三.秀でて生きる
どうしても優劣をつけなければならない時は、己の価値観で決めること
―良い子の心構え―
岸秀生は、今まで自分が思い上がった人間だなどと一度たりとも考えたことはなかった。秀生は、成績やスポーツテストの成績がいつも校内首位であることは当然だと思っていた。彼にとって、福山雅治風の流し目をできるのは、眉目秀麗な両親から受け継いだ美点のひとつに過ぎなかった。いちいち自分の魅力を誇示しようとしなかったし、周りが勝手にもてはやしていたので、その必要もなかった。むしろ、年齢が上がると共に騒がしくなる周囲に苛立つこともしばしばあった。
その日の朝も「岸君は、普段どんなことしているの」とクラスメイトの若山有紗から得体の知れないメールが届いた。クラスの連絡かと思い、一度はメールを開いたが、内容を読んだ秀生は、躊躇もせずメールを消去した。そもそも、秀生は、女子にメールアドレスを教えない主義だ。当然有紗にもメールアドレスを教えた覚えはなかった。どうせ、同じくクラスメイトであるお調子者の奥村が、勝手に教えたのだろう。秀生は、有紗と奥村両名を受信拒否の設定にすると、携帯電話をベッドの上に放り投げた。
時計を見ると、午前九時だった。曇った空のせいか、八月のわりに涼しい朝だったので、秀生は、ランニングに行くことにした。夏休みはいい。鬱陶しくつきまとう同級生に会わずに自分の好きなように時間を活用できる。軽くシャワーを浴びた後、ジャージに着替えていると、姉に声を掛けられた。
「ランニング行くの?」
「ああ」
「いつ帰ってくるの?」
「一時間後」
朋美は、「ホント愛想のない奴だな」とぼやいた。
「晃君の姪が、九月からヒデ君と同じ中学校に通うことになったの。まだ会ってないよね」
「ああ」
「授業の進度を気にしていたから、今日勉強会をしようと思ってさ。同じ学年だし、ヒデ君も参加してよ」
秀生は、あからさまにうんざりした顔になった。
「教科書とノートは勝手に使っていいから、ふたりでやってくれ」
すると、朋美は、秀生の頭を拳でゴンと叩いた。
「転校生には、優しくしてあげなきゃだめじゃない。ちゃんと、ランニングから帰ってきたら、参加してもらうからね。ちゃんと一時間で帰ってきてよ」
秀生は、返事代わりに片手を上げると、家を出た。同じ年の女子と勉強するなんて、考えただけでゾッとした。一時間で帰るつもりは毛頭なかった。
結局、秀生が帰宅したのは、正午を回った後だった。家に入ろうとした時、ちょうどお客が帰るところだった。小柄な少女は、門のところで秀生に気がつき、小さく会釈した。秀生は、相手が話しかけてこなかったことに安堵しながら、会釈を返した。少女は、素っ気ないほどの短髪で、丸いフレームの眼鏡を掛けていた。隣に住む新田晃の姪にしては、ばかに地味な子だと思った。
さて、九月。夏休み明けの校内模試は、特に難しかったわけではない。秀生は、普段通りの出来だと思っていた。そんなわけで、模試の結果を見た時、自分の目を疑った。順位の欄に二位と記されている。自分よりも勉強できる人間が校内にいただろうか。秀生は、首を捻った。誰が首位だったのかと担任に聞きに行くと、こっそり教えてくれた。
「一位は、田賀だよ。お前とは、たったの五点差だったけどな。転校生といえでも、俺のクラスに模試の一、二位がいるのは、気分がいいもんだ。これからも切磋琢磨して頑張ってくれよ」
秀生は、優等生らしく「ハイ」と答えて、職員室を出た。窓の外を見ると、校門から出ていく田賀良子の小さな背中が目に入った。ふと、田賀良子と話がしてみたくなった。追いかけてみようか。
秀生は、足が速い。運動部に所属しているわけではないが、ほぼ毎日ランニングしているので、自然と俊足になった。田賀良子は、ゆっくりと歩いていたので、秀生は、すぐに少女に追いついた。一緒に帰ろうと言うと、良子は、秀生を意外そうに見上げたが、にっこりと笑った。同じ帰り道なので、お互い遠慮することもなく、ふたりは、並んで歩いた。
「クラス慣れたか」
「うん。杉本さんと仲良くなったんだ。他の子達も優しくしてくれるから、もう大分慣れた」
良子は、にこにこしながら、答えた。頬を赤く染めたり、どもったり、きゃっきゃとやたりに笑い声を上げたりしないので、秀生は、不思議だった。
「姉さんに勉強教わりに来ていたよな。あいつ、大学に入ってからちっとも勉強していないようだから、あんまり意味なかっただろう」
「得意の数学を丁寧に教えてくれたよ。岸君のノートも見せてもらった。綺麗な字だね」
良子は、相変わらず、ほのぼのと微笑んでいる。秀生は、苛々してきた。
「家で何時間位、勉強しているんだ」
「五時間。七時から十二時まで」
「毎日か」
「毎日」
良子は、笑顔で請け負った。秀生は、ほとんど喋らなくなった。良子もにこにこしているだけで、特に話しかけてこなかった。隣り合った二軒の家にふたりが着く頃、秀生は、すっかり良子が嫌いになっていた。