人間
暗い意識の中、瑠璃は気持ちの悪い揺れと息苦しさを感じた。不安の内に彼女は目を開ける。
そこは知らない場所だった。いや、知らないというよりも、何処なのか分からないと言った方が正しいのかもしれない。焦点が合っていないのか、景色が歪んでよく見えない。唯一見て取れたのは、足元の木板だ。だが、それも歪んでいる。
不思議に思いつつ、瑠璃は少し泳いでみた。間を空けず、ごんっと何かに額をぶつけた。何もないように見えたのに。これは――硝子? 瑠璃は、浅瀬で拾った小瓶を思い浮かべた。こんな壁のような大きなものは見たことがないが、そうとしか考えられない。その証拠に、顔を近づけてみると、向こう側の風景が見えるようになった。
木で出来た部屋だった。物置のようで、沢山の木箱が目に付いた。瑠璃は疑問に思う。木箱なのに、浮いていない。
その時、唐突に太く大きな指が目の前を這った。恐怖に変な声が漏れた。咄嗟に身を引き、ドンッとまた何かにぶつかった。硝子だ。後ろにも硝子の壁がある。
目の前の黒い人型から、くぐもった、獣の鳴き声のようなものが聞こえた。笑っている。そう一拍置いてから気づいた。それは、大きな人間の男だった。黒いマントと黒い洋服を身に着けていて。肌も浅黒く、顔は黒い髭に覆われている。恐怖を煽る風体だった。
男は硝子ごしにべたべたと手を押し付けると、瑠璃に顔を向けたまま周りを移動した。瑠璃がいたのは硝子で区切られたごく狭い空間だった。逃げ惑う内に、何度か体をぶつけ、そのたびに笑われた。怒りは生まれたが、それよりも圧倒的に恐怖のほうが勝っていた。逃げないと。瑠璃は警戒しながら、頭上へと目を向ける。下にもやはり硝子があったから、入り口は上だ。だが、焦っていた彼女は、最初そこに輝いている物が何なのか、判断出来なかった。
水面だった。理解と共に絶望に襲われた。人間の男が平然としているのだから、向こう側に水はない。硝子で作られた容器の中、僅かに水を張ったそこに自分はいるのだ。
逃げられない。暗い穴の底へと突き落とされた心地がした。だめだ。弱気になってはだめだ。そう振り払うのに、すぐに心を覆われてしまう。瑠璃は身を固めて、叫びを抑えること位しか出来なかった。すごく怖い。誰か、誰か助けて。ラウ――。
『なに遊んでんだ』
声が聞こえた。しゃがれた声だ。瑠璃を値踏みしていた男と、ほとんど見分けがつかない、同じ黒服の男だった。仲間なのだろう。男は硝子から顔を離した。
『様子を見てんだよ。お前こそサボってんじゃねえか』
『ああ? いいんだよ。どうせ動かねえ。案外もう死んでんのかもな』
新しい男は笑った。掠れた気味の悪い声だった。それにつられるように大男も笑った。
『勝手に死んでりゃ世話ねえな。やべえバケモンだって聞いてたが、ただの脅しかあ?』
『ああ言ってたな、魔術師だとかなんとか。何でも構わねえよ。空の国にいる王サマんとこに死体でも何でも持ってけりゃあな』
『ああ。それで人魚取り放題にしてくれるって言うんだ。空の王サマサマだぜ』
また笑いがおこった。もう耳を塞いでしまいたかった。でも、言っていることは半分も分からなかったけれど。すごく、嫌な予感がした。