真の名
「姫様!」
城を突き抜ける乳白色の大廊下に、激しい声が響いた。誰かはすぐに特定できた。怯えや焦りを顔に出さぬようにして、瑠璃は振り返った。そんな彼女に、教育係である爺は、目の前まで詰め寄った。
「あれ程、深層を出ないよう申したではございませんか!」
「ご、ごめんなさい……っ」
瑠璃は気迫に圧されて謝っていた。爺は時に厳しく彼女を誡めたが、これほど強く言われたのは初めてだった。
彼はしばらく口髭を震わせていた。しかし、瑠璃の表情を見ると、我に返ったように息を整えた。この隙に弁解すれば良かった。気づいた頃には遅かったけれど。
十分に落ち着くと、彼は唐突に切り出した。
「あの者と会うのはお止めください」
全身から血の気が引いた。深層を抜け出して会っているのは、最近では一人だけだ。気づかれないように注意しているつもりだったのに。どうして知ってるの? どうしてラウのことを?
誤魔化すことすら出来ない瑠璃を残して、爺の言葉が忌々しげに続いた。
「あの者は空の王の配下。今は我が国の水が抑えておりますが、若くして強大な魔力を持つ、危険な魔人でございます。あのような汚らわしき身分の者など姫様は――」
「彼のことを悪く言わないで!」
水を振るわせる程の声だった。突然のことに、爺は目を見張っている。自分のものだと、瑠璃は遅れて気がついた。自分が自分ではないみたいだ。気持ちを抑えきれない。津波のように多くの言葉が押し寄せて――だが素っ気無かったラウの姿が浮かぶと、それは急速に引いていった。
「……羅羽は、いい人よ。爺やは知らないかもしれないけれど」
子供のように瑠璃は俯く。反論にもなっていない。無性に悔しくなった。そんな彼女の頭に、再び声が降ってきた。
「その名を口にするのはお止めください」
爺はそう誡めた。静かに、だが確固とした調子で。
「それは略称でございましょう。ラウの意味は罪。真の名は、アグディル・ラウリート。絶えることなき罪を背負う者。汚れた名でございます」
言い終わる頃には、瑠璃は顔を上げていた。言葉が頭に入ってこなかった。時間がかかった。きっと分かりたくなかったんだ。
絶えることなき罪を背負う者。それが名前? そんなの、おかしい。ラウは、とても優しくて、笑顔が良く似合って、物知りで、沢山のことを教えてくれて。今は、よくは分からないけれど、でも子供の彼はそうだったから。だから、おかしいのだ。そんなこと、ある筈がない。
「……しばらくの間、監視をつけさせて頂きます。どうかお許しくだされ。全ては姫様の身を案じてのこと。陛下も大層心配しておいでです」
爺の声が遠く聞こえた。意味はよく分からなかった。ただ、瑠璃は「いや」と言った。首を振って、「いや、いや」と繰り返した。爺は少しだけ苦しそうに顔を歪めた。
「姫様。お忘れください。あの者はもう――」