泣かないで
ごうと水が唸った。尾鰭で水を打ち、瑠璃は先へ進んだ。数日ぶりの道だった。ずっと城に閉じ込められて、振り払う機会を窺っていた。彼が心配でならなかった。どうか無事でいて。近づくごとに、不安で胸が押し潰された。
「羅羽!」
岩場に出ると、瑠璃は呼びかけた。返事はない。いつもそうだった。けれど、怖くて何度も呼びかけながら進んだ。岩を抜けると、依然として檻が見え、その中に影があった。
「羅羽! よかった……!」
すぐに近づいて、勢いのまま瑠璃は檻を掴んだ。その時になって後悔した。何もよくなんてなかった。泡が小さい。上半身に纏わりついていたそれは、僅かに顔を覆うだけになっている。
一瞬、目の前が真っ暗になった気がした。
『君はまた――』
ラウの言葉で我に返る。咎めるような、呆れたような口調。だがそれはぶつりと途絶えてしまっていた。赤い双眸を見開いて、彼は瑠璃の顔を凝視している。瑠璃はその表情を見て、それから気がついた。視界が少しだけぼやけていた。
「ご、ごめんっ。大丈夫、だから」
目元を隠して、無意識に笑みを浮かべそうになった。だめだ。こんな状態の彼に大丈夫だなんて。
「……ごめんなさい」
歯を食いしばった。でも遅かった。力んだ手の中で、顔が崩れたのが分かった。一瞬で歪んでぐしゃぐしゃになった。肺が痙攣して、嗚咽が抑え切れない。しっかりして。こんな所見せられない。こんな状況で、自分ばかり辛い顔をして。「ごめんなさい」と、また言葉が零れた。 何を言っても言い訳になる。分かっているのに。
「ごめんなさい。わたし、全然知らなくて。何にも、何にも、出来なくて」
ごめん。本当にごめん。続きそうになる言葉を、なんとか飲み込んだ。同時にカツンと音がした。彼の足爪が鉄板に触れた音。水が揺れて、傍に来たのが分かった。気づいたら「なんで――」と、口にしていた。それを聞きたいのはきっと彼の方なのに。
お願いだから、もう喋るなって言って。言葉が止まらないから。
「もう、空に帰れないの……?」
『あの者はもう帰れぬのです』
『我が国の水は翼の奥深くにまで浸透し、二度と乾くことはない。その重みで翼は機能を失い、再び羽ばたくことはないでしょう。空の国は遥か上空。辿り着ける望みはありませぬ』
『そうでなくとも、一度捕らえた敵国の者を、生きて帰す理由など我らにはございません。ご理解くだされ。これも我が国の為なのです』
頭の中で言葉が渦巻いていた。
手の皮が擦れるくらい、瑠璃は強く檻を掴んだ。挫けずに頑張れば開けられると思っていたんだ。そうじゃなかった。この檻を開ける方法なんて始めからどこにもなかった。開かないように作られていた。この檻は開かないんだ。悔しくて悲しくて、でもそれ以上に申し訳なさでいっぱいだった。
自分の所為だ。水の国の王族なのだから、止められる可能性はきっと皆無ではなかった。あの時ああしていたら、もしかしたら、と何度も何度も情景を思い返した。きっと止められた筈なんだ。それなのに「なんとかする」なんて無責任なことを言って、過去の彼女はどこか喜んでさえいた。彼に会えて、話が出来て、傍にいられて、嬉しかったんだ。馬鹿だ。大馬鹿だ。
羅羽、ごめん。ごめんね。心の中で唱えた。
何にも知らないくせに、いつか会えたらなんて、願ってごめん。
『ルリ、泣かないで』
それは幻のようだった。脆く儚く、認識した瞬間に消えてなくなってしまいそうな。顔を上げると、ラウと目が合った。ちょうど、彼が所在無く手を戻す瞬間だった。細く、少し角ばった手。海族と違い、爪は長く鋭い。掴めばよかったと後から思った。でも、ラウが誤魔化すように微笑んで、それを見て単純に嬉しくなってしまった。
「思い出して、くれたの?」
瑠璃は嗚咽を飲み込んで訊いていた。それに、ラウは首を振った。
『君を忘れたことなんてなかったよ』
辺りが、すっと静かになった気がした。
『嘘をついてごめんね』
どうして? きっとそう顔に出ていた。「いいよ」ってすぐに言ってあげられたら良かったのに。ラウは少し目を伏せて、言葉を続けた。
『きっと、君が辛い思いをするって、分かっていたから――』
諦めたような声音。ラウは息を吐いた。
彼は全て分かっていたのだろうか。深刻な命の危機であることも。逃げることが難しくて、もしかしたら不可能なのかもしれないことも。例え逃げ出したとしても、その先にたくさんの辛いことが待っているということも。全部分かっていて、それを一人で背負って、これからもずっとそうする気でいたのだろうか。
『君は、忘れてくれてよかったのに』
そう言った彼は笑ってさえいた。放っておいた
らバラバラになってしまいそうで、見ている瑠璃自身も体が押し潰されてしまいそうな思いだった。
「いやだよっ」
反発的に返していた。ラウは目を大きくした。一番いい言葉なんて、瑠璃の頭では見つけられなかった。彼の気持ちを無碍にしてまで、言う権利なんてないのかもしれないけれど。
「忘れるなんて、いやだよ」
瑠璃は必死に訴えた。彼をたくさん辛い目に合わせておいて、こんな願いは我侭なのかもしれない。でも、傷つけるから忘れて欲しいなんて、そんな言葉は悲しすぎる。もし許されるのなら、彼の辛い気持ちを受け取って、少しでも減らしたいと心から思っているのに。
「……私、なんとかできるように、もっと頑張るから」
涙を拭って、笑ってみせた。ただの強がりだった。こんなことしか出来なくて、やっぱり自分は馬鹿だと思った。
「一緒に頑張るから」
長い沈黙があった。やがて、ほうと息を吐いてから、ラウは『うん』と小さく返した。その言葉を瑠璃は信じたいと思った。




