決意
『空の王の名の元に命ずる――』
どこかで厳格な声が響く。頭の中に響いて、揺さぶる声。耳を塞いでも、きっと逃れられない。
『その者を堕とせ』
その言葉を何度聞いただろう。
『その罪人を』『その男を』『その女を』『その子供を』『その老人を』
あと何度だ。あと何度これを繰り返せばいい。分かっているのに、何度も問いただしたくなる。感覚が鈍って、慣れていく自分に恐怖を覚えながら、何度も。分かっているんだ。期限なんてない。死ぬまでだ。どうせ、王は彼を手放さない。絶対的な支配の為には、強大な力が必要だ。一生を拘束し、道具として彼を使うだろう。今まで何度も、人々からの蔑みの言葉を、憎悪の視線を浴びた。これからも浴びることになる。一生か。長い。どの位だろう。まだ足りないのか。もういいんじゃないか。
『羅羽』
そう彼を呼ぶのは、もう世界で彼女だけだ。きっともう忘れてしまっているだろう。心の中にあるのは、彼が作り出した幻想でしかない。でも、会いたい。彼女に会いたい。そうしたらもう、全て終わらせられる気がするから。
ふと気づくと、頬にざらついた鉄の感触があった。窓を叩く風の音。船底に打ち付ける波と海鳥の声。不鮮明ではあるものの、周りの情報を耳が拾う。頭が覚めるにつれて、狭い倉庫と、そこに置かれた見覚えのある鉄檻が思い浮かんだ。その檻の中にラウは横たわっているのだ。ここは現実だ。そう確認できた。
それと共に、猛烈な寒気が彼を襲った。海水に冒された体は未だ湿っている。水の国の“魔の水”だ。一生乾くことはないだろう。翼は重く圧し掛かり、もはや自由を奪う枷でしかない。身体も泥に埋まるようだ。目を開けることすらままならなかった。
海族の水に触れたら、二度と空を飛ぶことは叶わない。一瞬だけ言葉が頭によぎった。空族なら皆が理解している、常識だった。
どうでもいいと思っていた。元々戻るつもりなどなかった。全て嫌になって逃げ出してきたのだ。行く宛てもない。どこで死のうと構わなかった。ただ、最後だからと訪れたあの島――彼女と出会ったあの場所で、海族に捕らえられることになるとは誤算だった。だが、それも大した出来事ではなかった。誰に利用されようと、どうせ死んでしまうのだから。想定外の場所、ただそれだけのことだった。彼女に会うことさえなければ。
彼女はやはり傷ついているだろうか。突然に姿を消して、戸惑いながらも探しているのかも知れない。あの海域はまだ危険だというのに。言って聞かせればよかったのだろうか。それも今更な話だ。いつかはこうなっていたのだ。歯切れの悪い別れが、いつかは訪れていた。彼の緊張と魔力が途切れるか、続くか、それがいつなのか。ただそれだけの違いだ。それに少しだけ邪魔が入った。それだけのこと。
もう、いいだろう。もう十分、彼女と接しただろう。すぐにとはいかないかもしれないが、きっと彼女は立ち直る。話を聞いていれば分かった。大勢の人が彼女を愛し、支えている。彼女は大丈夫だ。だから、もう終わりにしよう。
苦しみが遠のいていくのを感じた。体の重みも、かえって心地いいくらいだ。意識は霧に包まれ、まどろんでいる。落ちていく感覚がする。あとは、時間が経つのを待つだけだ。それだけだと言うのに、何処からか笑い声が響いてきた。
野太い下卑た声だった。船員が二人、何か話しているようだ。うっとうしい。どうせ、彼には関係ない、どうでもいいことだ。それなのに、依然として聴覚は衰えることなく、嫌がらせのように音を捉えた。青い、髪。若い。上物。数個の単語だけ頭に入った。何の話だ。いつまでも止まない声に不安を覚え、ラウは意識を擡げる。ちょうどその時、焦点が合わさったかのように、鮮明に声を拾った。
「海族の女は高く売れるからな」
一瞬で意識がはっきりし、苦しみが重みが冷気が纏わりついてきた。鼓動は速くなり、息は荒くなった。
そうか、まだ死ねないのか。
ラウは確信した。言葉を整理し、考えるよりも早く、彼の体は反応していた。そうだ。そんな無用心な海族は、子供を除けばきっと一人だけだ。
生きよう。それで彼女が救えるのなら。
どれだけ羽が重く、動く事が出来なくても。例え、醜い姿に、この身を堕とすことになっても。




