4 忘れていた温もり
急に鼻の奥がつんとして、大きなくしゃみをひとつした。体が勝手にカタカタと震える。庇うように体を抱き締め、外気から身を守ろうと丸くなった。
「……さむい」
無意識に漏らした言葉におれ自身が驚いた。
「え……」
まさか、と自分の感覚を疑った。刺すように痛い空気、寒さ、痛み。まったくでなはいが、あまりそういう感覚というものに振り回されなくなってから、ずいぶんの時間が経っていた。すでにその言葉の意味すら忘れかけていたというのに。
「さむい」
確かめるように、もう一度その言葉を音にする。そう、寒い。これは痛みではない。頬の下にある土も固く冷たい。おれは呆然としながらいつもと様子が違うことにようやく気が付いた。
重たい瞼を押し開き、恐る恐る体にまわした手を持ってくる。長くて細い手のひらだ。皮の所々が厚く盛り上がり、ひび割れ、骨張った手はおれのものじゃない。
指先が冷えきって千切れそうだ。息を吐くと白い煙が現れたが一瞬にして辺りに霧散してしまう。試しに手のひらに吐きかけると、温かい息がほんの少し手のひらを温めた。
「姉さま、見て」
不意に澄んだ声が背後から上がった。これはなえの声だ。振り返ろうとしたが、体が強ばってうまく動けなかった。のろのろと体を起こし、声のした方に向きを変えると、驚いたように目を見張っている少女の姿があった。その小さな手には大き過ぎるほどの柑橘の実がのっている。後ろには幼い妹を支えるようにさつきの姿があった。
突然なえはさつきの手を振払って駆け出した。どうしたというのだろう? そう思ったつぎの瞬間、胸元に軽い衝撃を感じた。
「にいさま、にいさま、にいさまあっ!!」
どうして泣いているのだろう?
やわらかく熱い吐息、紅葉のような手がおれの体を決して放すまいと、しっかりしがみついていた。
人におれの姿は見えないはずだ。いつも目の前にいながら、おれのことに気づくことなどなかった。どんなに見つめていても、どんなに語りかけても気づいてもらえることはなかった。
なのに、今こうしてある感触は?
目の前にある小さな頬がしっかりと押し付けられた感触、溢れ出る涙の熱を感じた。少女の押し殺したむせび泣きがくぐもって聞こえるが、声はおれの体に振動となって響いている。
これはいったい……。
ふと見下ろすと、そこにはさっき作った氷の鏡が輝いていた。覗き込むとそこには見覚のある少年がいた。ややえらの張った肉付きの薄い顔。荒削りの割に柔和な顔立ち。この荒れた手の持ち主がそこにいた。
どういうことだ?
不安になったおれは、胸にしがみついている少女を見下ろした。
「……な、え?」
恐る恐る少女の名を言葉にのせると、なえは勢いよく顔を上げた。
「にいさま。おかえりなさい」
少女のその言葉で、おれはようやく今自分がどうなったのかを知った。
その顔は涙でぐちゃぐちゃになっていたが、今までに見たことのないような極上の笑顔を浮かべた。その時おれの中の何かが動いた。恐る恐る少女の頬に触れてみる。
あたたかい。
触れた瞬間はひやりと冷たかったが、桃の薄皮のような肌の下に閉じ込めた温もりがじんわりとしみ通ってくる。人の温もりというのはこんなにも安心するものなのか。もしかしてこういうものだろうと想像していた以上だった。
おれは温もりを求めるように少女の体を抱き締めた。