この手を取ったら、もっとこの娘を傷つけることになるだろう。なのに、この手を拒むことができなかった。後悔するかもしれない。だけど今のおれにできることは、これだけだった。
「……帰ろう」
一瞬、さつきの肩が震えた。おれの声は、ずいぶんと擦れていた。堅く拳をつくっていた手の力を、ゆっくりと解くと、強ばった手を恐る恐る伸ばす。そして、互いの手が触れ合うと、温もりを確かめるかのように、ゆっくりと握りしめた。
「帰ろう」
さつきは無言のまま、小さく頷いた。互いに握りあった手のひらは、ひどく温かく思えた。
月灯りだけを頼りに、歩いているうちに、田圃に挟まれた道に差し掛かった。とうに刈り入れを終えた田圃からは、乾いた藁と土のの匂いがする。その向こう家の灯りが、ぽつりぽつりと見える。まるで地上に瞬く星のようだ。
おれが手を引き、さつきの一歩先を歩く。さつきは、さっきからひと言も口をきこうとしない。だからと言って、この沈黙が心苦しいわけじゃなかった。むしろ、不思議な心地よさを感じていた。互いの手は、ずっと繋いだままだった。
最初に沈黙を破ったのは、さつきだった。
「見てください、あれ……」
突然立ち止まると、前方の星に似た瞬きを指差した。指し示す方向に目をやると、その中のひとつが、ふらふらと揺れ動いていることに気がついた。
「……きっと、母さまたちだわ」
握りあう手に力が込もる。この暗がりでは、そんな遠くまで見えるはずがない。目を凝らすかわりに耳をすますと、微かに人の話声が聴こえてくる。次第に光が近づいてくると、その声もはっきりとしてきた。
「なえと平太がきたら、仲直りしてくださいね」
「そうだな……」
頷いた後、ふと不安になった。おれはさつきに尋ねた。
「仲直りとは、どうすればいいんだ?」
「……そうですね」
小さくさつきが笑う気配がした。
「抱きしめてあげてください。それから、思ったことを素直に言葉にしてください。あの子たちと仲直りしたいと思うのなら、きっと大丈夫です」
「ありがとう……」
ふと気がつくと、遠かった灯火が、もうすぐそこまで近づいていた。話声も近い。知らぬ間に、おれはさつきの手を強く握りしめていた。
「大丈夫です。兄さま」
さつきはそう囁くと、おれの手を握り返した。
「行ってあげてください」
おれは無言で頷く。握りあった手が、ゆっくりと離れた。
灯りを持つ平太の姿、その後ろに母親に手を引かれたなえの姿が、もうすぐそこにあった。もう月明かりだけでも、お互いの姿が確かめあえる。おれの姿に気づいた途端、なえは母親の後ろに隠れてしまった。
「平太……、なえ!」
震える声で呼ぶと、ゆっくりと歩き出した。母親にうながされ、なえも一歩踏み出した。ためらうように、おれを見つめる。
「なえ……」
なえの表情が、くしゃりと崩れた。
「にいさまあっ!」
とうとう、なえがかけ出した。おれも早く手が届くところへ行けるようにと、いつの間にか走り出していた。