選択
煌めきが見えた。青くか細い光だ。それに近づくようにラウは意識を擡げた。
激しい雨の音。肌の上を跳ねる、細かい痛み。自分の息遣いがすぐ傍で響いた。どうやら生を手放していないらしい。
どうして。そう問いかけても、自身の中に答えはなかった。記憶も殆どない。あの状況からどうやって脱したのか。奇跡でも起きたのだろうか。考えることを放棄した頭が、そんな投げやりな結論を返した。
視界が徐々にはっきりしていく。ラウはずっと青い光を見ていた。それは自分の掌にあるらしかった。命令から一拍置いて、手が反応する。感触は硬い。薄く、平たい物だ。それが何か、情報を探し当てるのと、焦点が噛み合うのはほぼ同時だった。
それは、青い鱗だった。
悪寒が走った。ラウは撃たれたように起き上がった。途端、太腿が鋭く痛み、頭が霞んだ。だが、それには構わなかった。砂浜に視線を巡らせると、探していた――ここにないことを望んでいたものが、近くで横たわっていた。
一瞬にして息が出来なくなった。重い体に鞭打って、ラウは近づき、それを抱え上げた。それは冷え切ったラウの体よりも冷たかった。
「ルリ!」
ようやく声が出た。呼びかけても、彼女は反応を返さない。まるで物のようだ。そんな考えが、更に心臓を締め付けた。
ラウは動いた。不恰好な歩きでも、海はすぐそこだ。そう時間はかからなかった。刺すような温度も、押し返す波も、全て振り払って、ラウは進んだ。倒れるように膝を折ると、海水は胸元まで押し寄せ、彼女の全身を水に浸すことが出来た。
髪を避ける指先が震える。細い肩を抱く手にも、変に力が入っていた。彼女は目を閉じたまま、やはり動かなかった。目を開ける気配すらない。
「ルリ……っ」
発した呼びかけは、子供のような声だった。縋ってもどうしようもない。それなのに何をすべきか考え付かなかった。どうして、という意味のない問い掛けで頭が埋まっていた。
彼女は生きなければならないのに。もし、どちらか一人しか生きられないのだとしたら、誰もが彼女を選ぶだろう。彼女の命の方が、ずっと重い。生きる価値のある人だ。それなのに、何故自分が生き延びてしまったのだ。答えは、もう分かっている。あの時、海に落ちた彼を、瑠璃が助けたのだ。あの激流の中、彼を連れて泳いでくれた。分かっている。分かっているのに、どうして、と自問せずにはいられない。そんな考え方しか、彼には出来ない。
「ルリ」
どうか目を開けて。ラウは彼女の頬を撫でる。あれ程恐れられた魔力も数ある祝詞も、大切な人一人すら癒すことが出来ない。なんてくだらない力だろう。彼女に息を吹き込むことも出来ないなんて。
ラウは瑠璃の体をきつく抱いて、何度も呼びかけた。絶望を振り払うように、何度も。どれだけの時間が流れたのか分からない。僅かだったか、永遠のようだったか。だが、それは不意に訪れた。
彼女の睫毛が揺れるのが見えた。
「ルリっ」
ラウが呼びかけると同時に、瑠璃は気泡を吐き出して、一度だけえずくように呼吸をした。
それから、彼女はゆっくりと瞼を持ち上げた。その青は重く沈み、瞳も定まっていなかった。ラウは覗き込むように見詰めていた。今になって、雨の波紋が酷く煩わしかった。
『……羅羽?』
小さく呟く声が聞こえた。それと共に彼女が手を動かして、ラウは迷わずその手を握った。瑠璃は少しだけ目を細めた。胸の奥が詰まる。そんな表情で笑わないで欲しい。何故だかとても悲しくなるから。
『ごめんね。首飾り、失くしちゃった』
はじめは何を言っているのか分からなかった。理解が及んだ時には、「そんなの」と勝手に口が動いていた。
「代わりなら、またあげるよ」
何を言っているんだろう。いつの話をしているんだ。ここで彼女は助かって、そうしたら、今は無理でも、必ず彼女を国へ送り届ける。それは、もはや使命ともいえるだろう。彼女に助けられ、そして、こんなに――もう泳げるかも分からない程、酷い傷を負わせた、自分の。だが、そこで彼の使命は終わりだ。彼女に会うこともない。それが彼女の幸せだと分かっているから。
『羅羽……』
囁くように、また瑠璃が呼んだ。そして、少しの間、目を閉じた。それだけで、ラウの中は不安で満たされてしまった。
「ルリ?」
震えた声に続いて、言葉が出そうになった。何もかも話してしまいたくなった。彼女と別れてからどんなことがあったか。どれ程、彼女のことを思って生きていたのか。まだ何も話していない。話さない方がいいことだ。再び別れる時に、彼女の優しい心を傷つけてしまうかもしれない。ああ、でもそれはいつのことだろう。
瑠璃が目を開いた。重たげに開かれた眼を見て、安心した。だが、それは間違いだ。彼女の灯火は、今にも消えてしまいそうな程にか細い。何か手を打たなければ。水の国へ帰すことが最善だが、ラウの残された力では叶わないだろう。しかし、魔力が枯渇したわけではない。皮肉にも、彼が気を失っていた時間、僅かに回復したそれが希望となった。何かできる筈だ。
彼の思考を遮るように、瑠璃は手を握った。弱弱しい力だった。この思いが力となったら、今すぐにでも彼女を助け出せるのに。そう願わずにはいられなかった。ラウは手を握り返して、ずっと彼女だけを見ていた。
『……わたし、もう離れたくない』
瑠璃の言葉は、心の奥まですっと落ちていった。かつて、彼が言わせなかった台詞だ。
『ずっと一緒にいたいよ』
そんなことを言っては駄目だ。君が思っているより何倍も、自分は汚いから。
「僕もだよ」
意図せず言葉が零れていた。発してしまうと、それはとても簡単なことのように思えた。頭の冷静な部分が、その術を導き出す。それを実行しようと、それしかないのだと思い浮かべる自分に、彼は少しだけ恐怖を覚えた。
提示したのは天の呼び声だったのか、それとも悪魔の囁きだったのか。彼には分からない。その選択が正しいものだったのかも、彼には一生分からないだろう。




