7 本性
「お前が子供好きだとは知らなかった」
正直に思ったことを口にすると、途端に鴉は不機嫌そうにうなった。
(莫迦なことをぬかすな、わざわざお前の様子を伺いに来てやったというのに)
ばさり、と奴は大きく羽ばたくと、おれの頭の上まで浮かび上がった。腕を伸ばすと上にふわりと降り立った。大きな図体の割に、羽一枚ほどの重さしか感じない。互いに顔を突き合わせるように向かい合った。
「どういうつもりだ、これは」
(どうもこうも……)
鴉は声なく静かに笑った。
(お前がなりたいように、したいようになったまでだ)
「どういう意味だ」
薄皮に包んだようなものの言い方が気に入らなかった。おれはできるだけ冷ややかな口ぶりになるように努めた。
「お前は言った。これで姉妹の願いを叶えてやれ、と」
ああそうだ。と鴉は事も無げに頷いた。だけどおれはかぶりを振った。
「だけど……これは違う……」
結局おれにできることなど、せいぜい陣之介として振る舞うことくらいだ。だけど、こんなことはいつまでも続くわけがない。いずれ家族は知るだろう。
自分たちの兄が、息子がすでにこの世に存在しないことを。
実際、さつきは何か気がついているようだった。あれは聡い娘だ。あの澄んだ瞳におれの醜い本性が映っているのかもしれないと思うと、身のすくむ思いがした。
(何を恐れている? お前が望んだことだろう? 陣之介になり変わりたいと、あの姉妹と言葉をかわしたいと、そう願ったのはお前だろう?)
鴉の言葉に息が止まりそうになった。「違う」と言おうとしたが言えなかった。言うことができなかった。
あのふたりの願いを叶えたいと、そう願っているはずなのに。どうして否定することができないのだろう?
「……うるさい」
ようやく出た言葉は、咽に引っ掛かる。おれの声が届かなかったのか、鴉はそのまま続けた。
(ここまで上手く化けられたら上出来だ。あの小娘だって兄が帰ってきたとあんなに喜んでいる。あんなに簡単にだませるとは、可愛らしいものじゃないか。ええ? )
「だまれ」
今度は強く言い放った。にもかかわらず、奴は続ける。
(奴らは目に見えるものしか信じることができないのさ。だったら信じさせてやればいい。お前もせいぜい楽しんだらいい。どうだ、楽しいか? 人の暮らしは)
瞬間、腹の底から熱いものが込み上げてきた。その熱にあおられるように、おれの手は鴉の体を無造作につかみ上げていた。無数の黒い羽根が舞い散り、地面にふれる前に雪のように消えた。
「……黙れ……」
だけど奴は驚いた様子もなく、あらんばかりの力で締め上げられているというのに平然としていた。濡れたような黒い瞳でおれを凝視しながら、ぞっとするような声で告げた。
(言ったはずだ。お前がなりたいように、したいようになったまでだ、と)
「だから黙れといってる……!」
怒りなのかわからない感情で、目の前が真っ赤に染まった。指先にさらに力を込めた。羽根の下にあるやわらかな肉に指が食い込み、冷たい血が手のひらを濡らした。
「あ………?」
おれは呆然として手の力を解いた。鴉はすばやく手の中から逃れたが、もうどうでもいいことだった。
鴉の体をめぐる血は、氷水のように冷たかった。
本来、命あるものが持っているはずの、熱く波打つ鼓動。鴉の体にそんなものがあるはずがない。奴の体は借り物だ。命の灯火が消えた体を拝借しているに過ぎないのだから。
死んだものの体。ふと、不安が胸をよぎった。
まさか、という思いにつき動かされて、血濡れた指を恐る恐る自分の胸元に持っていく。予感が当たるのが恐ろしかった。おれは何度もためらいながら、ようやく胸に手のひらをあてる。息をひそめ、体の中から聴こえるはずの鼓動に耳をすました。骨張った堅い胸の上に指をはわせ探した。しかし、どこを探しても胸を叩く鼓動を見つけることができなかった。
おれは力を失った木偶人形のように、がくりと地面にひざまずいた。
(今更何を驚いている?)
いつの間にか鴉はおれの肩に乗っていた。耳元でささやくように奴は言った。
(忘れたのか、お前もおれも最初から命などないのだ。いくら器を得たとはいえ、それは同じことだ)
「違う!」
おれは叫んだ。この体は寒いと感じ、あたたかいと感じる。吐く息で手を温めることだってできる。湯気の立つ汁ものを熱いと感じ、この舌で味わうことだってできる。ひとときの冬の陽射しを感じることだってできる。そして、人の手を温かいとも。
なのに、この手で感じるものが、ただのまやかしだというのか?
「……違う、そんなわけがないッ……!」
この体はただの器だというのか? この胸を満たす温かいものが幻だというのか?
「……そんな…わけが……」
冷たい体を両の手で抱き締めると、そのまま崩れるように地面にうずくまった。堅く閉じた瞼の縁から涙がこぼれた。涙が頬を濡らすが、この涙が熱いのか冷たいのか、おれにはわからなかった。
(そう嘆くな。ひとときとはいえ、お前は人の器を手に入れ、姉妹に兄と慕われたのだから)
冷やかしとも、なぐさめともつかない鴉の言葉を遠くに聞きながら、おれはひとつのことがわかった。
これは……おれの望みだ。
姉妹の願いを叶えてやりたいと、口では大層なことを言っていたがそれは違っていた。ただ、姉妹の願いとおれの願いが、割れた石を重ねたように上手く合わさっただけ。無垢な幼子の心につけ入り、おのれの欲を満たそうとしただけだった。
今流している涙は何のためだろう。姉妹の願いを叶えてやることのできないことを嘆いているのか? 自分の欲を満たすことができなかった悔しさに、歯噛みをしているのか?
いつの間にかおれは、身も心も醜く浅ましい化け物に成り果てていたのだろうか。
(ああ……そろそろ彼奴らが戻ってくるぞ)
鴉の気配が消え、羽音が遠ざかるのがわかった。のろのろと体を起こすと、歪んだ視界になえと平太だろう……小さな足音と共に、幼子たちが近づいてくる。
「にいさまっ! どうしたの? お腹が痛いの? それとも頭?」
慌ててかけ寄ってきたなえは、おれにそっと手を伸ばした。その小さな手が触れようとした時、びくり、と身を堅くした。
「兄さま……?」
不安そうな表情が、驚きへと変化する。戸惑いながらも、なえはもう一度手を伸ばす。
「……さわるな」
おれは逃げるように後ずさった。怖かった。ただ知られるのが怖かった。この欲深い心が知られてしまうようで怖かった。おのれの本性に気づかれてしまうようで怖かった。
おれはあえぐように、どうにか声を振りしぼった。
「おれに、触るな……!」
なえは驚いたように大きく目を見開いた。しばらく呆然としていたが、おれに拒絶されたことがわかると、見る見る悲しそうに表情を歪めた。大きな目からは涙が溢る。途端に罪悪感が胸を占める。だけどおれはごめんと謝ることも、抱き締めてなだめるやることもできなかった。小さな嗚咽からやがて大きな泣き声になり、静かな辺りに響き渡った。
平太は泣き出す姉と黙りこくったおれをおろおろと交互に見ていたが、この場の雰囲気に耐え切れなくなったのだろう。とうとう声を上げて泣き出してしまった。
泣き声を聞き付けたさつきがかけつけるまで、ふたりの泣き声はおさまることはなかった。