魔術
遠くなった瑠璃の姿を、ラウは少しだけ目で追っていた。情けない。彼は意図的に視線をそらす。これでいいんだ。これで。自身によく言い聞かせて、ラウはまた頭上を仰いだ。
波間は静かだ。ただ、何かが確実に違っていた。
『海の上を泳ぐ鯨がいてね。体が木で出来てるんだって。ふしぎだね』
瑠璃の話を聞いて、嫌な予感はしていた。それは恐らく人間の帆船だ。商船や貿易船が、偶然に、この近くを通りがかっただけならいいが、もしそうでなければ――。
あと何日持つ? そんな利己的な計算を振り払って、ラウは意識を集中させた。呼応するように瞳に光が宿り、海水を赤く染め上げた。忌まわしい、底知れぬ魔力が沸き立つ。彼は何百と記憶している祝詞の一つを呼び起こす。祝詞は鍵だ。相応の力を有していれば、それは念じるだけで魔の次元へと干渉し、現象をこの空間へと喚起する。
ラウの魔術が作り出したのは、小さな旋風だった。僕であるそれは、彼の意思に従い浮上した。支配者である彼には、その風の前に広がる風景が認識出来た。
光輝く海上。眩しい青空を背景に、想像していた物体がある。ニつの帆を持つ大きな船だ。距離は、随分と近い。
ラウは旋風を走らせた。もはや大きさは意味を持たなかった。周りにある空気が力に流され、その一部と変容する。小さかったそれは、瞬く間に波間を駆ける突風となっていた。
近づくごとに船の形が明確となった。側面と甲板には大砲。詳しくは知らないが、船底には仕掛けが施されている筈だ。この辺りを荒らす無法者の一群だった。彼らは金欲しさに、島の近海にいる幼い海族を攫い、国へ連れ帰る。だが、この近辺に島はなく、当然海族は現れない。
つまり、嫌な予想は的中していたということか。ラウは笑いたくなった。海族と違い、空族は僅かながら人間と交流がある。王族ほどの高位の者であれば、彼らを差し向けることも難しくない。海族の手に渡るくらいならと、あの者なら考えそうなことだ。なんて意地汚い。彼女を巻き込めば、傷つけるでは済まない。そんなことをさせる訳にはいかない。
ラウは僕を差し向けた。風は、猛獣のように船に食らいついていた。眼下で甲板が爆ぜる。間を置くことなく、ニつのマストが破壊された。悲鳴と破壊音。風の唸る声。幾つもの木板が剥がされ、宙を舞う。波間を荒らしながら、ラウは執拗に船を蹂躙させた。見た者が恐れおののき、近づく気すら削がれるように。何度も何度も――。
『……っ』
戻るのは、一瞬だった。視界にあるのは青い海の底と鉄の檻。見えない場所にあるだろう旋風は、支えを失い、数分も経たずに消滅するだろう。
ぼこり、と気泡が吐き出されて、ラウは息を止める。魔力を消耗した体はまるで石のようだ。うまくいうことを聞いてくれない。船に集中し過ぎたのか、彼を守る泡は、目に見えて少なくなっている。
長くは待たない。初めから確信していた。永遠と比べれば、きっとごく僅かな時間だ。だから――だから、どうかこの泡が消える前に、何かを知ってしまう前に、見放して欲しい。自分はもう諦めている。無用に傷つくだけだ。
青を湛える海水の向こうを見やる。彼女の姿はもうない。無意識に呟いた言葉も、決して届くことはなかった。
『もう来ては駄目だよ。ルリ』