転機
差し込む日の強さは、近づく夏を感じさせる。浅瀬を貫く陽光はやはり苦しく、それでも瑠璃は毎日通い詰めた。
「開け方、まだ分からないや。ごめんね」
顔を歪めて、瑠璃は笑った。違うとは分かっている。笑って言うことじゃない。なら、どんな顔で言えばいいのだろう。その答えは、どうすれば見つかるのだろう。
彼の辛さは、きっと彼女が想像する何倍も重い。それならば、せめて元気付けるくらいはと、瑠璃は明るく振舞っていた。意味もなく笑うこともあった。それは、きっとよくないことだ。
悟られないように、小さく唇を噛んだ。ラウはずっと無言でいた。それが何故だか怖くなった。
「羅羽?」
返事はない。
「息、苦しい? 大丈夫?」
大丈夫なわけがない。浮かんだ気持ちを、瑠璃はすぐに追い払った。もし、瑠璃が彼と同じ状態だったら、息苦しいでは済まない。誰がそうしたのか、泡が体に纏わりついているのだ。せめて口元くらいは空いていないと、呼吸が――。
瑠璃はすうっと近寄って、様子を伺った。ラウは一瞬だけ目を合わせたが、何も言わなかった。少し視線を落として、言葉を選んでいるようだった。
『空族は、水中では息が出来ませんから』
「え?」
水中ではって? 聞き返す前に彼女は気がついた。そうか。そうだった。海族は水の中に住んでいるけれど、空族は水の中に住んでいるわけじゃないんだ。
「ご、ごめん。気がつかなくて……」
『…………』
ラウが口を噤む中、瑠璃は自分の頬を擦った。
無知は充分理解しているつもりだった。空族に関しては交流も断絶しているし、そうでなくとも瑠璃に教えてくれる者がいない。それは、言い訳にもならないけれど。
水中では息が出来ない。だから、この国の水が怖いのかな。瑠璃が考えを巡らす傍らで、ラウは未だ沈黙を守っている。それがやはり変に思えて、瑠璃は気がついた。水中では息が出来ないのだから、状況は考えていたよりももっと悪い。
「じゃ、じゃあ――」
『大丈夫ですよ』
見通すように、ラウは言葉を遮った。しかし、簡単には納得出来なかった。彼は今、心もとない泡だけで息を繋いでいるのに、出来る筈がない。
「私、少しだけなら魔法を使えるから、ちょっとは役に立てると思うんだけど……!」
海族の魔力が芽吹くのは成人をしてからだ。本当は、少しと言っても、あってないような程度だった。でも、何もしないよりは、多少の手助け位になら、ならないだろうか。
懇願するように見詰めていると、唐突に視線が合った。そのまま、ラウはゆっくりと、言い聞かせるように言葉を続けた。
『僕は魔術が得意ですし、体も丈夫なので、大丈夫です』
いつもより優しい声音だった。お腹の下が小さくしぼんで、瑠璃は何も言えなくなってしまった。
「…………じゃ、じゃあ、何かあったら、言ってね?」
それだけ小さく付け加えた。何かってなんだろう。そう自分でも思った。
しっかりしないと。瑠璃は自分を叱咤する。
この数日間、情報を求めて、様々な人に聞いて回った。物知りな海亀にも。だけど、誰もこの檻の開け方は知らなかった。ただ一人にしないようにと、会いに来ることしか出来なかった。悔しくて、不甲斐ない。でも、挫けてはいけない。一番辛いのは彼の筈だから。
そういえば、ラウは――ラウは知らないのだろうか。ふと瑠璃は思う。ラウは、瑠璃が檻の開け方について考えを話しても、いつも何も言わなかった。助言も批判も、何も。だが、彼が捕らえられた時、檻は開いていた筈だ。それで出られるのなら留まる意味はないのだけれど、何か糸口にはなるかも知れない。
「羅羽――」
瑠璃はラウに呼びかけた。その時、初めてラウが立ち上がっていることに気がついた。白い毛が海水に撫でられ揺れる。彼は瑠璃の方には見向きもせずに、海面を見つめていた。不安がにじり寄ってくるのを感じた。
「羅羽?」
もう一度呼ぶ。ほんの数秒のことなのに、訪れた静寂は永遠のように感じた。間を置いてから、ラウはやっと顔を向けた。
『今日はもう帰ってください』
平坦な口調だった。突然で混乱した。何か気に障ることでも言ったのかな。思うと、一気に呼吸が億劫になった。見詰める瑠璃の前で、ラウは『いや――』と言葉を付け足した。
『やはり、もう来ない方がいいですよ』
いつも言われる言葉。いつもと同じように胸の奥が詰まった。瑠璃は唇を噛む。情けない言葉を口走らないように。次の語を返すまでに時間がかかった。
「――どうして、そんなことを言うの?」
『…………』
ラウは答えなかった。そして、目線を上へと戻してしまった。何かあるのだろうか。瑠璃も見上げたが、そこには眩しい陽光と青空が広がるばかりだ。
『はやく』
ラウが急かした。反論を許さない声だった。
「わかった……」
言って、瑠璃は唇を引き結ぶ。あの羅羽がこんなことをする筈はない。そんな意味のない思いが浮かんで、すぐに打ち消した。
後ろ髪を引かれる思いで、彼女は泳いだ。言い知れない不安は胸の奥に押し込んで。きっと助けるからと、心に打ちつけた誓いだけが、小さく彼女の背を押した。