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3 鴉の土産

 鴉が戻ってきたのは三日三晩を過ぎ、そろそろ夕暮れを迎えようとする頃だった。

 奴がこんなに長く姿をくらませたのは初めてだった。おれも奴もこの土地から離れることは出来ない。案の定、社に戻ってきた鴉はすっかりくたびれた様子で、屋根に降り立った姿はひとまわり小さく思えた程だ。自慢の濡れたように黒々した羽根が、灰をかぶったように煤けている。


「おい、大丈夫か」

 さすがのおれも心配になってそう声を掛けると、鴉はじろりと睨みつけた。


「お前に心配される程、落ちぶれてないわ」


 そう言い放つと、すっくと鴉は起き上がった。そして水浴びをした時のように、ふるふると体を震わせると、白っぽい土埃が辺りに舞い上がった。


「ああ、これでは自慢の羽根が台なしだ……おい」

「何だ?」

「土産がある。ほれ、手を出せ」


 不躾な鴉の言葉に、おれは仕方なく従うことにする。奴の目の前に手を差し出すと、咽をぐうっと上下させ、何やら小さな塊を吐き出した。ころり、と手のひらに転がったものは、いびつな黄ばんだ白い石のようなものだった。


「これは、何だ?」

 すると鴉はにいっと笑って囁くように、秘密だ、と意地悪く告げた。


「それで姉妹の願いでも叶えてやれ」

 その言葉の意味を一瞬理解できなかった。おれは首を傾げた。


「どういうことだ?」

 すると鴉は黒い塊になってぬうっと伸び上がり、すい、とおれの手のひらを指し示した。


「これを、飲み込め。明日の朝、あの姉妹が来る頃にだ」

 いいか、わかったな。


 そう言い残すと、鴉はさらに伸び上がってケヤキの枝の中に消えた。茜色の夕陽がつくる影を抱え込んだケヤキは、山のようにひっそりと静まり返っている。


 おれは握りしめた拳をじっと見つめた。

 奴はいつもそうだ。何を考えているのかさっぱりわからない。正直に「わからない」と言えば、莫迦にするような言葉を浴びせる。だからこっちだって、いちいち聞くのが億劫になってしまう。


「……何を考えているんだ」

 おれは奴に言えなかった言葉を、そっとため息とともに吐き出した。



 夜明け前、おれは社の屋根から地面にそろりと降り立った。姉妹が来る時間にはまだ早い。空を見上げると、社を覆うようにそびえ立つ木々の隙間から星が冷たく瞬き、白く輝く月が覗いていた。


 昨日の供え物は、鏡のように丸い氷だった。曇りのない澄んだ氷は、日が暮れる頃にはすっかり溶け切ってしまった。名残りに小さな水たまりだけが残って、今は石畳に再び氷の鏡が出来上がっていた。


 ふうっと息を吹き掛けると、たちまち水鏡のように輝いた。覗き込むとそこに小さな獣の姿が映った。


 これがおれの本当の姿。


 そのあまりのちっぽけな姿に苦笑する。

 ……それで姉妹の願いを叶えてやれ。

 鴉の言葉を思い出す。これでどうやって、さつきとなえの願いを叶えることができるというのだろう。これを飲めばあれらの兄が帰ってくるとでもいうのか。


「まあいい。飲めばいいんだろう、飲めば」

 言うことを聞かなければ、鴉の奴が文句を言うに決まっている。


「……それに」

 奴は無意味なことは言わない。それはよくわかっていた。


 おれは欠片を握りしめ、冷ややかに輝く月を仰ぎ見た。月灯りとはうまいことを人は言うものだ。真っ暗な夜闇を照らす白々とした輝きは、まさしく灯りというに相応しい。凛とした光は時に柔らかく、時に冷たく夜の地上を照らし出す。


 もし神様というものが本当にいるなら、月のように眩しくて、手の届かない所にいるに違いない。少なくとも、薄汚れ、年老いた獣のなれの果てではないだろう。おれは真直ぐに月を見つめると、挑むような気持ちで強く、強く願った。


 あの姉妹の願いを叶えてやってくれ。ほんの一時でもいい、幼く健気な娘達に、たったひとりの兄を返してあげてくれ。


 姉妹の兄、陣之介のことはよく知っていた。幼い姉妹の手を引いてよくこの社に遊びにきていた。姉妹が今もこの社を訪れるのは、そのせいもあるのだろう。幼い少年が大人びた口ぶりで、懸命に兄としての役割を果たそうとする光景は微笑ましくもあり、ほんの少し痛ましくもあった。供え物をして願いをかけるのも陣之介がやっていたことだった。


 年越し前には帰ってきます。

 村を立つ前日、陣之介はそうおれに告げた。そして、家で待つ母と幼い妹弟が元気でいますように。そう願いをかけて、奴は旅立っていった。


 再び家族と共に過ごしたいという陣之介の願いを、叶えてやることができなかった。そして、兄の無事を願う姉妹の願いも叶えてやることはできない。この兄妹に限ったことではない。いつだってそうだ。人々に神と言われながら、何の力もない。鴉の奴は「別にそれでいいんだ」と言うが、本当にそれでいいのだろうか。ずっとそう思っていた。


 だから。


 おれは欠片を口に含んだ。舌にざらりとした感触。飲み込むにはやや大きい欠片が何とか咽を通り、腹の中に収まった。


「…………」


 何も変わった様子はない。おれの体がどうかなるわけでもないし、辺りで何かが起こるわけでもなさそうだ。


「……鴉の奴、騙したか」

 おれはまだ暗い空を睨みつけた。だけど鴉を憎らしく思うよりも、奴の言葉を信じた自分が情けなかった。一瞬でもこれで姉妹の願いを叶えてやれると信じた自分が愚かに思えた。きっと今朝も姉妹はやって来るだろう。そしていつものようにこういうんだ。

 兄さまが帰ってきますように、と。


 ふと、空に浮かんだ月の輪郭がぼやけて見えた。おかしい、そう思って目を擦ると瞼が重たくなってきた。無理矢理こじ開けようとするが、糊でくっついたように動かない。


 そのうち目が開かないだけでなく、体まで重たくなってきた。立っているのか億劫だ。凍えた石畳の上にうずくまると、もう起き上がろうなんて思わなかった。

 眠い。眠くて眠くてたまらない。

 襲ってくる睡魔に逆らえない。体がどろどろに溶けて地面に吸い込まれていくようだ。


 ああ、なんて気持ちがいいんだろう。もうそれ以上、何も考えることはできなかった。

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